夢にて出会う
明晰夢、と言うものを取り扱った作品です。
私はたまに同じ夢を見る。気づいたら私は夕暮れの駅前通りに一人で立っていて、周りには誰もいない。普段ならば昼も夜も賑わっているはずなのに、誰も。そしていつも見る景色よりもずっと古ぼけていて、少し朽ちた感じさえする。まるで終末の世界にでも紛れ込んだかのような虚無感をいつも覚えずにはいられない。そこで私は何かから逃れようと駆け出す。足が速い方ではないのだが、夢の中では特に走られなくなるのがもどかしい。まるで泥の中をもがいているかのようで、歩いた方が早いんじゃないかとすら思える。
駅前通りを少し走ってコンビニの手前で右の路地に入れば、現実ではありえない地下道が出現する。ぽっかりと大きな口を開けた不気味で薄暗いそれはいつもの私ならば入るなんて考えられないのだが、夢の中の私はそこが助かる唯一の道とばかりに飛び込む。薄暗いトンネルを抜けると今度はどこかの民家の押し入れの中につながっており、土足のまま二階のベランダへと出る。そこから隣の家に何故かかかっている木製の古ぼけたつり橋を渡ると、階段を下りて寂れたリビングへ出る。シミの付いた壁にけば立った絨毯、埃っぽいテーブルには欠けたマグカップが置かれてある。そこを私は汚いとか思いもせず、周囲を確認してから大きな窓ガラスを開けて外へと出る。ここまで誰にも会わない。ただ、何かに追われているという焦燥感だけが私を突き動かしているのだ。
外は一層暗さを増し、街灯もほとんど機能していないため、遠くが見えなくなる。現実の駅前通りのにぎやかさはどこへやら、私はまるで昭和三十年代の住宅街にでも迷い込んだかのような景色を目の当たりにする。舗装されていない道路、チカチカと切れかかている街灯に群がる無数の虫、木製のコールタールを塗ったような黒っぽい電柱、そして古びた民家。見知らぬ土地に来た不安がいつも込み上げるのだが、これは常に感じる夢の中の感覚。私は導かれるまま街灯を頼りに走り出し、黄色い屋根の商店を右手に曲がると民家と民家の間に下へと降りる階段があり、その先には大きな鉄扉のついた地下への秘密通路にたどり着く。
私は持っていた鍵で中へと入り、通路の中をひたすら走る。ほとんど明かりも見えず、薄暗いそこは現実では絶対に気持ち悪い虫とかネズミなどの害獣がいるため前に進むなんてできないのだが、夢の中の私はそんなの気にせずに走り続ける。そうして突き当りにある扉をくぐれば、更に非日常な光景。もちろん見たことは無いのだが、まるで漫画などに出てくるエイリアンの宇宙船の中のように薄暗い部屋の中でブルーライトの道筋が見える。急に空気も変わり、もう追われている感覚も消え失せる。そしてこれまた近未来的なドアの前に来ると、フィンと浮遊感のある空気を切り裂くような音を出して勝手に開く。開いた先の部屋は少し明るく、中に一人の女性が立っている。
綺麗な女の人、会う度にいつもそう思わざるを得ない。肩までの茶色い髪に涼し気な眼差し、鼻筋も綺麗に通っており、どこか濡れたような唇が妙に魅惑的。スーツのようなドレスのようなものを着ているが、夢だからなのかいまいちよくわからない。ただ私は彼女の顔だけをじっと見つめていた。そうして彼女も。他に誰もいないこの空間で、私は彼女に話しかけていた。そして何か一生懸命話してから、彼女が口を開く。そして私は……。
いつもここで目が覚める。眠い目をこすり、私はまたいつもの夢だと苦笑しながらベッドから出るが、すっきりとしないままだった。一体夢の中の彼女は何と言っているのだろうか。この夢を見るとそればかりが気になり、また夢の中でたくさん動いているのを覚えているからか、あまり寝た気がしない。
最初は同じ夢を見ることに興奮もした。珍しい事もあるもんだ、もしかしてあの時の夢の続きなのかもしれない、いや同じ夢を見てるに違いないと。三回も見れば走りながら曲がったり登ったりするところを覚えるもので、ぼんやりと頭の中で地図が書けるかもしれないとすら思えた。ただ、最後の女の人と会うところはいつも曖昧だ。私が何か夢の役柄の台詞を喋っているような気もするし、そうでない気もする。そして彼女の言葉もわからないまま。最近では目覚めるとちょっとだけ憂鬱になる事も増えてきた。
