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土佐の一条

作者: 小城

教房

 応仁元(1467)年。京都で戦乱が勃発した。

500年来の無双の才人とまで言われ、関白、太政大臣を拝任した当時66歳の一条兼良は戦乱を避けて、息子の尋尊がいる奈良興福寺に避難した。

やつがれめが土佐に赴き、幡多荘の様子を見て参ります。」

嫡子の教房が顔を上げた。当時、教房45歳。

 土佐国幡多荘は一条家の祖、九条兼実が源頼朝から賜ったという曰く付きの土地であった。

 翌年、教房の妻の縁者の夫である土佐国蓮池城主、大平山城守国雄の船に乗り、一族郎党、知人の公家、武士、僧などとともに堺から土佐に向けて教房は出発した。

 土佐に到着して、大平氏の居館蓮池城に10日程滞在した後、教房一行は幡多荘の本郷である中村に向かった。

「山ばかりよの。」

蓮池城から中村までの道程は山中の険しい道である。始めは教房も歌などを作り景色を楽しんでいたが、やがては皆、黙々と行進するのみとなった。

「(流石に飽きるわ。)」

中一日、山中を歩いて中村に着いた。

「ほう。これは…。」

中村郷の中央には渡川(四万十川)が通っている。

「(どことなく、都に似ておる。)」

京の都にも鴨川、桂川が流れている。

 教房らは在地郷主の館に滞在した。今度の教房らの居館となる建物は現在追って建築中であった。

「郷人共に国司が下向して参ったことを報せよ。」

周辺在地国人たちに書状が回った。国衆たちは国司の館に伺候するように告げられた。

 幡多荘は、土佐国最大の荘園であり、簡単には守護や地頭も手を出せない権威と由縁を持ってはいたが、応仁の乱前後により、国が乱れると幡多荘も、例外ではなく、周辺の領主たちからの横領を受ける状態にあった。それを危惧しての、教房の土佐下向であった。同じくして、教房の嫡子、政房は摂津福原荘に下向した。

 在地領主たちは、教房の威光に従って国司の館に伺候して、一定の貢物の納入運搬に代わり、官位を与えられて従来の土地の支配を承認された。

「下知に従わぬ者がおるの。」

国衆の中には教房の威光に従わぬ者もいた。そうした者もまた、官位で釣り、教房に従った土佐の国衆を向かわせて口説いた。

「なかなかにうまく運んでおる。」

教房は伴に土佐に来た公家と興じながら語った。館の建設もはかどり、その年の暮れには完成した。館は中村御所と呼ばれた。共の者たちの屋敷も着々と出来上がりつつある。それらの区割りは京の都にならい、南北東西を碁盤目上に区画し、土地にそれぞれ建物が作られていった。

 そのようなとき、嫡子、政房が摂津福原荘で横死したという報せが届いた。

「なんと憐れな…。」

福原荘に乱入した武士によって殺されたという。

一条家嫡子が死没したことにより、急遽、家督は教房の末弟の冬良が継ぐこととなった。僧に頼んで政房の菩提を弔ってもらった。

「とても死ぬる命をいかにももののふの家に生まれぬことぞ悔しき。」

一条兼良は教房に宛てた書状にそう書いていた。

武士もののふの家…。」

武力を持って世の中に跋扈する存在。神世の時代より存在し続けている兵どもは、現在に至っては家門を従えて独立して行動する主体になっていた。その存在によって、旧来の家門である公家は振り回され、脅かされつつある。都では、いまだ戦乱が続いていた。

 幡多荘の国人領主らの大半は教房の威光に柔順な態度を示した。しかし、まだ一氏のみ、教房の意向に従わない者がいた。

「大和守父子が下知に従わぬの…。」

大方郡の入野家元と家則父子である。教房は奈良興福寺にいる弟、尋尊に書状を書いた。

「春日社の社頭に入野父子の名字を書いた物を込めて、二人に不忠の心があるならば、神罰を下してもらいたい。」

呪詛である。しばらくして、この噂を聞いた入野氏は大人しく教房に従うことにした。これにより幡多荘の支配は一応の完成を見た。

 同じ頃、都より伴に下向してきた、夫人の宣旨殿が死没した。宣旨は都での生活を恋しがっていた。

「(都…。)」

京の都。噂では、足軽という傭兵の暗躍により、京の市中は放火強盗が相次ぎ、社寺仏閣も焼け落ちたという。

「(まるで地獄を見るようなものや…。)」

人々の話や手紙などから伝え聞く話に耳を傾けながら、教房はそう思った。

「(麻呂はこの中村を都にしとうある。)」

いつ止むともしれない戦乱。それに比べて、この土佐の民草の心根は純朴であった。教房は、周辺の民百姓からは『御所様』と呼ばれ慕われていた。

「下田の津を拓いてはいかがでしょうか。」

家老の為松氏がいった。

 当時、土佐は明国や琉球へ向かう交易船の中継地であり、中村の外港である下田にもまた、交易船が寄港していた。教房ら幡多荘の者たちは下田の津を整備して、船や商人が寄りやすくした。

「土佐の都。」

京都を模して作られた中村の町は、いつしか本州と四国を行き交う船や商人たちによって、各地へそう伝えられた。

 文明9(1477)年。55歳の教房に子が誕生した。母は幡多荘の国人領主、加久美宗孝の娘であった。

「(子ができたか…。)」

嫡子、政房が横死してから8年が経つ。京の戦乱も収まりつつあるという。

「この子は無事に生きてほしいのう…。」

一条家の家督は、教房の養子となった弟の冬良が継ぐことになっていたので、生まれてきた子は、尋尊のもとで出家することとなった。

 後、この教房の子は、教房を慕った土佐の国人たちによって、教房の跡取りとして土佐中村に土着することになる。土佐一条家の始まりである。しかし、それは教房の死後のことであり、このときの教房は知らない。

 数年後の文明12(1480)年。土佐中村の地で教房は没した。享年58歳。応仁の乱が終結した後も、教房は京の都へ戻ることはなかった。教房が死没した、ちょうどその頃、教房の父、一条兼良は、将軍足利義尚に宛てた書物『焦談治要』のなかで「超過したる悪党」と応仁の乱で跳躍した足軽を批判している。その翌年、兼良も死没する。

 一条教房は土佐の妙華寺に葬られた。教房の死に際して、教房を慕った幡多荘の国人ら十数人が、冥福を祈り仏門に入ったという。戦乱の渦中、土佐に下り土佐一条家の基となった教房は、都から落ちて来た公家として、土佐の国人たちと円満な関係を作った。教房自身は、彼の家が『武士もののふの家』と化していくことを望んだ訳ではなかったが、彼の死後、氾濫する戦乱の中で、土佐一条家は国人領主たちに担ぎ上げられて、戦国乱世の公家大名として土佐中村の地に君臨していくことになる。


