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職務放棄したことを妹に叱責された西家当主が、何度も振り向きながら。
足取り重く去って行くのを見送って。
「まぁ、西将軍が過保護になるのも無理ねぇけどな」
(……琳のあっちの姿を知ってるせいか、俺だってつい甘やかしちまうし)
朱夏は、抱いていた琳を地へと降ろし。
「朱っ……お師匠様?」
大貴族の姫に相応しい衣装についてしまった土埃を、手ではらってやりながら言った。
「琳。お前、もう帰れ。鍛錬は明後日からしてやるから、それまでは屋敷でおとなしくしとけ」
弟子である自分の前に片膝をつき、衣装の汚れを確認する師匠に。
「煌兄様が酷い事を言って、ごめんなさい!」
琳は兄の非礼を謝罪し、頭を下げた。
「……琳」
躊躇無く謝るその姿に、朱夏は弟子の成長を感じた。
琳は朱夏に弟子入りするまで、頭を下げて謝罪することを知らない子供だった。
十五とは思えぬほど無知で、我が儘で自分勝手な子供だったのだ。
その琳も、もうすぐ十七……身体だけでなく、ずいぶんと心も育ったものだと。
あらためて、朱夏はそう思った。
(師弟ごっこも、そろそろ潮時なのかもな……本人はまだ分かってねぇが、琳は李迦皇子の最有力妃候補になったんだ。護身術以上の武術なんて、こいつには必要ねぇよ……)
護身術以上の武術を望み……兄達のように戦う術を身に付けたいと、琳は朱夏の弟子になった。
兄達に、護られるだけでなく。
護れるように、なりたいと……。
だが、琳の三人の兄達はそんなことはこれっぽっちも望んでいない。
だから彼等は寧国の誇る優秀な武人でありながら、妹には護身術どころか一切の武術を教えることを拒んだのだ。
溺愛する妹に懇願されても拒み続けた彼等の理由も気持ちも、朱夏にはよく分かっていたが……朱夏は琳の願いを突っぱねることができなかった。
琳のためにも、自分は彼女に関わるべきではないと考えていたのに。
朱夏の中にいる『あの男』が、琳に『あの人』の面影を重ねてしまったから……すがりつくその小さな手を拒むことができなかったのだ。
ーー紅焰! この腰抜けめがっ……自ら吾に触れることさえ、貴様はできぬのかっ!?
雪より白い、純白の長い髪。
陽より輝く、黄金の双眸。
天においても地においても、誰より何より美しく。
誇り高い、あの人の涙を見たのは。
ーーお前がこの手をとってくれたなら、吾はっ、吾はっ……!
後にも。
先にも。
ーー吾はお前と共にっ……紅焰、お前の傍で生きる覚悟であったのにっ!
唯一度……あの時だけ、だった……。
「……おい、琳。悪いと思うなら、兄ちゃんの機嫌を直しといてくれ。俺は明日の朝儀で、嫌でも西将軍に会わなきゃなんねぇんだぜ? ほら、もう顔上げろ」
気を抜くと引きずられそうになる『あの男』の想いを、いつものように心の奥底に精神力で押し込めて。
朱夏は、ぽすんと軽い手刀を琳の頭に落とした。
「しゅ、朱夏っ……」
お師匠様ではなく朱夏と呼んだことを注意しなかったのは、顔を上げた琳の唇が震えていたからだ。
四家の生まれで有りながら生粋の寧国人はとうてい思えぬ朱夏の髪と眼の色を、貴族の中には"汚い”と陰口を叩く者達がいる。
ゆえに琳は、兄の放った言葉が朱夏にそのことを連想させてしまったのではないかと考えてしまったのだろう。
不義の証の色をその身に持って産まれた穢れた存在、南家の恥さらし者ーーーー南家傍系の者ですら、朱夏を忌まわしく思う者がいるのも事実だ。
「あのな、琳。お前の兄ちゃんが俺を汚いって言ったのは、その通りなんだぞ? 野営続きで風呂もまともに入ってねぇしな。全身ほこりっぽいし、さすがに臭いだろ?」
つんつん、と。
琳の鼻を突いて言うと。
「…………うん。少しくさい」
琳はくんくんと鼻を動かし、眉を寄せた。
「いやいや、そこはそんなことないって言うとこだぜ!?」
朱夏は、軽口で琳を笑わせようと思ったのだが。
「………ご、ごめんなさいっ」
琳の顔はますます、険しいものとなってしまった。
姉の紅華が言うほど、自分は女の扱いが下手な男だとは思わないが。
琳が相手だと、なぜこうもうまくいかないのだろうか……。
「あ~の~な~、琳。あの人は一度だって、お前が気にしてる意味で俺を"汚い”なんて言ったことはねぇんだぞ? 西将軍は下世話な噂話なんかに惑わされず、俺を南家の人間だとちゃんと認めてくれている。だから俺は、あの人が嫌いじゃない。もうこれ以上怒るな、琳」
琳は心根が朗らかで基本的には明るい性格をしているが、感情の起伏が激しい。
あまり昂ぶると、感情に引きずられて平素は奥底にある『本性』が出てしまう。
衆目の場で、それはまずい。
「朱夏、吾は、吾はっ……兄様だけじゃなくて、吾はっ、吾は、朱夏を汚いなんて言う人達がっ……吾の朱夏を悪く言う人達が許せないっ!」
「り、琳!? 落ち着け、俺はお前のもんじゃねえからな! おいおい、話しが微妙にずれちまってるぞ!?」
以前、たまたま聞いてしまった朱夏への陰口を思い出してしまったようで。
琳の怒りの矛先は、兄から他の不特定多数へと移ってしまっていた。
「でも、だってっ……朱夏は、吾の朱夏は汚くなんてないっ! こんなに、こんなに綺麗な髪と眼なのにっ! 朱夏を汚いって言うあの人達のほうが、心が真っ黒ですごく汚いっ!!」
琳の感情はますます昂ぶり、黒い瞳の中に金の光彩が現れゆらめき。
震える唇から、鋭い犬歯がのぞくのを見て。
「うわっ、本格的にまずいって! おい、琳っ……こら、抑えろっ!」
朱夏は纏っていた外套を慌てて脱ぎ、ばさばさと叩いて砂埃を落とてから琳の頭部にかけ、全身を覆い隠すように包み。
「怒るな、琳! 琳……俺のことで、そんなに怒るな……俺なんかのことで、そんなに悲しむな」
「……ッ」
ぎゅっと。
変化を始めてしまった琳の身体を、一度、強く抱きしめて。
「姉貴っ! 俺は琳を送り届けてくるから、後を頼む! 宰相殿への帰還の報告には、西家から直行するからさ!」
そう言うと、外套でグルグル巻きにした琳を小脇にガシッと抱えて。
「え? ちょ、ちょっと! あんた、なにその持ち方は!? 琳ちゃんは女の子であって、米俵じゃないのよ!? こら! 待ちなさい朱夏!」
姉を無視し、西家の屋敷に向かって駆けだした。