「それってきっと何か意味があるんだよ」
仕事も昼休憩に差し掛かると、私は同僚の長谷部さんを誘って社員食堂に繰り出していた。そして相談事があるから話を聞いて欲しいとお願いし、昼食をおごったのだった。
「やっぱりそうなのかな」
「うん。同じ夢を見るってのは予知夢だったり、自分への警告だったり、強いストレスなどから来ることが多いんだよ。槇原さんって感受性強い方?」
「うーん、まぁ、どっちかち言えばそうかも。きっとそうじゃなかったら、夢なんか覚えていないし気にもしていないだろうから」
「そうだよね、そうだよね。だったら尚更、同じ夢をよく見る傾向にある人だよ」
長谷部さんは夢占いに詳しいというのを以前本人から何かのはずみで聞いた事があった。その時は特に気にもしていなかったのだが、今の私にとっては何よりも大きな助け舟だ。また長谷部さんも自分が得意としている事で助けを求められたからか、普段話す時よりもかなり熱がこもっている。
「まぁ、何かから逃げるってのは不安とかストレスの表れだって言うしね。でも、最後の女の人が意味わからなくてさ。今まで見たことも会ったことも無い人だから。それに、何か言ってるみたいなんだけど、いつもそこがわからないまま目が覚めちゃうの」
「だったら、明晰夢を見る訓練をしたらどうかな」
「なにそのメイセキムって?」
聞いたことも無い言葉に私は首をかしげるしかなかった。
「まぁ、簡単に言えば夢の中でこれは夢だって自覚することだよ」
「なにそれ、そんな事できるの?」
夢を見ている時にこれは夢だとか、そんな事ができるのだろうか。にわかには信じ難い話であったが、長谷部さんの真剣な眼差しで私はそれきり真摯に耳を傾けた。
「例えば、夢を見ている時に現実ではありえない事が起こるよね。寝ていたはずなのに買い物しているとか、有名人と会っているとか、見おぼえるある所が急に変わっているとか。そういうのに出くわしたときに、あれおかしいな、もしかしたらこれは夢かもしれないって違和感を覚えられると、これは夢だって思えるらしいよ」
「でも、それができないから夢なんだよね?」
「それがねぇ、訓練次第で可能らしいのよ」
「ほんとに?」
やはり信じがたい話だったが、長谷部さんは真剣な眼差しでじっと見つめてくる。嘘と決めつけるにはためらってしまうその視線に、私は唾を飲み込んで彼女の言葉を待つ。
「やり方は簡単で、目が覚めたら夢を思い返すの。記録を付けてもいいみたい。なるべく詳細に思い出して、それをしっかり覚えるの。その気になる夢の他に見るのも、全部。そうすると徐々に夢の違和感に気付くらしいんだよね。その違和感にはっきり筋道立てて気付けたら、夢の中で夢だってわかって自由に動けるの」
「そんなのできたらすごいじゃない。夢を自由にできるなんて、最高でしょ」
「でもね、これには注意点もあって」
声のトーンが下がると、思わず私達は少しだけ顔を近づけた。
「夢の中で夢だって気付いても、考えたら駄目なの。興奮するのも駄目」
「どうして?」
「考えたり興奮したりすると、脳が活性化して目覚めちゃうの。夢を見るってのはあくまで寝ている状態だから、脳を落ち着かせておかないと駄目なのよ。つまり半分寝ながら思い通りの事をする、あれこれ考え込まないで寝ぼけているように進めないとならないの」
「難しそう……」
絶対夢の中で夢だと気付けば自由にあれこれやりたいと考えてしまう。怖いオバケが出てきても夢だと思えば消せるし、なんなら空も飛べるだろう。だけど考えずにそれらを行うなんてできるのだろうか。それこそ座禅でも組んで精神統一でもしないと無理なんじゃなかろうか。
「ところで長谷部さんはできるの、それ」
「私はまぁ、うん、色々やってみたんだけどね」
長谷部さんは急に言いよどみ、気まずそうな顔をした。
「無理だわ、あれ。そもそも私、性格なのか夢だって気付かないのがほとんどだし、気付いた時もてんぱっちゃって、あわあわしてるうちに目覚めちゃうんだよね」