房家

 明応3(1494)年。18歳となった教房の子は元服し、房家を名乗った。位階は正五位下左近衛少将。その2年前、土佐蓮池城主、大平氏が尋尊に面会し、房家の土佐土着を懇請した。そのことを京の一条家も承諾し、元服の後、一条房家は土佐一条家初代となったのである。父の没後に起きた中村の国人らの争いにより、母とともに避難していた足摺岬の金剛福寺にいた房家は中村御所に戻った。

「京の都はどのようなところにございます?」

幼い房家は母に尋ねたことがあった。土佐で生まれた母も知らなかった。

「京の都とはどのようなところなのだ?」

元服して、中村御所に戻った房家は下田に寄港した堺の商人に尋ねた。

「南北東西に町々が並び、神社仏閣も多く、将軍様の屋敷は花々が咲き乱れております。」

50を半ば過ぎた白髪の商人はそう言った。

「しかし、それらも応仁の戦乱により、焼け落ちてしまいました。」

「(惜しい事をした…。)」

房家は父の顔を知らない。

「あるとき、父上様は都から土佐へ人々を大勢連れて参られました。」

母がそう語る思い出話をお伽話でも聞くかのようにして育った。その父がやって来た京都という場所を房家は一目見ておきたかった。

「大文字の火というものをご存知ですかな?」

「なんだそれは?」

あるとき、一門の公卿が言った。土佐一条家の一門には、教房の土佐下向の折に伴に付いてきた京の公卿たちで、この頃は、東小路、西小路、入江、飛鳥井、白河の五家があった。

 京都では、夏の盂蘭盆会の際に、如意ヶ嶽に火床を並べて巨大な『大』の字を浮かべるという。

「是非やってみようではないか。」

房家の提案の下、文月の盂蘭盆会のとき、付近の十代寺山に火床が並べられて、巨大な『大』の字が浮かべられた。

「見事だな。」

教房とともに京から下向してきた老人たちや、大文字の火を初めて見る土佐の若者たちまで老若男女がその夏の光景を眺めた。

「岡豊の長宗我部が威勢を張っている。」

永正5(1508)年。房家32歳の時。本山、吉良、山田、大平、四人の国人領主たちが談合を開いていた。長岡郡岡豊の長宗我部兼序は、土佐守護代細川氏の後ろ盾の下、周辺地域に勢力を広げつつあった。その状況を危惧した四人の国人領主は、連合して岡豊城の長宗我部兼序を討った。城は落ち、兼序は自害して果てた。

「お頼み申す…。」

夜半も過ぎた頃、中村御所に訪客があった。

「御所様に折り入ってお頼み申す。」

その訪客は幼子を一人抱えていた。

「兼序の子であると?」

千雄丸と呼ばれる幼子は岡豊の長宗我部兼序の一子であるという。

「余を頼って参ったというのか…。」

一条家の四家老と呼ばれる、土居、羽生、兼松、安並の四人の中には、本山ら国人領主の反発を恐れて引き取りを拒む者もいた。

「可哀想ではないか…。」

このような幼子を見殺しにすることなど房家には考えられないことであった。訪客と千雄丸が待つ部屋へと向かった。

「(これはなんと…。)」

部屋の中では、千雄丸を残して、訪客は腹を切って死んでいた。

「何故、彼の者は赤子を置いて死んだのか…?」

房家には理解のできないことだった。

「一命を賭して赤子を我らに託し、自らは兼序の後を追ったのでございましょう。」

家老の一人が訪客の亡骸を下人に片づけさせながら言った。

「(武士とはかような者なのか…?)」

公家であった父に継いで、房家は自らも公家であると思っている。しかし、何故か、房家の周りには生まれたときから武士たちに囲まれていた。

「公卿様とは武家の上様にございます。さようであるから、幡多荘の武士たちは御所様に従っておられるのです。」

母はそう言っていた。

「母上は公家なのですか?武家なのですか?」

「母は公家衆にございます。」

房家の母は教房の側近の従三位権中納言町顕の猶子となり、今は中納言の娘と呼ばれていた。

「(然れど、祖父は武士ではないか…?)」

中納言の娘の父は土佐の国人領主加久美宗孝である。彼が房家の祖父になる。

「(なれば、余にも武士の血が入っているのか…。)」

昼間、屋敷で見た訪客の亡骸を思い出した。

「(あのような真似は私にはできまい…。)」

やはり、自分は公家なのだと思った。その後、千雄丸は中村御所で養育されることになった。

それから8年が経ったある日、京都の一条家から書状が届いた。一条家当主冬良が亡くなり、跡継ぎもいないので、房家の子を養子にもらいたいということであった。

「(願ってもないことだ…。)」

房家は二男の房通を京一条家の養子にするべく伴い上洛した。嫡男、房冬に上洛中の留守居を任せた。

「行って参る。」

「行ってらっしゃいませ。」

永正13(1516)年。霜月。房家40歳。房冬19歳。房通8歳。

「京の都とはどのようなところにございましょうか?」

通房が尋ねた。

「きっと素晴らしいところであろう。」

堺の港に着いた一行は、淀川を上りながら京を目指した。

「中村に似ているな。」

京一条家の屋敷に向かい大路小路を歩きつつ思った。

「これは何だ?」

内裏の西。今出川から一条戻り橋にかけて大きな溝が掘られている。大人一人は軽々と入れるくらい広く深い。

「戦の名残どす。」

一条家からの遣いの者が言った。よく見ると辺りには、土塁のようなものもところどころに見られる。

房家と通房の京都滞在は一年近くに及んだ。房家は権大納言に、通房は正五位に任じられた。房家は多くの公卿たちと交流した。

「これはやむことなき品々にございますな。」

中村で商人から購入した交易品を公卿に献上すると驚かれることがあった。

「(生活が貧しいのだろうか…。)」

応仁・文明の乱により、一部の者を除いては、公家たちの生活は困窮した。当時の後柏原天皇も皇室経済の逼迫から践祚して10年以上経っても未だ即位式を行えていない状況であった。

 この在京中に、房家はある人物に出会った。大内義興である。

「一条大納言殿も文明九年の生まれか。」

義興と房家は同年齢であった。多いときで周防の他6ヶ国の支配者であった義興は今から数年前の永正5(1508)年。将軍足利義稙を伴って上洛。圧倒的武力を背景に反対勢力を押し切って、義稙を二度目の将軍の座に据えた。それ以来、義興は京都に留まり義稙を助けていた。

