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竜とペンギンと幸福な記憶

作者: 朱市望



夕刻の街は昼下がりのうだるような暑さが和らぎ、開け放してある廊下の窓からは気持ちの良い風が吹き込んでいた。騎士隊に所属しているミラはふんふんと鼻歌を歌いながら、領主館から基地の執務室へ戻る足取りも軽い。対照的に、少し先を歩く相方のセルジュはいつも通りのきびきびとした足取りのまま、嬉しがる様子も誇らしげな態度も、少しも覗かせないままである。



 一週間程前、≪魔の森≫より飛来し、谷底で密かに営巣していた十数匹の蜂によく似た魔物の襲撃があった。似ている、と言っても大きさは成人の二倍程もあり、毒を持ち集団で行動する厄介な部類になる。

 この国にとって≪魔の森≫は、他国と違い地形や風向きの影響で土壌や水源の汚染こそないものの、恐ろしい魔物の襲撃は常に、人々の暮らしを脅かす存在であった。王都を守るための前線基地はいつのまにか人が集まり街を形成し、現在は一つの都市を形成している。ミラとセルジュは騎士として、人々の暮らしを守る任務に就いていた。


 せっかく領主様が騎士隊全体への労いとは別に直々に二人を呼びつけ、迅速な討伐と街への被害がなかった事を褒めてくれたのである。特別手当まで出してくれると言った。何を買おうかとあれこれ思案しているミラと違って、セルジュはあくまでいつも通り、どこまでも真面目で融通が効かないのが玉に瑕である。もう少し笑った顔や隙を見せないと女の子が声を掛けられないよ、と子供の頃からの長い付き合いなので、彼に忠告してやった事もあった。しかし、あまり響いた様子はない。


「せっかくお嬢さんがお茶に誘ってくれたのに」

「そんな事のためにこちらに来ているのではない」 


 金髪碧眼でいかにも裕福な育ちの青年らしい見た目のセルジュは、優秀な騎士を何人も輩出している名家の次期当主でもある。ミラは普段こそ二十歳の華奢な赤毛の娘だが、対≪魔の森≫を担う騎士の中ではセルジュと共に最前線に立つ。魔物の襲撃に対抗するための数ある魔法の中、ミラが扱うのは人間ではない生き物に変身して戦う方法だ。

 赤く強靭な鱗に覆われた四足の体躯、身体と同じくらいの長さの尾、それから一対の比翼。建物の二階程の大きさで自由に飛び回り炎を操る竜こそ、ミラの特異な魔法である。


 本来、この系統の魔法は変身後の姿に意識が引っ張られやすいのもあって、他の術者達は身体の一部を変化させるのが精々である。ミラが意識をはっきり残したまま、セルジュの指示や後方支援を受けながら大暴れできるのも、子供の頃にきっちりしっかり訓練を重ねたおかげである。彼の血筋は変身系統の魔術を得意とし、平民どころか路地裏でふらふらしていたかつてのミラを屋敷に迎えて現在に至る。


 たまたま建国の神話の重要な役回りで似たような姿形の竜達が登場し、そのまま王家の紋章に取り入れられているのもあって、ミラとセルジュは対≪魔の森≫の最前線に他の騎士より良い待遇で派遣されていた。王家の威光と人々の暮らしと安全を守る事に心を砕いている事を広く知らしめるように、というわけである。



「……何をぼんやりしているんだ」

「あ、ごめんごめん」


 とっくに執務室前まで戻って来ていたらしく、扉を開けようとしていたセルジュに不審な視線を向けられてしまう。真面目な顔で昨晩の疲れがあるのかと尋ねられれば、単純にぼんやりしていただけなので非常に気まずい。

 

 二人はそそくさと入室して上役に報告を終え、それぞれの執務机に山積みの書類仕事にとりかかった。魔物の出現から街の安全が確保された後は巣の場所まで応援へ向かい、ここ一週間程は働きづめであったので、遠い彼方の記憶を引っ張り出して書類に取り組まなければならなかった。


