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湖畔の宿にて。  作者: 樫山泰士
2/3

中編。

 二日目の晩も同じ音楽が同じ時間帯に――多分同じ演奏者で――会長の部屋に流れた。


 ホテルの方には昼間のうちに話を聞きに行ってはみたが一笑に付されただけで終わった。


「藤井くんも西部くんも聞こえないと言っていたが」


 フロントからの帰り道、独り言なのか同意を求めているのかよく分らないトーンで会長が言った。


「あれほど哀しく美しい音楽は聞いたことがない――どうにか残せないだろうか?」


 今日の訪問先には部長と副部長の二人だけで行って頂いている。


「五線譜を買って来た」会長が言った。


 我々二人は『会長の体調を考えて』ホテル待機の身になっているところだ。


「どこで買ったんですか?」


「ロビー横の売店で売っていた」


 なるほど。この土地出身のピアニストの肖像画が表紙に描かれている。


「書けるんですか?楽譜」


 人によって聞こえたり聞こえなかったりする音楽だ。録音出来ない可能性は十分あるが、それでも書けない楽譜の準備をしても仕方がない。


「いいや。でも樫山は書けるんだろう?」


 きっと藤井部長の入れ知恵だろう。この会社に入る前、私がジャズバンドでピアノを弾いていたことを知っているのはあの人だけだ。


「書けないことはないですけど――書くんですか?」


「もちろん。この年になって初めての経験だ」


 恐怖とも興味ともつかない表情で会長がこちらを見る。まるで小学生のようだ。七十近い恩人にこんな顔を見せらて断われるワケがない。


「分かりましたよ。それでは今夜」


     *


 その夜のバイオリン録音は見事失敗に終わった。


 準備した録音機器、商談用のボイスレコーダーに、会長持参の小型ラジカセ、私と会長それぞれのスマホに、私のノートパソコン……その全てに、私と会長の怖がる声は入っていたものの、バイオリンの音はその気配すら感じられなかった。


「これが私の声か?」恥じらいとも失望ともつかない声で会長が言う。私も似たようなものだったが、二人ともあまりにもびびり過ぎている。


「でも楽譜の方はどうにかなりましたよ」肖像画入りの楽譜を少し自慢気に会長に返した。


「流石だな」と、会長は感心していたが、実はそれほど流石でもない。


 と言うのも、バイオリンが鳴ったその場での採譜には見事なまでに失敗していたからだ。


 しかしその後、何故か不思議なことに、件のメロディーの全体が一音の漏れもなく全く頭から離れなくなってしまった。


 そこで私は自室に戻ると、スマホの記譜用アプリを新しく入手し、それを片手に、一晩かけて楽譜を完成させたというワケだ。


「昨夜はどうでしたか?」ホテル出発前のフロントで、楽譜のコピーをお願いしているところに西部さんが下りて来てそう訊いた。


「あとで何処かで聞かせてやる」受付から楽譜のコピーを受取りながら、まるでいたずら小僧のような笑顔で会長がそう返した。


     *


 湖のある街からアウトバーンを通ってドイツに入る。


 会長の旧友でスクラップ業界の大物でもあるM氏 (ドイツ人ではない)が宴席を設けてくれるのだそうだ。


「今日の昼は少なめにしておけよ」例の楽譜を見ながら後部座席の会長が皆に注意を促す。昨夜までとは一転驚くほどの上機嫌だ。「とにかく飲ませたがり食べさせたがるヤツだからな」


「私も飲ませられますか?」


「若いヤツにはなおさらだ」


 一昨日の接待と昨夜の採譜作業と慣れないアウトバーンの運転で足元に疲労が溜っているのが分かった。出来れば少しでも多く寝ていたいところだが、会長のお申し出を断れるハズもないし、また何とも言えない妙な胸騒ぎも感じる。そこで、ホテルに着くと、30分だけ仮眠を取らせて貰ってから、待ち合わせのロビーへと下りて行った。



(続く)

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