「土佐中村の噂は、俺も聞いている。」

大内家は明国との貿易に参与していた。義興の軍事力の背景には対明貿易による富の集積があった。

「土佐には大内家の船も寄ることがある故な。」

「左様にございますか。」

当時の武士の代表のようなこの男は武士であるにも関わらず、土佐中村の御所にやって来る商人のような雰囲気も持っている。

「中村は土佐の都と呼ばれているそうな。」

「旅の者の中にはそう言う者もおりますな。」

「周防の山口は西の京と呼ばれておる。」

周防山口は義興の6代前の大内弘世が本拠にして以来、京風の文物の移入による町作りと対明貿易による舶来品の品々により、本場京都以上の繁栄を見せていた。

「土佐に嫡男がおりましてな。」

「年はいくつになられる?」

「もうすぐ20歳になります。」

「俺にもちょうどそのくらいの娘がいるわ。」

房家は雑談のつもりであったが、このときの話を義興は覚えていたらしく、後年、大内義興の娘の一人が房冬のもとへ嫁に来ている。

 翌年、房家らは参内し、後柏原天皇に拝謁した。この日、房家は殿上人3人と数人の武官とともに参内したという。それから数日後の10月16日。京一条家に房通を預け、房家一行は土佐中村へ帰郷した。

「達者でな。」

「父上もご無事で。」

9歳の我が子を置いていくのは、心寂しく名残惜しいものであった。しかし、同時にうれしいこともあった。伏見宮邦高親王の娘を房冬の嫁にという話があった。

「願ってもないことにございます。」

いずれ、皇女が土佐に下向する運びとなった。

「驚くであろう。」

両者の意向の全く無い間に決まった婚姻であったが、その報せを持って房家は旅路についた。


房冬

 房家と通房が京に滞在中の永正14年。卯月。土佐高岡郡では一大事件が起こっていた。津野、福井両氏の争いである。

「お頼み申す!」

中村御所に久礼城主、佐竹信濃守よりの使者が来た。

「戦であると!?」

房冬は驚いた。津野元実の軍勢が福井玄蕃の居城、井場城を囲んだという。

「是非とも佐竹とともに援兵を…。」

福井玄蕃が信濃守を通じて、一条家に助けを求めたのである。

「戦には我らが参ります故、若殿は御所にてお待ち下され。」

家老衆は意欲的であった。土佐一条家は幡多郡1万6000貫。石高にすると5万3000石相当になる。土井、羽生、為松、安並の四国人領主を家老とし、その下には、さらに一条殿衆と呼ばれる53の家臣団を有していた。一大勢力である。

「出陣ぞ!!」

「おう!!」

一条衆は中村御所を出た。その傍らには一条家の家紋の下がり藤が翻っている。一条家の援軍により津野勢の陣中は混乱し、兵たちは、かまちの沼という沼に迷い込み藻屑と消えたという。乱戦の中、敵の大将の津野元実も討ち死にして果てた。この戦により、高岡郡の国人たちのほとんどは一条家に従うことになり、一条家は幡多郡に加えて高岡郡までもその勢力下に収めることになる。

「(何と恐ろしい光景だ…。)」

戦から戻った将兵たちは血と泥にまみれていた。各々は討ち取った将兵の首級を持ったり、白布に包んで槍の穂先からぶら下げたりしていた。

「(地獄の鬼共のようだ…。)」

20歳になる房冬には、それらの武士たちが自分と同じ人間であるとは思えなかった。しばらくの間、房冬はその光景を夢枕に見た。

 その年の暮れ、父が帰って来た。

「近く、其方の嫁が京より土佐に参る。」

開口一番、父、房家は言った。

「嫁にござりますか?」

聞けば、伏見宮親王の第三皇女だという。

「(よかった…。)」

房冬は、嫁が公家の娘であるということを聞いて安堵した。房冬は父に在京中、土佐で起こったことを告げた。

「それは大儀なことだったな。」

呑気な父が言ったのはそれだけであった。。

「千雄丸を岡豊に帰らせてやろう。」

翌年、千雄丸が元服して、長宗我部国親と名乗ると、皆に父、房家はそう言った。

「岡豊城を国親に返してやりなさい。」

先の戦により、高岡郡をも勢力下に置いた一条家は高岡郡の国人領主らを調停し、長宗我部国親の岡豊城復帰が成った。

「これで兼序殿も浮かばれるであろう。」

房家は自分の子を無事に成育させたが如く、千雄丸を故郷に帰したことに満足していた。

「(呑気なお方だな…。)」

武士という者の本性を垣間見た房冬は自分の周りの者たちと自分の生きている時代の恐ろしいを痛感していた。そんな時代に、自ら養育した武士の子を故郷に帰して喜んでいる。

「(鬼の子を放つようなものではないかの…。)」

それは房冬の杞憂であった。が、房家と房冬の死後、その心配は実際のものとなり、土佐一条家を襲うことになる。

「この御恩は忘れませぬ。」

そう言って去って行く国親を見送る二人は、そのことを知る由もなかった。

 それから数年後の大永元(1521)年。京都から伏見宮邦高親王の第三皇女、玉姫宮が土佐中村に下向して来た。

「(これが都人か…。)」

初めて見る都人であった。

「(風情が異なる…。)」

装い、仕草、振る舞い、そのどれもが今まで房冬が見て来た何人とも違った。

「土佐一条左近衛中将にございます。」

「伏見宮の皇女にございまする。」

「(口振りまでが違う…。)」

教房から数えて三代目の土佐一条家二代房冬の頃には、中村御所の風はおおかた武家混じりを帯びていた。初めて見る都振りを房冬はなぜか母の懐に抱かれる如く愛した。結婚の翌年には、嫡男、房基が生まれた。その翌年、一条家の屋敷に、今度は周防から女子がやって来た。

「私の側室であると!?」

女子は書状を携えていた。書状には女子は周防の大内義興の娘で房冬の嫁に土佐まで来たという。房冬は父に事情を尋ねた。

「(そういえば、都にいたときそのような話をしたことがあったような…。)」

冗談かと思っていたが先方は大真面目であった。

「そういうことだ…。」

父は行ってしまった。

「(武家の子女か…。)」

恐ろしさもあったが、見たところ優美な女子であった。西の京と呼ばれる山口は都の文化の流入もあり、逆に、この頃は、応仁・文明の乱による地方武士の在京によって地方の文化が京都に乱入していた。追い返す訳にもいかず、房冬は義興の娘を側室として迎えた。

