退屈な読書
ホメロスの「イリアス」を読んでいる。「イリアス」のようなタイプの作品は自分は苦手なのだが、我慢して読んでいる。
正直、この手の読書はかなり退屈である。しかし「イリアス」と「オデュッセイア」は自分の中の『いつか読まなければならない本リスト』の中に入っているので、読んでいる。
「イリアス」を読んでいるのは、旧約・新約聖書の方も勉強しているので、古代人の世界観を知る為というテーマもある。古代人にとっての神は何を意味していたのか、感覚的にわかる為に読んでいる。
こうした読書は退屈だが(途中から楽しくなるパターンもあるが)、自分にとって必要なのでやっている。
私のリスペクトする人には、一つの共通点がある。それは、「好きじゃなくても必要ならばその本を読む」という姿勢を持っている事だ。
これは読書というものにおいては大切なポイントであると思う。というのは、そういう姿勢の持ち主だけが、「自分の好悪を越えた教養」を手に入れられるからだ。
私の知っているある人は、マルクスが嫌いで、大嫌いで、その為にマルクス全集を読んだらしい。そこまでする必要はないかもしれないが、「マルクスが嫌いだから、マルクスを読まない」というのと、「マルクスが嫌いだから、マルクスを読む」というのは違う姿勢だ。
もちろん、世の中には好き嫌いで片付けていいものは沢山ある。というか人々が議論しているほとんどのものはそうだ。エンターテイメント作品とか、テレビのバラエティ番組は好き嫌いで片付けていい。だが、そうした世界しか知らない人達が、古典作品をも「好き嫌いでいいんだよ」と言っているのを見る事がよくある。古典は好き嫌いで片付けられない。だからこそ「古典」なのだ。
そういうわけで「退屈な読書」というのは、読書家にとっては必要だと思う。それをくぐる事で、自分の好悪の世界の外に出られるからだ。
ちなみに私が今まで一番しんどかった読書はミシェル・フーコーの「言葉と物」だった。「言葉と物」は、私が二十歳の時に(これからは今まで避けていた難しい本も読もう)と決めて、知っている限り一番難しい本を選んで読み始めた。
「言葉と物」を読み切るには何ヶ月もかかり、読み切っても、フーコーが何を言いたいのかさっぱりわからなかった。にも関わらず(とにかく自分はこの難しい本を読み切ったんだ)という自信がどこからか湧いてきた。その次からは難解な哲学書にも普通にトライしていけた。「言葉と物」の次に何を読んだかは覚えていない。人が覚えている事は大抵、辛かったり苦しかったりした事に限られる。