 同僚達は定時を過ぎれば一人、二人と食堂を経由して寮の自室か、街にある住居へと帰宅していく。お疲れ様、と建前として手伝いを申し出てくれる人もいるけれど、真面目なセルジュは特別扱いは不要としてやんわりと断ってしまうのである。そうこうしているうちに気がつけば、部屋に残っているのは二人だけになっていた。


「……暑いし、アイス屋さんに寄った後に戻れば良かったね」

「移動中も勤務時間内だ」


 やれやれ、と大方片づけたミラは身体を伸ばしながら頭の堅いセルジュに声を掛けた。すっかりお腹も空いたけれど、悲しい事に終わらせなければせっかくの数日間の休暇を気持ち良く楽しむ事もできないのだ。


「そういう時は皆の分も買えばお咎めはないって聞いた」

「融ける前に届ける自信があるとは恐れ入る」


 ミラは氷系統の魔法が不得意で、ジュースは保冷できるがアイスは融ける半端な温度帯しか使用できない。付き合いの長いセルジュはそれをよく知っていた。


「円滑な人間関係を優先したいじゃない」

「……あまり気を許し過ぎるな」


 彼の席から冷たい視線と声とが飛んで来ている。表面上、こちらの騎士達は概ね二人に好意的だが、特別扱いを面白く思っているはずがない、とセルジュは定期的にミラに釘を刺す。彼は名家の次期当主としてその手の嫉妬に晒されながら育ったので、閉鎖的かつ警戒心が強い性格だった。

 わかりましたよ、とミラは食べ損ねたアイスの事は諦めて素直に返事をした後、残りの書類をせっせとやっつける作業に戻る。セルジュも今日くらいは早く休めば、というこちらの気遣いには明らかな生返事であった。


 できるだけ早く終わらせて彼を休ませよう、とミラはこちらへ来る前に彼の母君にセルジュをどうかお願い、と懇願された声を思い出してやる気をみなぎらせた。

 それにただ暴れれば良いだけのミラとは違い、彼は街を守るために相当に神経をすり減らし消耗したはずだ。彼は任務中はさっさと魔物を始末する事を優先させてくれるが、一歩間違えればミラのせいで火の海である。街に張り巡らされた高度な防壁とセルジュへの信頼がなければ流石に気兼ねなく大暴れ、とはいかない。

 ミラが街の上空を飛び回って捕捉した後、爪や牙で引き裂いたり炎でこんがり丸焼きにして退治する間、魔術による防壁を張って被害を防ぎ、また、逃げようとする魔物を足止めして絶えなく指示を出し続けたセルジュの方が余程大変だったに違ない。


「……ミラ、少し休憩したら行くから、先に」


 書類の山は片付け、さあ食堂でご飯、と提案しかけた視線の先でセルジュの顔色は案の定、あまりよくはなかった。野生動物は外敵から身を守るため、ぎりぎりまで痛みを我慢すると本に書いてあったが、セルジュも似たようなものである。慌てて席を立って駆け寄ったけれど、彼は頭痛でもするのかのように片手で額の辺りを押さえて顔を顰めている。


「……医務室はだめだ」


 嫌だ、であれば問答無用で担ぎ込んでいたが、思いの外強い力で引き止められると流石に焦る。誰か呼んで来る、とも提案したがそれも切羽詰まった表情で首を横に振った。それなら一体どうすればいい、という質問への返事はなかった。







 ミラが扱う系統の魔法の行使は体調や精神的な影響を受けやすいため、常に体調を万全に整える事が求められる。元々住んでいた路地裏からセルジュの家に引き取られ、学んだ知識だった。特にミラはうっかりでは済まない被害が予想されるため、大人しくさせるための魔術をたくさん身につけたセルジュが必ず傍にいなければならない、と散々言い聞かせられた。主に彼の母君から、である。