「父上。某、上洛しとう存じます。」

嫡男房基が3歳になった頃、房冬は父に懇願した。

「弟の様子も伺いたく…。」

京一条家を継いだ房通のことである。

「そうだのう。」

房家は呑気な返事をした。

「其方は土佐に残ると良い。」

側室であった大内義興の娘は房冬の子を身籠もっていたので、中村御所に残ることとなった。

大永4(1524)年。房冬は妻、玉姫宮を伴い上洛した。

房家のときと同じく、堺の港を経て淀川沿いに京都を目指した。

「(おお…。)」

 父、房家に聞いた話の通りであった。一条家の屋敷へ参り、通房に会った。

「兄上。お久しゅうございます。」

房通は16歳になっていた。

「すっかり都振りになったの。」

「左様にござりますか?」

房冬の在京は13年に及んだ。京都に来てすぐは見る物、聞く物すべてが面白く、房冬は公卿たちと詩歌管弦などに没頭した。

「(今までできなかったことをすべてやるぞ…。)」

歌会、連歌、蹴鞠etc.

 土佐中村では相手がおらず出来かねた遊興を満喫して、歳月はあっという間に過ぎ去った。

「(何か忘れているような…?)」

父、房家から帰郷の督促の手紙が幾度となく来ていたが、房冬はそれらになんやかやと言ってのらりくらりと京都に居座り続けていた。在京して、もうすぐ10年近くになろうかという頃、京一条家の屋敷に子を連れた女子が来た。

「(しまった…!)」

側室である大内義興の娘と子であった。

「お暇を取らせていただきたく…。」

子の出産後、手紙も寄越さず、何年間もほったらかしにしていた房冬に飽き飽きして、母は子を連れて大内家に帰って行った。

「(悪いことをした…。)」

急ぎ父、房家に書状を遣わし、大内家に謝罪文を送った。代変わりして大内家は義興の子、義隆が継いでいたが、子がいないのを幸いに義隆は姉ともども甥を引き取り、大内晴持と名乗らせて自らの養子としてしまった。

「(なんとも片腹痛いの…。)」

父、房家自らも義興の娘との婚姻の話を忘れていたこともあり、押して房冬に強く言えなかったのだろうか。父からの手紙にも、ただただ嫁に悪いことをしたと書き連ねてあった。その辺りのことを照らしてもやはり二人は公家育ちで鷹揚であったのだろう。

「近頃、町衆の様子が不穏よの…。」

洛中洛外で武具を持った町衆らしき姿を多く見かけた。彼らは法華宗徒たちであった。京都の法華衆は一揆を結び団結し各々武装し自治組織を組んでいた。数年前には、細川晴元とともに、一向宗徒の山科本願寺を焼き討ちしていた。

 天文5(1536)年。文月。延暦寺の僧と京都町衆の法華宗徒との法論をきっかけに対立は武力衝突に発展した。

「(恐ろしや…。)」

延暦寺、園城寺、興福寺などの衆徒6万近くが、都に押し寄せ、洛中洛外の法華寺院を焼き討ちし、2万余りの法華宗徒と衝突した。両者の対立は近江の守護六角氏も介入し、下京は焼かれ、上京も一部被災した。その被害は応仁な乱のときよりもひどかったと言われる。

「(都も安心してはいられぬ…。)」

再びの戦火を恐れてか、天文法華の乱の翌年に、房冬一行は土佐中村に帰郷した。

 帰郷から2年後の天文8(1538)年。霜月。父、一条房家が土佐中村で亡くなった。

「(何もしてあげられなかったな…。)」

13年間の在京により、久しく会っていなかった父。孝行することもできなかったことが悔やまれた。しかし、房家にとっては良い息子であっただろう。父の一存により、皇女を嫁にし、孫の顔まで見せてくれた。房冬在京中は、土佐中村で孫の房基とのんびり過ごしていた。

「(父上、ご冥福をお祈りします。)」

藤林寺で房家の供養を終えた房冬は、その2年後の天文10(1540)年。霜月。父の後を追うようにこの世を去った。中村御所には、19歳の房基が残された。

 房家、房冬二代の下で土佐中村は大いに発展し、土佐一条家は土佐国で最大の勢力を築いた。房家、房冬父子は京都の公家たちとの繋がりも深めて、位階を昇り、嫁として親王の皇女を土佐に迎えた。この当時が土佐一条家が最も繁栄した最盛期であった。しかし、時代の運命なのか彼らの知らない内に残した禍根は、その後の土佐一条家を渾沌の渦中に巻き込んでいく。


房基

 父である一条房冬が死没したとき、子の房基は19歳であった。祖父房家と父房冬の相次ぐ死は、土佐一条家の凋落の兆しであった。それを敏感に感じとった高岡郡の国人津野基高が反抗を示した。

「基高討つべし!」

天文12(1543)一条家の軍勢が津野氏の居城、姫野々城に向かった。教房の土佐下向から100年近く続いている土佐一条家の第三代当主房基。それと教房下向の折から一条家に仕えて家老などを勤めている土佐の国人。彼らは他の土佐の国人領主とは異なり、心理的にも紐帯的にも一体感を創出し、まさに、土佐の戦国大名一条家として動き出す。

 基高討伐に兵を向かわせた翌年、房基のもとに九州豊後の大名、大友義鑑から書状が届いた。娘を房基に嫁がせたいというのである。

「良い後ろ楯になるかも知れぬな。」

大友義鑑は筑前、筑後、豊前、豊後4ヶ国の守護を兼ねている九州の一大勢力である。最近、将軍足利義晴の仲介により、大友家は周防の大内家と和睦をした。それにより、大友家は四国伊予侵攻を画策していた。その手始めにまず、土佐最大の勢力一条家と同盟を結ぼうという魂胆であった。

「承ろう。」

若い房基は大友家の婚姻を承諾した。この婚姻は一条家にとって、良くも悪くも、新たな紐帯を作り出すことになった。やがて、豊後から船に乗って姫がやって来た。

 高岡郡の津野基高は頑強で城はなかなか落ちなかった。一条家の家臣たちも代変わりをしており、若い世代の者も多い。彼らは戦国武将らしく大将としての器量を房基に求めた。房家、房冬と前時代的な王者を亡くして箍の外れた一条家は、時代とともに戦国の風雲を纏い、過剰な期待を当主に求めた。大友家との婚姻も家臣団の意向が強かった。

