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湖畔の宿にて。  作者: 樫山泰士
1/3

前編。

 深夜二時過ぎ。藤井部長から携帯に連絡が入った。


「会長の部屋にですか?」


「西部さんも来てるんだが、私たちにはどうにも」


 部長と副部長で対応出来ないことを私がどうにか出来るとも思えなかったが、会長には拾って貰った恩義もあるし、何しろここは不慣れな土地だ。七十近い会長の身に何かあっても困る。


 日本から持参したスウェットの上下にホテルのロゴが大きく入った白のバスローブを羽織って部屋を出た。廊下の窓からは如何にもヨーロッパ的な森と如何にもヨーロッパ的な湖が見えていて、その水面にはこれまた如何にもヨーロッパ的な満月が映っていた。


『仕事でなければ、もっと楽しめただろうに』


 そんな事を思いながら接待で飲み過ぎた頭をふらつかせつつ、会長が泊っている部屋へと急いだ。


     *


「たしかに聞こえたんだ」180センチ越えの巨体を揺らしながら会長が言った。


「ラジオとかではなく?」


「何度も確かめた。あれは確かに、本物のバイオリンの音だ」


 夜半過ぎ、ホテルのバーから部屋に戻った会長がバスタブの準備をしていると何処からともなくバイオリンの音が聞えて来た。


 最初は部屋に備え付けのラジオか何かかと思ったそうだが、このホテルではラジオもテレビも『雰囲気を壊すから』との理由でどの客室にも置かれてはいない。


 それでは――と外の廊下やロビーにまで出てみたが、午前一時過ぎのホテルはどこもかしこもひっそりと静まり返っていた。


「気のせいかと思い部屋に戻って来たんだが」と、ベッドに深く腰を降ろしながら会長が煙草に火を点けた。この古ぼけたホテルを予約した理由の一つは、最近では珍しい喫煙可のこの部屋だ。「……しばらくするとまた鳴り始めたんだ」


 そこで、部長と副部長を呼び、二人にも聞いて貰おうとしたのだそうだが、彼らの耳には何も聞こえては来ない。


「それで僕を?」


「夜分に悪いと思ったが、若いやつの方が色々と気付くこともあるかも知れない」


 副部長はそう言ったが、きっと会長の空耳か何かだろう。鉄スクラップ業界ではこの人ありと言われた流石の会長も寄る年波には勝てないはずだ。


 日本からの長旅や慣れないホテルのベッドで疲れが溜まって――と、そんなことを考えていると部屋の中とも言えず外とも言えない方角 (方角?)からバイオリンの音が聞こえて来た。


「まただ。また鳴り始めた」


 と会長は言ったが、部長と副部長は何も言えないままに固まっている。この物悲しい音色が二人には聞こえないのだろうか?


「樫山はどうだ?」と、会長が訊いた。どう答えるのが正解かよく分らない。「タタタターンターそんな音が聞こえないか?」


 部長と副部長の顔に明らかな困惑と憐みの表情が拡がった。が、だからと言って私が嘘をつく理由にはならない。


「今はタタタ、タカタタって――あ、トリルが入りましたね」と、私は答えた。


 消えかけていた煙草を勢いよく吸い込んでから会長がガバッとベッドから立ち上がった。


「やはり聞こえるか?」


「聞こえますね。……確かにバイオリンです」


 バスローブのポケットに入れた手の平が汗でドップリと濡れているのを感じた。会長の煙草の煙が喉に入り込み、少しだけむせた。



(続く)

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