「やっぱりそうだよね」
ただ、それでもやってみる価値はある。これまでは目覚めても肝心なところを覚えておらずモヤモヤしていたが、夢の中で夢と気付けばもう少し覚えておけるかもしれない。むしろ会話だってできるかもしれない。方法は単純だ、あとはこれを継続していけるかどうかだ。
それから私は毎日、夢日記をつけるようにした。例の夢を見ることがあれば、どんな道を通ってどこを目印に曲がったのか地図を付けたりもしたし、他の夢であっても内容や出来事を覚えている限り詳細に記入した。そして寝る前には私は今から自分の布団でパジャマを着て寝るんだと強く意識してから眠りに入った。そうすることによって夢の中で、例えば高速道路を運転していたとしても、直前の行動は睡眠に入るところだったと思い出しやすくなるとネットで読んだからだ。
効果は二ヶ月くらいしてから出始めてきた。最初は夢の中で何かから逃げている最中だった。見慣れた街並みだったけれども、私の隣で一緒に逃げているのがハリウッドスターだったため、これはありえないと気付けたのが始まりだった。ふと立ち止まり、確か私は赤いパジャマを着て布団に入ったはずなのに、どうしてこんなところを走っているのだろうと疑問が芽生えたのだった。思い返してみても、家を出た記憶も無ければハリウッドスターと仲良くなった記憶もない。ましてや最後に時計を見たのが夜の十時半だったはずなのに、気付いた時には夕暮れだった。時間的にもおかしいと思えた時、やっとこれが夢だとわかった。
そしてこれが夢だとわかった時、まず空を飛ぶことができるのか試してみた。けれど、どうやって飛べばいいのかわからず、それは叶わなかった。次に私はすぐ目についた近くの雑貨屋に入り、憧れの俳優と出会えるように願った。そこには何人か店員と客がいたけれど、みんな顔がぼんやりとしていた。夢の力を信じ、私がその俳優の顔を強く思い浮かべ、後ろからハグしてもらおうと思っているとだんだん世界がぼんやりと白んでいき、壁と地面の境界線も薄れてきたところで……目が覚めた。
目覚めてから二度寝しようと思ったのだが、よく考えるまでもなくその日は出社日だったため、しぶしぶ布団から這い出た。しかし夢の中で夢だと気付けたのを覚えていられたのは私にとって久々の高揚感を味わえた。それと同時に課題もはっきりした。
それはやはり夢の中であれこれ考えすぎてはいけないという事。聞いていたはずなのに、どうしても自分の欲求を優先させ過ぎてしまい、目覚めてしまった。何かをするにしても、ぼんやりと寝ぼけたように動く方がいいだろう。また、例の夢で覚醒できれば何度かに分けて目的を達成するのがいいかもしれない。
目的、それは何度か見る夢で最後に会うあの綺麗な人が、私に向けて何を話しているかだ。
どうしても妙にそればかりが心に引っかかる。所詮夢だと思えばそれまでなのだが、何度も見ていれば私に何か重大な事を告げたいのかとすら思えてきてしまう。元々私はそんなに信心深くないし、オカルトの類も信じない。占いだって自分の星座とかが結果良ければちょっとくらい信じる程度だ。そんな私がとも思うのだが、やはりこれだけ続けば何かあるのかもしれないと信じてしまうのも事実だ。
そんなある夜、何度か明晰夢を見る事に成功してから初めて例の夢を見ることができた。
いつもの駅前通りを逃げている時に、何故逃げているのかふと疑問に思えて、これが夢だと立ち返ることが出来た。けれど先に進むためにいつもの道を走る。現実の駅前通りとは違った、つぎはぎのような通りを進み、右折する。そうして地下道への入口を目にする。どこか見慣れたそれはふと気づけば、昔見た映画のワンシーンに出てくる地下通路への扉と一緒だと思い至る。思えばどれもこれも、古さはあるけれども実体験の古さではない。記憶の中での古さだ。私は慣れた道順を通り、最後の部屋まで駆け抜ける。
