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湖畔の宿にて。  作者: 樫山泰士
3/3

後編。

 宴席は街一番の中華料理店の大広間を貸し切って催された。


 ドイツ周辺各地から関係各社の社長クラスが集っており、中には業界紙のトップを飾るような人物もチラホラと見受けられた。


「さあ、旧友との再会を祝して!」


 M氏の号令で食事が運ばれ酒が廻され地元の楽団による景気の良い音楽が場を盛り上げる。


 会長も昨夜までの緊張から解放されたのと10数年ぶりとなる旧友との再会でよく食べよく飲んでいる。


 そして酒もたけなわなころ、会長が例のバイオリンの話をM氏に持ち出した。


「ここへ来る途中〇〇のホテルで珍しい音楽を聞いた。うちの若いのに楽譜を採らせたのだが、そこの女の子に弾いて貰えないだろうか?」


 と、楽団のバイオリン弾きの一人――年の若い方を指して言った。


 するとM氏が「どうぞ」と言ったので会長自ら背広の内ポケットから取り出した楽譜をバイオリン弾きの女性に渡した。


 宴席の全員が会話を中断して彼女の方に目を向ける。


 女性は少し緊張しながらも譜面を丁寧に確認すると弦に指を置き弓を弾いてメロディーを奏で始めた。


 8~9小節目が過ぎた辺りだったろうか、突然、楽団のもう一人のバイオリン弾きであった八十絡みの老人が女性のバイオリンの弦をガッと抑えると、演奏を止めさせ、皆にこう言った。


「これは亡国の音楽です。聴いてはいけません」


「亡国とは?」M氏が尋ねた。


「Kの作ったものです」バイオリン弾きが答えた。


「Kとは?」


「先の大戦中、ヒトラーの命で幾つかのバイオリン曲を書き上げた音楽家です」


「これも、そのKの曲だと?」


「その中でも、特にヒトラーがオカルトに傾倒していた頃の曲です」


「Kという音楽家のことは寡聞にして知らないが?」


「私のように古いドイツの音楽屋が辛うじて覚えているくらいでしょう。彼は連合国が入って来た時に東方へと逃げ、何処かの湖に身を投じたと言われています」


「なるほど」と言ってからM氏が会長の方に向き直った。「〇〇のホテルとは△△のほとりの?」


 無言のまま会長が肯いた。


「おもしろい」続きを弾くようM氏が女性を促した。


「いけません。この音楽を望んで最後まで聞いたものは土地を削られます」老人が言った。


「私は音楽が好きだ。是非聞かせて欲しい」と、M氏は譲りそうにない。周囲の客は沈黙のまま二人のやり取りを見ている。


「分かりました。しかし弾くのは私が」


 女性から楽譜を引き取り彼女を後ろに下がらせると老人はおもむろにバイオリンを弾き始めた。


 多くの客たち・楽人たちが耳を塞ぎ音楽を聴くまいとする中、M氏だけは身動ぎもせず老人と向かい合っている。


 曲が終わった。


「素晴らしい。これほど哀しく美しい曲は他にないだろう」


 とM氏は言ったが老人は黙っている。


「あるのか?」とM氏。


「ございます」老人が答える。


「それもKの、ヒトラーのための曲か?」


 老人が無言で肯く。


「是非聞かせてくれ」


「お聞きになるものではありません」


「もう一度言わせてくれ。『私は音楽が好きだ。是非聞かせて欲しい』」


 M氏が楽団長の方を見遣りながら語気を強めて言った。


 老人は止むを得ずと云う様子でバイオリンを構え直し、そしてある曲を弾いた。


 その楽曲を一度奏すると店の廊門に十六羽の黒い白鳥が来て止まった。


 M氏の要望に従い老人が二度目を奏すると、鳥たちは首を長くして鳴き、翼を拡げて踊りを踊った。


 宴席のほとんど全ての人間が呆気に取られて我を忘れていたが、ひとりM氏は大いに喜び立ち上がって老人のために乾杯をした。


「先ほどのものよりもさらに素晴らしい」


 興奮冷めやらぬ様子のM氏は、席に戻りながら、続けてこう尋ねた。


「これ以上に哀しく美しい曲はもう他にはないだろう」


 前回同様、老人は黙っている。


「あるのか?」とM氏。


「ございます」老人が答える。


「それもKの、ヒトラーのための曲か?」


「その通りです。しかし、ヒトラーはこの曲を奏して地獄の者たちを呼び集めようとしました。会長に十分な徳がなければ御身を亡ぼされるやも知れません」


「何度も言わせるな。『私は音楽が好きだ。是非聞かせて欲しい』しかも、私は年老いてもいるのだ!」


 M氏が更に語気を強めて言った。


 老人は再び止むを得ずと云う様子でバイオリンを構え直し、そしてまた別の曲を弾いた。


 一度奏すると、街の東側、ベルリンの方角から雷雲が起こり街を襲った。


 二度奏すると、大風と大雨が同時に店を襲い屋根と壁の一部に大きな穴を開けた。


 客人たちは逃げ廻り、流石のM氏も災いを恐れて大テーブルの下に隠れてしまった。


 そのようにして宴席は終わり、楽団も老バイオリン弾きも何時の間にか店から消えていた。


     *


「これは返しておくよ」


 フランクフルトの空港で飛行機を待っている間、会長が例の楽譜を取り出して言った。


「コピーはどうされました?」


 私に渡されても困るのだが会長に持たれていては更に困る。


「そこにあるので全部だ」


 そこで私は会長に「荷物を見ておいて下さい」とお願いをすると、一番近くのトイレに入り、持っていたライターで楽譜をすべて焼いた。


 その後の数年間にM氏の会社と家庭に起こった出来事をここに書き連ねるつもりはないが、取り敢えず、あの日の空港でスプリンクラーが正常に作動したことぐらいは書いておこう。


 ずぶ濡れ状態でトイレから出て来た私を見た会長は、ひと通り笑ってバカにした後、例のホテルからくすねて来たというバスローブを貸してくれた。


 やたらと煙草臭いバスローブだったが、おかげで風邪は引かずに済んだ。



(了)

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