 しかしある時、子供の頃に一週間程、セルジュと離れた事があった。彼が体調を崩して寝込んでいる間、ミラは訓練を免除されたが外出は許されなかったので、すっかり暇を持て余していた。お見舞いをしたい、と申し出たけれど却下されたので、夜中にこっそり、彼の部屋に忍び込んだ。覚えたての氷系統の魔術で冷やしたお見舞い代わりの果実の絞り汁を持ち込んだ時、ミラは彼と彼の家がひた隠しにしている秘密を知った。

 


 ミラは厨房でもらってきた氷で氷のうを作って、自室のベッドに横になっているセルジュの額や首元らしき場所を冷やしつつ、様子を窺った。負傷時の手当のやり方も一通り勉強しているが、とりあえず呼吸は安定しているようだ。


「えっと……」


 疲労を抱えたまま限界に達した時、彼の身体は血筋に伝わる魔法を制御できず、人間の姿を保てなくなってしまう。それ自体はこの魔術の使い手にはよくある話だ。子供の時は暗い部屋で何となくしか視認できなかったけれど、改めてランタンの明かりの下で観察すると、なかなか不思議な姿をしていると思う。


 嘴があるので鳥だろうな、と思うのだが大きさが一抱えほどある。しかし翼は短くどう考えても飛ぶのは難しそうな体型だ。兵舎の書斎にある鳥類大全で調べてみると、飛ばない事を選んだ鳥は結構な割合で存在し、翼が短く退化してしまうのだそうだ。その中で泳ぐ事に特化し、氷の国から灼熱の砂漠まで幅広く海辺に生息している種の記載があった。捕らえた魚を雛鳥に持ち帰る愛情深い説明書きの横に、酷似した絵姿が記載されていた。魚を捕まえるのが上手く、なかなか繁栄している種族らしい。


 可愛いと言えば否定はしないが、これが名家の未来の主、では流石に困り果てる姿だと言わざるを得ない。ミラが氷系統の魔術が不得意であるように、術自体との相性や得手不得手は誰にでもある。セルジュは幾つも便利な魔法を習得しているけれど、何故か跡継ぎ息子として一番重要なはずのこの魔法だけはさっぱり落第であった。


 単に鳥なら偵察や潜入や伝令に向いているのに、飛べない上に歩くのもゆっくりである。その上この国は海と接していないので、街中に現れれば奇異の視線は避けられない。使いどころの難しい姿であった。

 


 起きたらどう声を掛けようかな、と考え込んでいるうちに、セルジュが変身した鳥は目を開けた。やあ、と声を掛けると流石に事態を呑み込むのにしばらくの時間を要した。


『……何だその恰好は、女がみだりに腋や足を晒すんじゃない』

「いやだって暑いし、くるぶしまであるような寝間着を着るのなんて貴族のお嬢さんとかだけですよ、多分」


 そんな事を教えた覚えはない、と彼は目が覚めて早々大変お怒りである。先にそっちか、とミラは頭を抱えたくなったが、セルジュは厨房にあるヘラみたいな手なのか翼なのか、とにかく目を覆って見ないように頑張っている。子供の頃は何も言わなかったくせに繊細になってしまったものである。普段女の子と遊ばないからこういう時に平静が保てないのだ。ミラの部屋着、暑いので布面積を少なくしたブラウスや下穿きはどうも刺激が強かったのか、早くしまいなさい、とまるでミラが裸でいるみたいな言い草だ。お臍だって出していないにも拘らず、である。


 仕方なしに夏用の上掛けを全身に巻き付けてどうぞ、と声を掛けた。彼はおそるおそる手をどけ、ようやく我に返ったらしい。


『……すまなかった』

「その恰好も子供の時以来か。まあ、もう夜も遅いし大人しくしておきなよ。明日からしばらくお屋敷でゆっくりさせてもらってさ」


 ミラは厨房でお腹に優しい食事、とお願いしてもらって来たパン粥や果物の絞り汁がある事を説明した。姿を見られるのが嫌なのか医務室はだめだと言うし、こんな時間に男性用宿舎には入れない。残念ながらセルジュは一晩ここにお泊りである。明日になったらセルジュの母君が気を遣って借り、人も派遣してくれているお屋敷に連れて行くから、と説明した。