近未来的な空間の奥に、あの女性はいた。スーツのようなドレスのような、よくわからない服装なのは相変わらずだ。ぼんやりとしてよく見えないので目を凝らして一体どんな服なのか見ようと思ったが、やめた。こんなところで脳を使って覚醒してはもったいない。すっと顔を上げ、その涼し気な眼差しをしっかりとらえる。
「貴女は一体誰なの? 名前は何ていうの」
「私はモリヤスミ。貴女を待っていたの」
見た目からやや低めの声を想像していたのだが、思っていた以上に高い声で驚いた。
「私を待っていたって、どういう事。私、貴女を知らない。一体どうして私に貴女が何の関りがあるわけ?」
「私は貴女を見てきた」
「私を見てきたって、どういうわけ?」
一体どこで見られていたのだろうか。そもそも夢に出るって事は私もどこかで見ているはずなのだが、全然覚えが無い。もしかしたら私が気付いていないだけで、何度も会っているのだとしたら……しまった。
興奮してしまったからか、気付けば目の前の女性も空間も白んで消えかけていた。私は慌てて落ち着こうと思ったが、もう遅かった。世界の全てが無くなっていくのと同時に体に質量が与えられるのを感じ、気付けば重たいまぶたをうっすらと開けていた。部屋の中はまだ暗く、時計を見れば午前四時半。まだ早いと寝直すが、同じ夢は見られなかった。
その日から私は今まで以上に周りの人に気を配った。社内の人間はもちろん、取引先や出先で会う人達、またスーパーやコンビニの店員さんにまで神経をとがらせた。けれどあの夢に出てくる彼女と同じ顔はいない。
一方的に私を見ているって事なのだろうか、もしかしたらストーカーなんだろうか。いやでも、別に美人でも可愛くもない私にそんなのいるはずもないだろう。学生時代はクラスの男子の話題にも上らず、社会に出てからも私に好意を寄せている人がいるだなんて噂も耳にしたことが無い。飲み会には一応誘われるけど、本当にただ飲んでおしまいだ。
でもストーカーってそういうんじゃないんだろうな。向こうが好きでさえあれば私が自分をどう思おうと関係ないし、ずっと狙ってくるのだろう。私の友達で学生時代にストーカーされたって人がいたけど、話を聞くだけで怖かったし、大変そうだった。最初はモテないよりはそういうのでもいいんじゃないかとか、とにかく物凄くお気楽に考えていたのだが、そんなものではないと分かった時にはただただ恐怖しかなかった。
いや、あの人をストーカーと決めるのは早計だ。でも、本当にどこで会っている人なのだろうか。
私は再び同じ夢を見ると、また近未来的な部屋の奥でたたずむ彼女の前に立てた。同じ質問をするのは無駄だとわかっているので、新たな質問を投げかけようと寝る前から決めていた。そして深入りせず断片的にでも情報を集めて、起きてから整理しよう。
「ねぇ、私を見ているのはどこから見てるの?」
「貴女が定期的に会いに来るから」
……私が会いに行く? 定期的に?
「一週間に一度?」
「ううん」
「一ヶ月に一度」
「それくらい」
……一ヶ月に一度の行為を調べなおそうか。
「じゃあもし、会ったら貴女は私に何か伝えられる?」
「直接は無理。だけども、合言葉なら」
「合言葉?」
そこまで聞くと、またも世界が薄らいでいった。
一ヶ月に一度くらいの頻度で行っている所とは何だろうか、私は思いつく限りノートに書き記した。定期的に行くのは肩こりがひどいためマッサージに通っている。また、猫カフェなんかも月に一度か二度行っては癒されている。 映画館も月に一度か二月に一度の頻度だし、その際に寄る喫茶店も決まっている。デパートでの総菜もそういえばそのくらいの頻度で買う事もあるかもしれない。こうして考えてみれば、案外月に一度くらい行うことは少なくは無いと気付かされる。どこに手掛かりがあるのだろうか。
「どう、夢の方は」
浮かぬ顔をしていた私を見かねてか、長谷部さんがお昼でも一緒にしようと誘ってくれた。最初に夢の相談をした相手だ、私も変に気を遣うことなく話すことが出来る。
「ちょっとは明晰夢を見ることができるようにはなったけど」
「上手くいかない?」
手にしたお茶を置きながら、長谷部さんは心配そうに顔を寄せてきた。私は小さく頷き、ため息をつく。