「(やらねばならぬか…。)」

津野基高は頑強な抵抗を見せて、なかなか城は落ちない。

「御大将自ら出陣を…!!」

房基が若年だったこともあり、壮年の家来衆の中には当然の如く、房基に出陣を迫る者もいた。並み居る家来衆たちの暗黙の圧力と純真なる期待の眼差しがそこにあった。

「承知した。」

鎧兜を身に纏い白刃こそ交えぬものの房基も戦場に赴いた。とは言っても戦場の作法は老齢の家臣がした。

「若公も武家の作法を御身に付けなされたほうが良いかもしれませぬ。」

「そうか。」

首実検などのときも大将らしく横に付いていた。

「其方の手柄、実に殊勝である。」

その振る舞いは大将らしく威厳かであった。しかし、それは本意ではなかった。周りから見れば、それは房基の本意の如き振る舞いに見えたであろう。それは誰の目にも明らかであり、房基自身もそうであるように務めた。だが、房基の内なる何かはそうであることを拒んでいた。房基の胸中は次第に自身も気がつかない内に葛藤の渦に巻き込まれていた。

「(やらねばならぬのか…?)」

結局、津野基高は3年後の天文15(1546)年になってやっと降伏した。その余波を刈りとるべく、一条家は、基高に味方し反旗を翻した蓮池城の大平氏などの高岡郡の諸将を攻めて降伏させて、高岡郡一帯を平定した。

「(早く終わってくれ…。)」

息つく暇もなく、今度は豊後にいる義父、大友義鑑から伊予攻撃の援軍を求められた。

 この頃になると、房基は独り言も多くなり、不眠がちな日々が続いた。大友家による伊予攻撃の援軍が発向すると同時期に、高岡郡の長宗我部国親が、一条家麾下の大津城を攻めて奪い取るということがあった。大津城は去年、津野氏から攻め取ったばかりであった。国親はその勢いで高岡郡一帯を掌中に収めるべく働いている。長宗我部国親は幼い頃、房基の祖父、房家が中村御所で養育し、故郷の岡豊城に帰した経緯がある。

「若公。御出陣の手筈を…。」

「何がどうなっているのだ…!」

結局、房基は出陣することなくこの世を去った。天文18(1549)年。卯月。発狂による自害という。房基の本性は己が公家であることを望んでいた。しかし、房基は自身も気がつかぬ内にその本性を隠し、時代や周囲が求めるように武家として振る舞うことを期待されて、その期待に応えた。が、房基の精神と身体がそれに耐えられなかった。中村御所で発作的に房基は刀を抜いて腹を、そして喉を突いた。房基は28歳の短い人生を終えた。公家と武家との狭間で困却した哀れな若者は、最期まで武家に翻弄された。


兼定

 突然の当主の死により、土佐一条家は混乱に陥った。房基の子の万千代丸はまだ7歳である。

「京の御本家を頼るしかあるまい。」

家老の一人が言った。さっそく手紙を遣わし、二人の妹を残して万千代丸を京都に送った。

「よくぞお出でなされた。」

京一条家当主は房冬の弟の房通である。当時41歳。万千代丸は14歳になるまでの7年間を京一条家の屋敷で育った。房通は武家風の教育作法は知らないが、かと言って放っておくわけにもいかないので、一般的な京都の公家の子のようにして養育した。

「和歌は良くされますかな。」

「知りませぬ。」

房通は和歌を好んでいた。

「朝日影にほへる山の春風にふもとの里は梅が香ぞする。」

一条兼良の歌であった。

「誰の歌です?」

「後成恩寺殿(一条兼良)という方の呼んだ歌にございます。」

「どこのお方にございましょうか?」

「土佐一条家の初代房家殿の祖父に当たられるお方にございます。」

「私のご先祖様にございますか?」

「左様。私のご先祖様でもあります。」

万千代丸は少年期の7ヵ年を、土佐の戦乱から離れた京の都で平和に暮らした。元服を終えた万千代丸は名を兼定と名乗ることになった。

 14歳になった弘治2(1556)年。叔祖父の房通が亡くなった。

「叔祖父様。有難うございました。」

兼定は房通の冥福を祈った。房通が亡くなる2年前には、京一条家当主で、房通の子であった兼冬が亡くなっていた。それにより、京一条家はまだ幼年の内基が継ぐことになった。当時、9歳の内基にこれ以上世話をかけることもできないので、元服も終えていた兼定は土佐に帰ることにした。

 久しぶりに兼定が戻って来た土佐中村であったが、もはや家臣たちは一条家の当主に武家の大将としての格は求めていなかった。

「父のようになられては困る。」

という者もいたし

「御所様は所詮、御所様だ。」

という者もいた。兼定にはその言葉の意味は分からなかった。家老や家臣たちはまるで腫れ物を触るかのように接しながらも、半ば放っておいた。

「御所様はお好きなようにお暮らしなされませ。」

そのことに何の疑問も持たなかった兼定は、少年期と同じように和歌遊興をして日々を過ごした。相手は少年期をともに京都で過ごした近習たちであった。

家臣たちは兼定を半ば放っておきながらも、半ば傀儡として利用した。

「御所様に嫁御がございます。」

「嫁とな?」

重臣たちの決定により、伊予国の土豪、宇都宮家の娘を兼定の嫁に迎えた。近く婚儀が行われた。兼定はそれが当たり前のことであるのだと思い、何の疑問も持たずに婚儀を臨んだ。

「めでたいことにございます。」

高砂が歌われ舞が舞われた。この婚姻は一条家と宇都宮家の政略結婚であったが、そんなことは知る由もなく、兼定は土佐武士の舞を見つめていた。

 そんな兼定を尻目に家臣たちは己が所領の保全に勤めていた。この頃の一条家の武士たちは、兼定の母の兄である大友義鎮の求めに応じて、伊予国に出兵する一方、東の脅威である土佐の国人領主たちとの戦を繰り広げていた。兼定も兼定でそれら武士たちの働きは意に介することなく、女房たちを呼んでの詩歌管弦の遊びに興じていた。それは不思議な関係であった。お互いがお互いに必要以上に関わることなく、無関心、無干渉を貫いている。この関係は当時の土佐一条家にとってはもっともbestな関係ではあったがgoodな関係とは言えなかった。内部の事情を知らない傍から見たら、暗君とその主従たちという関係に見えたであろう。