 そうして可愛い鳥に一口ずつ給餌してやった後、彼が寝付いたらソファに転がろうと読みかけの鳥類大全に戻った。


「ははあ……。地域によっては(キング)皇帝(エンペラー)の名で呼ばれる事もある」


 ミラは寝る前のおやつ代わりに炒った胡桃を齧りつつ、セルジュがうっかり変身してしまう種族の生態を調べた。泳ぎが得意だと強調されているが、この体型を見る限りは本当なのだろうかと勘ぐってしまう。

 王都の動物園にガラス張りの巨大水槽にて飼育されている、とセルジュは教えてくれたが、ミラはそんな金持ちのための遊興施設には入った事がなかった。二人で魔術の研鑽ばかりの子供時代だったな、と懐かしく思い返した。



『何か他に言う事はないのか』

「え? まあ、子供に人気が出そう、とかかな」


 ベッドの上の飛べない鳥からもの言いたげな視線と変身時の意思疎通の魔法が向けられ、ミラは思案した。どうしてこんなにのんきなんだろう、と悪態のような嘆きのような声がひっきりなしに届く。

 ずんぐりとした体格や黒と白のシンプルで腕をぱたぱたさせる姿はなかなか愛嬌があるとは思う。他の鳥類のように羽や鳴き声の美しさで魅了するタイプではなさそうだが、生育環境さえ整えれば飼いたい、と言い出す金持ちはそれなりにいそうな気がする。


『……ずっと、今まで良いように利用されているのに』

「強いて言えば頭が良い、とか? 合理的ではあるよね」


 彼の言い分をまとめればこうだ。名家の当主のくせに職分にそぐわない変身しかできない、その欠点をミラの監視、支援に回っているという大義名分で隠している、というわけだ。しかも王家お墨付きで、ミラにばかり注目が集まるのを彼は上手く立ち回っている。秘密を知っているのは彼の両親、そして限られた使用人だけだった。


 大人しく寝ていれば良いのに、セルジュの愚痴はなかなか止まらない。いつまでも落ち込んでいないでもう寝なさいよ、と説得したが、彼はベッドを占領するのを嫌がった。ソファと寝台を二人のどちらが使うのか、明らかにお疲れのセルジュだがなかなか首を縦に振らないので、結局ミラが折れる形で二人で横になった。人間の姿だと大問題だが、ずんぐりした体型を眺めているうちにどうでもよくなった。どうせ元気にならないうちは人間には戻れないのだ。


「セルジュの母上様には内緒にしようね。同じベッドで寝たなんて言えないよ」

『……別に今さら怒らないと思うが』


 この不良息子めが、とミラは心の中で謝罪しておく。セルジュをどうかよろしくね、とこちらに赴任が決まった時には何度もお願いされ、頻繁に手紙で体調や仕事を案じてくれている。名家はお嬢さんと結婚しないといけないんだぞ、と教えてやったのに返事はなかった。

 ただ明かりを消した後の暗がりからすまない、と声がしたので、気にするなとミラも返事をしておいた。



 あの日、子供の頃に寝込んだセルジュの下へこっそり忍び込んだあの夜に、ミラは彼の秘密を知ってしまった。それまでは貧しい育ちだったので、お金持ちの子供は楽、と羨ましい感情しかなかった。お腹いっぱいの食事、ふかふかのベッドに清潔な衣類、安全な建物の中、それから優しい母親。