「うん、そうなの。何度も見る夢の最後に出る女の人に会って、何回か会話をしてその内容を覚える事はできたんだよね。名前も一応教えてくれたし、月に一度くらいの頻度で会うらしいってのまではわかったんだけど、それがどこなのかがわからないの」
「もう一度夢で訊いてみたら?」
「そのつもりなんだけど……」
果たして次もしっかり質問できるかという自信は無い。そもそも、百発百中で明晰夢を見れるわけではない。次に明晰夢としてみることが出来て、かつ的確な質問ができるのは明日かもしれないし、数ヶ月先かもしれない。元々が不安定なものだけに、未来の保証が一切ないのだ。
「まぁ、言いたいことは分かるよ。だって夢だもんね、何の確証も無いものにあまり動くことなんかできないもんね。時間の無駄になっちゃう」
「そうなんだよね。でも、気にはなる……困ったなぁ」
ため息で冷ましたうどんをすすると、味気なさが口の中に広がった。
「かと言って、そういう専門家のところへ行くのはさすがに、ねぇ。まぁ、最初にあれこれ言った私が言うなって話かもしれないけど、夢なんだからあまり気にしない方がいいよ。その会話だって、自分が作り出している都合の良い妄想かもしれないんだしさぁ」
長谷部さんの言うとおりだ、あまり気にしなければいいだけだ。所詮夢なんて自分の脳が作り出した幾つかの記憶の寄せ集めなのだから。眠る直前、今日、三日前、一週間前、一ヶ月前、半年前、五年前などが複雑に絡み合い、荒唐無稽なストーリーでも自分が体験したことだから違和感なく受け入れられてしまうんだろう。だからあんな女の人の事なんか忘れて、気晴らしでもするのがいいんだ。そうだ、もうやめよう。
「あー、うん、もうやめた。気にはなるけど、気にしないようにする」
「まぁ、その方がいいんじゃない」
先に食べ終わっている長谷部さんはのんびりお茶を飲みながら頷く。
「だから、気晴らしにちょっと今日付き合ってくれない?」
「いいけど、どこに」
「いつものネイルサロン。こういう時はいつもと違った色にすると自分も変わった気になれるからさ」
仕事終わり、私達はいつものネイルサロンへと足を運んだ。私自身、化粧はあまり得意ではないからか、プロにやってもらえるネイルはとてもありがたかった。おまけに今日明日駄目になるものでもないし、一定の期間その可愛さや綺麗さが続くのも良い。
「いらっしゃいませ、本日はいかがいたしましょう」
丁寧に頭を下げるのは私をいつも担当してくれるネイリストさんだ。女の私から見ても綺麗な顔立ちをしており、羨ましく思える。他の人も腕は良いのだが、この人の発色が私の好みにあっているので何となくお願いしているうちに、自然とお店の方から私につけてくれるようになった。
「ちょっと暗い気分を変えたいから、明るめの色にしたいんですよ」
「では夏色ブルーをベースにした紫とピンクのマーブルなんていかがでしょう。こんな感じなんですけれども」
渡された見本を私はじっくりと見詰める。確かにいつものよりは少し派手だから、課長に何か言われるかもしれない。いやでも、これはかなり綺麗な色合いだからいつもの単色にするのはもったいない気がする。折角気分を変えに来たのだ、思い切ってやるのがいいかもしれない。それに別の課の子はもっと派手なのをしていたから大丈夫だろう。
「これでお願いします」
「かしこまりました」
そうしてネイリストさんは作業に移る。人によっては作業中もずっと喋っている人もいるけれども、この人は黙々と仕事をしてくれるのも好感高い。じっと俯いて作業をしているその姿にプロフェッショナルを感じるのと同時に、ふと思い至ることがあった。
……あれ、そういえば夢に出る人と同じ髪型かもしれない。それに、私ここに一ヶ月に一度くらいは来ているかもしれない。
小さな疑念が頭をもたげてくると、途端に全ての物事が求めている答えに寄り集まっていく感覚を抱く。そう言えば声だって見た目より高いし、夢の特徴と合っているかもしれない。顔は俯いているからよく見えないけど、なんかそれっぽかった。あれ、もしかしてこの人なの? この人が私の夢に出る人なの?