 幡多荘の隣の長岡郡では国親の子、長宗我部元親の長宗我部家が近隣の諸勢力を謀略討滅し、着々と勢力範囲を広げていた。

「御所様に嫁が参られます。」

「また嫁が来るのか?」

永禄7(1563)年。豊後大友家より当主宗麟の娘がやって来た。

「おめでたいことにございます。」

婚儀が行われ、再び高砂が舞われた。宗麟の娘との婚儀を前にして、妻の宇都宮豊綱の娘とは離縁させられた。

「(それが武家の作法なのか…?)」

多少の疑問を差し挟みながらも、生来、公家育ちで純朴な兼定は、宗麟の娘との、自身の二度目となる結婚を受け入れた。おそらく、この婚姻は大友家側から打診されたもので、九州最大の勢力を持つ大友家の要望を土佐一条家も宇都宮家も断れなかったのであろう。豊綱の娘との離縁は宇都宮家も合意していたことと思われる。

 宇都宮家、大友家とともに伊予北部の河野氏、山陽の毛利氏などと戦い、あるときは長宗我部元親に伊予北東部への出兵を依頼しつつ、抗争を繰り広げていた一条家であったが、永禄12(1569)年。長宗我部元親が土佐安芸城の安芸国虎を滅ぼすにあたり事態は急変した。

「(妹が戻って来たのか…。)」

国虎の夫人は兼定の妹の一人で、彼女も家臣たちの一存により、安芸国虎のもとへ嫁いでいた。27歳になる兼定は、この頃は何となく武家衆たちの周囲の状況は分かっていたが、それでも、それはあくまで他人の事であり、自らには関わりのないことであるのだという意識であった。

 曾祖父に似たのか呑気な兼定と打って変わり、元親の行動は早かった。国虎を滅ぼしたことにより、土佐東部を掌中に収めた長宗我部家はすかさず、高岡郡に攻め込み、一条家の麾下にあった蓮池城を計略を持って奪った。破竹の勢いの長宗我部家に恐れおののき、高岡郡の津野氏、佐竹氏なども長宗我部家の傘下に降った。斯くして高岡郡一帯は長宗我部家の支配するところとなり、土佐七郡の内残すは一条家の幡多郡のみとなった。

「もはや長宗我部に降るしかあるまい。」

土佐一条家の四家老、土居、為松、羽生、安並たちは長宗我部家に降伏することを良しとした。他の家臣の国人領主たちの中にはそれに反対する者もいた。そんな中、事件が起きた。

「家老の土居が御所様を殺し、長宗我部に降ろうとしている。」という噂が囁かれた。その噂は兼定の耳にも入っていた。根も葉もない噂である。長宗我部家の息のかかった者、あるいは、家老衆に不満を持つ国人の流したものであろう。しかし、長宗我部家という大いなる脅威を前に、家中もまとまらず、並々ならぬ雰囲気にあった当時の一条家において、その根も葉もない噂はいつのまにか真実味を帯びて幡多郡一帯に広がっていった。

「(近頃は物々しいのう…。)」

兼定は屋敷の廊下を歩いていた。兼定の懐には小刀が忍ばせてあった。

「殿も武家の血を引く者にございますれば、いつお命を狙われるかも分かりませぬ故、常にお持ち下されませ。」

入江左近という小姓にそう言われて持たせられた。

「土居某のような者も家中にはおりますれば…。」

「近江守のことか?」

「そういうことは人前では仰りませぬように。それが武家の嗜みにございます。」

左近はそう言っていた。家中の武士が兼定を本気で相手にしていない中で、この左近だけは武家の作法と言って、兼定にいろいろなことを教えてくれた。

「(私も武家の端くれであるのか…。)」

家中の多くの皆の接し方は、父、房基のこともある兼定に気を遣っての優しさであったのだが、そうした中で一人だけ、他とは異なり、自分を一人の武士扱いして接してくる左近。そう接せられることは、どこか自分が特別扱いされているようで内心兼定はうれしかった。

 一方、土居宗珊は土佐一条家のことで頭が一杯であった。

「(長宗我部に降るとしても、御所様や子はどうなるか…。)」

奸計をめぐらせるという長宗我部元親は、一条家に対しても何をしてくるか分からない。あるいは、兼定の命を狙い、あるいは降伏の対価として兼定やその子の命を求めてくるかもしれない。常にそのような胸中の心配事を持ちながら過ごしていた。

「御所様、御身にお気をつけ下され。」

「御所様。不測の折には、この土居近江にお任せ下され。」

この気の優しい老武士は不安からか、そのようなことを兼定を前にしてつい口にしてしまうのであった。

「(どういうことだ…?)」

年端も行かぬ左近には、直接尋ねられるのだが、経験豊富で含蓄あふれる宗珊を前にしては、兼定も真正直に思ったことを言えるはずもなかった。鬱屈とした不安は不消化のまま、兼定の体内へと蓄積されていった。

 不思議なことに、表面的には左近の言葉も宗珊の言葉も兼定のことを案ずる言葉である。左近の言葉には柔順な兼定は、宗珊の言葉には疑心を抱いた。あるいはそれは、このときの土佐一条家の雰囲気を反映していたのかもしれない。

 ある夜のこと。兼定の部屋に訪客があった。宗珊であった。

「何事ぞ…?」

「お人払いを…。」

「今は誰もおらぬぞ…。」

「左様にございますか。」

「(笑った…?)」

宗珊の頬が上がったように見えた。それは宗珊の嵌めていた入れ歯の具合を調整しただけのことであったが、若い兼定には知る由もない。

「実はこれがやつがれめの部屋にありましてな…。」

宗珊は懐から小刀を取り出した。

「(…!)」

兼定に驚きが走った。

「御覧下され。」

宗珊は小刀を抜いた。

「なっ…!」

日頃の疑心暗鬼と突然の出来事により、兼定の頭は真っ白になった。

「(このようなときはどうすれば良いのだ…!?)」

「ここに酢漿草の紋がございます。」

誰かの贈答品かとも思われるような煌びやかな拵えのその小刀の鎺金のところに小さく酢漿草紋が刻まれている。酢漿草紋は長宗我部家の家紋である。しかし、恐慌状態の兼定の耳には聞こえていない。、