けれどいつも真面目な顔でミラにあれこれと世話を焼くセルジュが、真っ暗な部屋で、ミラを母君と間違えているのか、不甲斐ないばかりにごめんなさい、と言葉を詰まらせながら謝罪する姿を前に、どうしたらいいのか未だに答えは見つからない。

 その時は覚えたての氷系統の魔法で飲み物を冷やして、ついでに自分の手も冷たくして、彼の額の熱をできるだけ相殺してやっているうちに、彼の母君に発見された。


 金持ちにも名家の体面を汚す事は許されない、と言い聞かせられセルジュみたいに一人で背負い込んでしまうような気性の奴もいるのである。子供時代から長い付き合いにも拘らず、ミラは単純なので仕事を確実にこなし、せめて傍にいる事くらいしか、思いつかないままだった。



 




 翌朝午前十時過ぎ、仕事のある者はとっくに宿舎から出勤し、昼食にはまだ少し時間がある比較的人の目が少ない時間帯である。昨晩よりは元気になった様子だが、まだ元に戻れないのでやはり一度、セルジュの秘密を知る使用人がいる、こちらにある別邸で休ませてもらう事にした。

 彼をよいしょと抱っこしたり背負ったりして敷地の外へ出た。段差や階段は特に苦手だそうなので仕方がないのだが、結構重たいのである。そして海水を弾く高性能な羽毛が暑苦しい。


 街でロバ二頭立て、屋根なしの安荷車を借りて、クッションを調達して最低限の乗り心地を確保した。日除けに布を彼の嘴の下で結び、いざ出発である。ぱかぱかと石畳に蹄の音を響かせて、よく晴れた青空の下へ走らせた。


 追いかけっこに興じている腕白少年が時折並走したりちょっとそこまで、とちゃっかり乗り込んだり、暑さでふうふう言っているおばあさんを家の近くまで送ってみたり、暑くてもう嫌、と通りの真ん中で駄々を捏ねている幼い娘とその姉らしき二人組を保護したりして、道中は非常に賑やかだった。


「お姉ちゃん何それ、ぬいぐるみ? あ、生きてる。こっち見た」

「これは……ヨウムという金持ちがよく買っている大きくて賢い鳥の雛で、配達しているところなんだ。子供だから優しく撫でてやるだけにしてね」


 ミラは鳥類大全で読んだ都合の良い情報で言い訳を構成し、何度か繰り返した。おばあさんはお駄賃をくれて、道端でひっくり返って泣き喚いていた少女は見慣れない鳥の姿に驚いて、興味津々で見つめている。その姉君は何度もこちらにお礼を重ねた後、セルジュの首に緩くリボンを結んでくれた。金持ちの家に行くのに相応しい装いになって、乗客達とはそれぞれさよならをした。


 荷車の上だけでなく、まだ暑くなりきらない今が行き交う人の一番多い時間帯らしい。水をもらったばかりの植木や鉢植え、それぞれの店の売り子が張り上げる声、少しでも目を留めてもらおうと綺麗な看板や特徴的な宣伝文句、それをセルジュはじっと見つめている。そこに、ミラは意を決して声を掛けた。


「あのさ、上手く言えないんだけどね、当たり前の平和な暮らし、いつも通りの街並みを守れて、私は良かったと思う。それは私だけじゃない、『行け』って、背中を押してくれた奴がいたからこそなわけで」


 ミラは市街地の防衛には向かない。普段はもっと≪魔の森≫に近い場所での任務である。守りの厳重になっている区画はともかく、一歩間違えれば火の海だ。それを行かなくてどうする、と背中を押すのは、いつも彼の役回りである。


「まあそもそも、私の訓練とか読み書きの習得とか、礼儀作法の授業にまで付き合っていた時間を自分のために使っていれば、別の道もあったかもしれないし」


 屋敷に色々な分野の魔術の先生を招いて教わる一方、目上の人間に対する話し方や振る舞い方、綺麗に食事をする方法やチェスの必勝法まで、セルジュはミラに根気よく身につけさせた。