けれど、もうそれ以上は進めなかった。まさか私の夢に出てきていますよね、なんて馬鹿な質問できるわけがないし、それにもしそうだったとしても彼女を特定できるものがない。確か夢の中の名前はモリヤスミと言ったかな。この人がそういう名前だとしても、だからどうしたと言う話だ。夢の彼女と一致したとしても、夢の中の会話までは一致しているはずもないし、確認なんかできるわけもない。
ただ、私はようやく掴めた手掛かりに高揚していたからなのか、彼女が私の手に触れるたびに言い知れぬドキドキを感じていた。
ネイルサロンに行ってから二週間後、私はようやく明晰夢として例の夢に入り込めた。もう追われることも地下道を走ることもなく、私は夢の中の世界に降り立つと手近な扉を開ける。少し願えば、もう彼女のいる部屋だった。そうして彼女の前に立ち、私は問いかける。
「ねぇ、貴女ネイリストでしょう。私が行く店の」
彼女は微笑んだまま、頷く。
「そう、やっと気づいてくれたのね。すごく嬉しい」
その言葉を聞いた瞬間、私はやっと探していたパズルのピースが見つかったような高揚感を覚えたが、すぐに落ち着きを取り戻し、ゆっくりとした口調に戻る。
「どうして私の夢に貴女がこんなにも出てくるのか教えてくれる?」
「貴女の夢? いいえ、これは私が見ている夢よ」
彼女が見ている夢とはどういう事だろうか。私がそういう風に思っているのだろうか。いやでも確かに私はこの夢に入る前に部屋で寝ている。ピンクのチェックのパジャマを着て、カバーを替えたばかりの枕で寝たはずだ。あぁ、やめよう、考え過ぎたら起きちゃう。
「でも、確かにもしかしたらこれは貴女の夢であるのかもしれない。私達、同じ夢を偶然共有しているのかもね」
「夢の共有?」
「たまにあるみたいなの、無意識下での意識の共有ってのが。ユングの言う集合的無意識の一種みたいなものかもしれない。遠く離れた人々の間で共有する意識、それが夢としてリンクしたり、こうしてチャンネルを合わせるみたいに一致するのも不思議じゃないのかもね。何故なら」
……どうしよう、全然わからない。そんな困惑を察したのか、彼女はすぐに言葉を切り、優しく微笑んでくれた。
「えっと、とにかく強い思いで偶然こうなったのかもしれないって事」
「なるほど。……だけど、強い思いって何だろう。私、そんなに貴女の事を意識したりした事は無いけど」
「それは私のせいかもね」
モリヤスミははにかんだかと思うと、力強い眼差しを向けてきた。
「私ね、貴女の事が好きなの。貴女が客として初めて来てくれた時から一目惚れしちゃったんだよね」
「え、ちょっと、えっと……私?」
どうしよう、落ち着こうにも落ち着けない。私に一目惚れ? こんな美人さんがよりにもよって私に?
「えぇ、私は女の人しか愛せないの。初めて見た時からすごくタイプで、でもこんなのどうせまた見てるだけだろうって思っていたら、私を指名してくれるんだもの。私の使う色が好きだって言ってくれて、本当に嬉しかった。それに、すごく綺麗な手をしている」
「それはまぁ、他のネイリストさんよりも綺麗な色だったから。やってもらうとすごく綺麗で、しばらく幸せな気分になれたから」
「ありがとう、すごく嬉しい」
無邪気に笑う彼女はネイルサロンで見る現実の彼女や先程までのミステリアスな雰囲気の彼女からは想像もできないくらい可愛く、美しかった。その笑顔に思わず胸が締め付けられる感覚を覚える。それは好きだと言われたからなのだろうか。
「でもそうね、私は大事なことを聞いていなかった」
「大事なこと?」
なるべく感情を出さないように返すが、既に脳が覚醒に入りつつあるのだろうか壁がぼやけてきている。
「名前、教えてもらってもいいかな?」
「私は槇原、槇原莉乃」
「……やっと知ることが出来た。ねぇ、私は貴女の事が好きで、本気で付き合って欲しいんだけど、貴女はきっと急にこんな事を言われたから混乱してるよね」