「小さくて見えませぬかな…。」

老眼の自分になぞらえてそう思った宗珊は優しさから、白刃の小刀を持って兼定に歩み寄った。

「(来る…!?)」

兼定は懐から小刀を抜いた。

「(家中には土居宗珊のような者もおります。いつ命を狙って来るかも分かりませぬ。いざというときはこの小刀で、宗珊めを…。)」

入江左近に言われた記憶が歪曲されてイメージされる。

「不忠者…!!」

ドスッ…。

そのときのことは兼定自身も覚えていない。気が付いたときには目の前の宗珊は騒ぎを聞き付けてやって来た小姓の入江左近に斬られ、あるいは、突かれ絶命していた。

「殿。お気を確かに…。」

左近の声が聞こえた。

「不忠者は成敗致しました故、ご安心下され。」

翌日、家老土居宗珊は兼定に手討ちにされたと家中には報せられた。

「土居宗珊は長宗我部に通じており手討ちにされた。」

宗珊に仇なす者はそう言い、宗珊に味方する者は

「宗珊は御所様の放蕩をお諫めしたところお手討ちにされた。」

と言った。

 その頃、土佐にめずらしい人物が訪れた。京一条家の当主、一条内基である。兼定が京を離れた頃はまだ幼年であった内基は、26歳になっていた。

「(義兄上様は元気にされているであろうか。)」

度々、兼定からの手紙をもらっていた内基は、この度、兼定に権中納言昇進の任官が成ったので、その報せも兼ねて土佐に下向したのである。突然の公卿の訪問に中村御所の者たちは驚き慌てた。このとき、内基は正二位権大納言であった。

「(義兄上への書状に書いたはずであるが…。)」

中村御所の様子は、手紙に聞いていたものとも異なる印象を受けた。

「(殺伐としている気がする…。)」

とりあえずも兼定のもとに赴いた内基は驚いた。

「義兄上、どうなされたのですか!?」

十数年ぶりに会った兼定は頬が痩せこけ、廃人のように気が呆けていた。

「(手紙に書いてあることと全く異なる…。)」

兼定の手紙には、日々、気儘に呑気に暮らしていると書いてあった。

「(これが気儘な様子には見えぬが…。)」

兼定は土居宗珊手討ちの一件以来、気鬱になり、詩歌管弦の遊びへの意欲も低下し、食欲も落ちていた。

「食事は摂っているのか…?」

内基は家老衆に事情を聞いた。

「成る程な…。」

今の土佐一条家を取り巻く環境と内部で起こっている事態は大体、把握できた。

「我々はいかがなされましょうや。」

家老衆は一条本家の若い当主に藁をもすがる思いで聞いた。

「長い物には巻かれるしかあるまい。」

大勢力には恭順の意を示し、身の安全を保つ。それが代々の公家の習いであった。

「義兄上は一時、隠居の身とし、子息を当主に迎え、長宗我部家を後見人に据えると良い。」

家老衆との相談の上、そう決まった。

「義兄上は京の一条本家において、しばらく静養されるのが良いが、あの様子では京までの旅路に耐えられるか分からぬ。」

熟考の末、兼定の妻の実家である豊後の大友家で静養させることにした。

「義兄上、もう大丈夫ですぞ。」

そう言っても兼定は反応を示さない。

 兼定の18歳になる男子が、内基から一字を賜り、内政と名乗り土佐一条家5代目当主の座に座った。それと同時に長宗我部家へもその旨と後見人のことを告げた書状が届けられた。元親もそれを了承した。

 翌年、事は治まったと思われた。が、家老衆に不満を持つ国人たちが為松、安並の二家老を襲撃し、殺害してしまった。

「斯様なところに御所様を置いておかれぬわ。」

混乱の中、中村御所に乗り込んで来た長宗我部元親によって、内政は土佐大津城に連れていかれてしまった。

「(これが武士という者か…。)」

義兄、兼定の豊後行きを見届けて送り、内政の従五位上左近衛少将叙任が成った翌年の天正3(1575)年、風雲急の中、内政は京都に帰った。その後、幡多郡は元親に反対勢力も押さえられて、長宗我部家の掌中となった。

「(人を殺してしまった…。)」

宗珊の一件以来、兼定は気鬱になっていた。義兄、大友宗麟の下に妻たちとともにやって来た兼定は、臼杵の城下に屋敷を与えられて過ごしていた。政治は愚か、詩歌管弦への興味を失っていた兼定は宗教にすがろうとした。

「(名のある老師はいないだろうか…。)」

あるとき、そう思い宗麟に尋ねた。

「城の中に礼拝堂がある。」

「(城内に僧がいるのか…?)」

そう思い、ついて行った場所にあったのは初めて見る建物であった。

「何ですかここは?」

「でうすを崇めるところである。」

「(でうす?)」

聞くところによると、でうすとは南蛮の神で、南蛮宗きりしたんの主であるらしい。

「あの十字は何でございます?」

「くるすだ。」

礼拝堂と天頂付近に十字の構造物が置かれていた。

「あそこに縛りつけられている者は何者にございます?」

「きりしとである。」

見ること聞くこと初めてのものに兼定はいつ以来かの昂揚感を感じていた。

「其方もいずれ、ぱーどれのもとに連れていって進ぜよう。」

「(きりしたん…。)」

屋敷に帰った兼定は今日聞いたことを思い出していた。『くるす』に架けられた『きりしと』の物語と神の国に通じる教え。それらは失意の底に沈んでいた兼定を地上に押し上げるような活力を与えてくれた。

「(南蛮の教えをもっと知りたい…。)」

それから兼定は毎日のように礼拝堂に行った。

「この者が、ぱーどれのかぶらる殿だ。」

カブラルは元亀元(1570)年、日本にやって来た新たな布教長であった。後に、イエズス会巡察師ヴァリニャーノとの意見の対立により、布教長を辞任する。厳しい清貧を道徳とするイエズス会の方針に乗っ取ったカブラルの日本人に対する評価は厳しいものであった。

「あなたはまだ十分に、ぜすきりしとの教えを理解されておらぬ故、早々に入信することは叶わないということです。」

カブラルの隣にいる日本人が通訳していた。それから兼定は宗麟から、きりしたんの書物を借りて、ぜすきりしとの教えを学んだ。その姿はほんの少し前までの兼定からは思いもよらないものであった。そのようなうちに、あっという間に1年の歳月が流れた。