「本で読んだけど、命令を聞かせるだけなら躾用の首輪をつけて、気まぐれに電流でも流せば手っ取り早く上下関係をわからせる事は可能だったじゃん。でもそれをしなかったから今みたいに仲良しでいられるわけでさ。だから気持ちはわかるけど、あんまり抱え込まないようにしてよ」

 

 彼がミラのために習わされた、自分より力の強い生き物を使役する系統の魔術においては基本的な考え方である。事実、その方法を勧めた先生が何人かいた事をミラは知っていたが、セルジュはそれを選ばなかった。


 彼は返事をしないまま、丸い黒い瞳でこちらを見上げるばかりであった。気まずさを誤魔化すように、ミラはたまたま目に入った看板を見てジュース買って来る、と荷馬車を止めた。

 







 まだ冷えていないから値引きしてくれた、と戻って来たミラは真剣な眼差しで買ったばかりの瓶入りの果物の絞り汁を見つめている。難しい顔で苦手な魔術を制御しようとしている姿を見て、セルジュはつい笑ってしまった。


 子供の頃に体調を崩していた時、ミラは普段とは違う姿になってしまったセルジュにしばらく驚いた後、今と同じ魔法を使ってくれた。それはセルジュがよく覚えている、幸福な記憶の一つだった。


「どっちにする?」

「オレンジのやつ」

「わ、びっくりした。元気になったならそう言えばいいのに」


 口ぶりの割には、ようやく元の人間の姿へと戻ったセルジュが世話を掛けた、申し訳なかったと言葉を重ねると気まずそうな顔で瓶の蓋を開けている。ミラ、と改めて呼びかけると、ようやく顔をこちらに向けた。


「……今まで自分には無理だと、それに値する能力がないと、投げ出そうと考えなかったわけじゃない」


 普段の言動からすれば自分のおかげで絶対安泰、くらい言いそうなものだが、セルジュの生家の問題が絡むと急に心配そうな眼差しばかりになる。


「それでも今の仕事には責任とやりがい。それから、ミラの事を一番近くで、いつまでも見ていたいから、隣に立つのに相応しい人間になりたいと思っている。だからそんなに心配するな」


 大きく力強く、そしてしなやかで美しい生き物が空を飛び回り、炎を吐き尾を振るって勇ましく戦いに臨むその姿を、他の人間に譲ろうという気はなかった。


「……」

「悪かったな、割と単純な思考で」

「それだとまるで私の事、すごく好きみたいじゃん」

「すごく好きだって言っているんだよ」


 今までにないくらいに静かになってしまったミラをセルジュは大いに心配して、今からお礼も兼ねて好きな所へ出掛け、何でも買うと申し出た。すると暑いから絶対アイスクリーム、と即座に返事をすると共に、ミラは勢いよく荷馬車を走らせた。


「そんなに照れるなよ、長い付き合いじゃないか」


 照れているのではなく暑いだけ、とミラが顔が赤いのを誤魔化そうとしているのは手に取るようにわかってしまう。しかし機嫌を損ねられると困るので、セルジュも今日は暑いよな、と適当な返事をしておく事にした。

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[良い点] 最初はツンツンツンデレっぽいセルジュでしたが、可愛い生態(?)が明らかになったり、ミラ大好きなのを見てキュンキュンしました。ペンギンと書かずにペンギンを描写しているところや、街の様子の描写…
[良い点] 初めまして手羽先と申します。ペンギンが好きで、ペンギンが出てくるファンタジーものを探していた所、こちらの作品をご紹介頂きました。 大変かわいらしいお話で良かったです!好きな子に弱みを見せ…
[良い点] 金髪碧眼で騎士な青年の欠点とも美点とも言える秘密に、むふっとなりました。 華奢な女の子が竜に変身するっていうのがめちゃくちゃかっこいいから余計に……。笑 ミラが大暴れする描写がユーモアがあ…
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