頷くだけで精一杯だった。けれど、不思議と嫌悪感は無かった。夢だから当たり前なのかもしれないけれど、現実感が無さ過ぎて嫌悪だとか気持ち悪さだとかを感じる前に、こんな美人が私を好きだと言ってくれている事自体が現実離れしているように思える。
「付き合って欲しいとか、急に言われてもわからないし、それに」
私は彼女から好きだと言われた時から思っていた事を言葉にする。
「これは夢で、貴女と私が会話しているってのは単に私の思い込みかもしれない。だから現実に戻ってお店に行き、貴女に会ってその答えを言った時、貴女に伝わらなかったら私は前代未聞の大恥をかくことになるじゃない」
「まぁ、そうね」
所詮は夢。明晰夢という手段を得て、彼女が言う集合的無意識のなんかで別々の二人が奇跡的に寝ていながら会話出来ているとしても、それを客観的に立証できるものは無い。あくまで一方的に夢を見ているだけであろう私の主観だけなのだ。おまけに友人でも無い顔見知り程度のネイリストさんに同じ夢を見てましたよね、なんて言おうものなら不審者扱いだ。例え共有していたとしても、怖い。私だって突然そう言われたら、そう思ってしまう。
彼女は少し考え込む。その間にも空間は薄れ、もう彼女だけがかろうじて夢の世界に残っている感じだ。もう私が起きてしまう。ここまで来て、次回に持ち越しなんてのは嫌だ。何とかしたいけれど、時間が無い。
「じゃあ、合言葉を決めよう。もし貴女が私を嫌いと言うか、告白を受け入れられなければお店に来なくてもいいし、来ても普通にオーダーしてくれていい」
彼女の顔もぼんやりとしてきた。
「でももし、私を受け入れてくれるなら、こういうオーダーをして欲しいの。それはね」
薄れゆく彼女の声と反比例し、アラームの音が大きく鳴り響いていた。
仕事の合間、私はトイレのために席を立ち、用を足しに向かった。そして手を洗いながら、じっと鏡を見詰める。特別自分では悪い顔とも思えないけど、まぁ目は小さい方か。鼻も低めだし、唇にも色気なんて無さそうだから客観的に見れば普通以下くらいなのかなぁ。あの人はそんな私を好きと言ってくれた。一目惚れとも。私から見ればあの人は物凄く美人だ。鼻筋は綺麗で目元も涼し気で切れ長、リップだけでは決して出せないだろう艶のある唇もどれもこれも魅力的だ。加えて太っていないどころか痩せ気味なのに、胸も大きい。そこらの女優さんよりも魅力的に思えるそんな彼女が、私の事を好きだと言ってくれた……。
私はじっと自分の手を、爪を見る。
綺麗だな、この色。それにまぁ、爪は綺麗な方かもしれない。よく母親に苦労していない爪だと言われたし、こんなに綺麗なのは彼女の手入れのおかげなんだろうけれども、でもここだけはちょっとだけ胸を張れる。好きでいても、許せる。
仕事を終えると私はすぐに例のネイルサロンへと向かった。そうしてゆっくりと店内を見渡していると、そっと私の傍に近付く影があった。
「いらっしゃいませ。本日はいかがされましたか?」
そこにいたのはいつものネイリストさん、いや名前は以前もらった名刺で一致させた、守屋寿美さんだ。私はにっこりと微笑むと、ゆっくりと爪を見せた。
「この前やってもらったばかりなんですけど、色を変えてもらおうと思いまして」
「あら、お気に召しませんでしたか?」
「そういうわけじゃないんですが、ちょっと職場の雰囲気に合わなくて」
「そうですか。では、どのようなお色にしましょうか?」
私は自分の爪をじっと見ながら、ゆっくりと思い出しながら口を開いた。
「明るめのオレンジをベースにしたピンクカラーを最新のイギリス風に」
「かしこまりました。ではこちらにおかけください」
彼女の言われるがままに椅子に座り、いつものように対面すると私はすっと右手を差し出した。彼女は表情一つ変えず、そっと私の手を掴んで爪の状態を見ながら誰にも見えないようにトントントンと三度私の手のひらを指で叩いた。
顔を上げると、彼女はこの席で初めてにこりと笑った。
ラストの展開はこれまで書いた中でも上位に入るほど、綺麗に収まった感じがしています。
読了ありがとうございました。