 未だ受洗の叶わない兼定は信仰のうちに生活し、学び、礼拝した。そんな兼定のもとに書状を携えた訪客が来た。

「土佐幡多の国衆たちは御所様のお帰りをお待ちしておりまする。」

土佐幡多郡では、長宗我部家の支配に反対する者たちが増えてきて、彼らは盟主となるべく兼定の帰国を望んでいた。

「私は中村へ戻るぞ。」

「左様にございますか!!」

さっそくその旨を伝えに使者は土佐へと戻った。

「土佐へ戻ることになりました。」

義兄の宗麟に告げた。

「義兄のように土佐にきりしとの教えを広めたく存じまする。」

カブラルにも別れを告げようと思ったが、彼は肥前へ旅に出ていた。

「ぱーどれは中納言殿が、帰国なされるときは、その前に受洗をするようにと申し上げておりました。」

「まことにございますか!?」

カブラルの弟子のばうちすたの手によって兼定は受洗を受けた。晴れて、きりしたんとなった兼定は『ドン=パウロ』の受洗名を授かった。

「どん=ぱうろ。」

「『ドン』とは貴人を表し、『パウロ』はきりしたん宗門の聖人の名前にございます。」

「それは立派な名を頂いた。」

バウチスタと旅路のカブラルそして、デウスに感謝して教会を後にした。

「(どん=ぱうろ。)」

出自は公家である兼定はこの名前をたいそう気に入っていた。

天正3(1575)年。文月。宗麟が用意してくれた軍船に乗り、ドン=パウロこと兼定は海路、土佐を目指した。

 伊予の法華津に上陸した兼定らは周辺の反長宗我部勢力を糾合していった。そのうち兼定らの軍勢は渡(四万十)川を挟んで、西に陣を構えた。

「其方たちに、きりしとの教えを聞かせてあげよう。」

兵たちや周辺の百姓たちに兼定は、ぜすきりしとの物語と神の愛を説いた。

「御所様が南蛮の教えを説いているだと…?」

それを聞いた付近の仏教僧たちは、そのことを長宗我部家に伝えた。

先だって兼定来襲の報せを聞いていた長宗我部家は元親自ら出陣し、渡(四万十)川の東に陣を構えた。天正3(1575)年。長月。渡(四万十)川の戦いが始まった。

「すは!かかれ。」

兼定の軍勢3500。対する長宗我部家は倍の7500。多勢に無勢の兼定軍は奮戦虚しく敗走し、兼定復帰の軍は壊滅した。兼定は伊予の孤島、戸島に身を隠した。

「禍根は絶たねばあるまい。」

長宗我部元親が呟いた。

 戸島は面積2.8平方kmほどの島である。兼定は村人たちの世話になりながら、僅かな伴と村の外れの山寺で生活していた。

「主でうすよ…。」

そうした生活の中でも信仰は離さず、義兄、宗麟から送られた銀のくるすを手に、日夜、礼拝をしていた。

小降りの雨の降るある日、戸島に一艘の忍船が到着した。その中から男が一人降りてきた。

「御免下さいまし。」

行方不明になっていた兼定の小姓の入江左近であった。

「お会いしとうございました。」

「左近!?今までどこに居ったのだ。」

左近は兼定の子息、内政とともに大津城に留まっていたが、兼定挙兵の報せの聞いて、駆けつけて来たという。

「生憎、戦には間に合わず、途方にくれていたところ、伊予の者より、御所様は戸島に御隠れ遊ばされていると聞きまして…。」

「左様か。其方が無事でよかった。」

「ところで、その十字は…?」

「これか?」

兼定は豊後行きの後のことを話した。

「私はこれからは一人のきりしたんとして生きようと思う。」

「それは御殊勝なることにございましょうや。」

夜になり、左近も山寺に泊まった。


ストッ…。


兼定の寝所に誰かが忍び込んだ。刺客であった。

「(おらぬ…?)」

布団は温かかった。向かいの戸が開いている。厠であろうか。


スッ。


そのとき兼定が戻って来た。

「どうした左近…?」

兼定の目の前には開いた戸から漏れいづる月明かりに照らされた左近の姿があった。その手には、月の光を反射して、白刃が一振り握られていた。

「御免!」


ズバッ…!


瞬く間に兼定は、一刃、二刃、三刃…と斬りつけられた。

「うぅ…。」

兼定は失神した。

「(…。)」

入江左近は、その場から逃走した。とどめを刺さなかったのは、兼定が死んだと思ったからだろうか、それとも他の何かからであったのだろうか。停めてあった船に乗り込み戸島を後にした左近は、そのまま失踪した。

「御所様は戸島でお亡くなり遊ばされたそうだ。」

入江左近から届いた書状を長宗我部元親が読んでいた。

兼定は一命を取り留めた。

「(でうすよ…。)」

兼定は左近を恨むことはなかった。

「(左近の罪をお許し下さい…。)」

そればかりか左近の贖罪を神に願った。一命は取り留めたものの怪我により、兼定は片腕を失った。それでも、信仰は離さず祈り続けた。

「(ぜすきりしとよ。憐れな我等をお救い下され…。)」

その後も兼定は数年間、戸島で生き続けた。

「(諸々のきりしたんの書物有り難く候。どん=ぱうろ…。)」

戸島隠棲中も豊後のイエズス会司祭らと文通交流し、きりしたん関係書物などを送ってもらい、それを読み耽った。

天正9(1581)年。そんな兼定のもとを南蛮人の一行が訪れた。イエズス会東インド管区巡察師ヴァリニャーノである。ヴァリニャーノは安土の織田信長を表敬訪問した帰りであった。

「おお。有り難や…。」

後に『東洋の天使』とも言われるイタリアの貴族出身のヴァリニャーノ司祭を兼定は聖人を崇め奉るが如く拝み平伏した。

「有り難や…。有り難や…。」

その姿は一人のきりしたんそのものであった。ヴァリニャーノは苦難の中でも、でうすと、ぜすきりしとの愛を忘れることなく信仰に生きることを兼定に説いた。

「でうすよ…。きりしとよ…。」

晩年は信仰に生きた一条兼定は、天正13(1585)年。文月朔日。同地戸島にて没した。兼定の希望通り、きりしたんの儀式による埋葬は行われなかったが、今でも戸島の一隅に兼定を祀った小さな祠が建てられている。


係累

 兼定の子、内政は長宗我部家の保護下に置かれ、土佐一条家第5代当主として、『大津御所様』と呼ばれていた。しかし、実態は長宗我部家の傀儡であった。そんな一条内政は、天正8(1580)年。長宗我部家臣、波川玄蕃の謀叛に関与したとして、伊予国へ流され、同地で死没した。

 内政の幼児は、長宗我部家臣、久礼田道祐に養育されて、政親と名乗り、土佐一条家第6代当主に就いた。しかし、その政親も、関ヶ原の戦いによる長宗我部家の没落とともに行方をくらましてしまう。こうして、土佐一条家の歴史は終わった。

 戦国の始まりと伴に現れ、戦国の終わりと伴に消えた土佐一条家。彼らは公家と武家の狭間で右往左往し、やがては戦国大名に吸収されて消えた。約100有余年、中村の地で君臨していた御所様は、土佐の荒波の中に呑み込まれて藻屑となったが、彼らが残した中村の町並みや京都の文化は500年経った今でもなお土佐高知を彩る華の一輪になっている。応仁の乱より武家に翻弄され続けた土佐一条家の命運は決して幸せだったとは言えないだろう。しかし、私たちの記憶には、彼らの栄華の花がありありと映り輝いている。

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