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寧国一過保護な兄が、親離れならぬ兄離れ著しい妹に悟られぬように気配を消してついてきていることにも、自分には底なしに甘いが他者には非情な兄が官吏達の首を落としたことも。
双子の兄達がその死体の足を持ち、談笑しながら処理場に向かていることにも。
幸か不幸か、久しぶりに会える師匠のことで頭がいっぱいの琳は気付く余裕は全くなかった。
「吾は朱夏の一番弟子なんだから、ちゃんとお出迎えをしなきゃ!」
南門の前には帰還した南軍の兵士達数十名と出迎えの者達がいて、琳の想像以上に大勢の人間が集ってた。
遠路を駆けた労をいたわれた騎馬達は、誇らしげにいななき。
兵士達は、危険な禍鬼の群れを駆除する任務から誰一人欠けること無く帰城できたことに、互いの肩を抱き喜びと安堵の声をあげていた。
出迎えに集まった南軍関係者は仲間達の帰還を祝し、酒樽を次々とあけ皆にふるまっている。
酒を飲んでいるは南軍の者だけではなく、開け放された門から入ってくる民達も多くいた。
それを咎める者はなく、むしろ手招きして笑顔で酒杯を差し出している。
兵士と民が入り交じり笑い声が満ち、とても賑やかだ。
それは、まるで祝宴のようなありさまで……これは南軍独特のものだった。
南軍は他軍と比べ、上下の者達も仲が良くとにかく明るい(そして無類の酒好き)。
それは、南軍を統括する南家自体の家風が影響していた。
南家は大貴族でありながらも驕った態度をとることはなく、下位の者達にも気安く接するため、自軍の兵だけでなく民にも慕われているのだ。
その人の輪の中心に琳のお師匠様、朱夏はいた。
朱夏は寧国の平均的な成人男子より長身なうえ目立つ髪色なので、すぐに見つけることができた。
兄達のような性別不明の天仙のごとき美しさとは違うが、琳は朱夏の容姿も……皆と違う赤い髪も鳶色の眼も、とても綺麗だと思っている。
琳がそれを本人に言ったら、鳩が豆鉄砲を食ったような顔を朱夏はした……。
「朱夏、いた! あ、吾があげた耳環をちゃんとしてくれてる!」
左の耳に、琳がお守りにと強引に押し付けた金の耳環が飾られていた。
琳はとても嬉しく思い……嬉しいのに、なぜか胸がきゅきゅっと締め付けられ、痛いようなむず痒いような、苦しいような感覚に襲われて足をとめた。
(あ、また、だ。朱夏と出会う前は、こんな奇妙な感覚は知らなかったのに……煌兄様に言ったら、病気じゃないから心配するなっていったけど。煌兄様、お顔が真っ青になってた……)
はからずも兄に、朱夏へ恋していることを告白してしまった琳だった。
だが、本人には"初恋”の自覚がなかった。
過保護な兄達によって育てられた琳は、恋愛感情に疎く鈍い。
まだまだ子供だと思っていた妹の成長に喜びではなく悲嘆にくれ、庭の池に美麗な顔を突っ込んで、妹にばれぬように涙し絶叫した長兄の奇行にも、琳は芽生えはじめた恋心同様に気づいていなかった。
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本人は自覚はないが兄達には知られている琳の初恋の相手、朱夏は面差しのよく似た美しい女性と談笑していた。
「紅華様、もうすぐ赤ちゃんが産まれるのよね……」
女性は朱夏の姉で、南家長子であり次代当主の南 紅華だった。
兄の白煌とはお世辞にも仲が良いとは言えない間柄だが、琳には優しく接してくれ、まるで妹のように可愛がってくれる女性だ。
"大事な人”に対の耳環の片方をお守りとして渡す風習があることを、琳に教えてくれたのも紅華だ。
琳が渡した耳環を「……俺、いらねぇ」とその場で突っ返してきた朱夏の頭を叩き、「何言ってんのよ、この愚弟がっ!」と、半ば無理矢理ではあるが朱夏の耳につけてくれたのも紅華だった。
紅華は豊かな黒髪に紅珊瑚のかんざしを飾り、臨月の腹部を締め付けないようにゆったりとした緋色の衣装を身に付けていた。
美しい大人の女性の姿を目にし。
琳は、はっと我が身の現状を確認した。
「っ!?」
慌てて、琳は九十度方向転換をし。
さすがにこのままではまずいと建物の壁に身を寄せ、大きな瞳で周囲をきょろきょろと見回しながら、まくり上げていた裾を戻した。
「朱夏の前ではちゃんとしないとっ! 兄様達と違って、朱夏は細かいことで怒るんだもの!」
琳の三人の兄達は、髪や衣が乱れていても怒らない。
にこにこしながら手を伸ばし、嬉しそうに整えてくれることはあっても絶対に琳を怒ったりはしない。
だが、朱夏は違う。
このまま彼の前に出て行ったら、絶対に怒る。
弟子入りして約二年の間、琳の身だしなみや礼儀作法、生活習慣にいたるまで細かく朱夏の"指導”がはいった。
朱夏曰く。
琳の兄達が西家屋敷内で野放しで飼育(そう、教育ではなく飼育とお師匠様は仰ったのだ!)した結果、"どこへ出しても恥ずかしい”人間に成り果てているからだとのことだった。
「煌兄様に、朱夏にそう言われたって言ったら、すっごく怒って……煌兄様があんなに怒ってるお顔を見たの、あれが初めてだったのよね……いけないっ、髪もなおさなきゃ!」
乱れた髪を手櫛で、彼女なりに整えてはみたが。
鏡がないので、確認できなかった……ので。
「ねぇ、吾の服と髪、どう? これで大丈夫だと思う?」
日なたぼっこをしていた茶トラの雄猫(宮中では鼠駆除のために多数の猫が飼育されていた)に、訊いてみた。
ーーにゃおん、にゃにゃっ、にゃー。
猫はすらりとした尾でトントンと地を叩きながら、琳の問いに答えてくれた。
「良かった、大丈夫なのね! ありがとう」
四つ脚の獣となら、琳は意思の疎通ができた。
獣を統べる聖獣であった白虎族特有の能力らしいのだが、三人の兄達にはない。
二百年程前の当主以降、獣と会話ができる能力を持って産まれたのは琳唯一人だと、長兄白煌が幼い時に教えてくれて……この能力は兄達以外には絶対に内緒にするように、約束をした。
幼い琳が「こーにーちゃ、なんで?」と訊くと、白煌は困ったような哀しいような……その美しい顔になんとも言えない表情を浮かべ、無言で琳をぎゅっと抱きしめた。
今もまだ、白煌はその答えを琳にはくれていないけれど……琳は朱夏の弟子になって、自分でその答えを見つけた。
「……茶トラのおじさん。おじさんは吾のあの姿こと、お友達の猫さん達から聞いて知ってるでしょう? 吾が怖くない? だって、吾は……」
茶トラの猫の傍にしゃがみ、触り心地の良さそうな身体に手を伸ばしながら訊くと。
ーーにゃ~、にゃ、にゃにゃっ、にゃ。
機嫌良さげにころんころんと腹をだして左右に身体を動かしながら、そう答えてくれたので。
「怖くないの? え!? 吾をおじさんのお友達にしてくれるの!? ありがとう! …………あのね、朱夏もね、吾がどんな姿でも怖くないって言ってくれたの……」
琳がお礼に顎の下を撫でると、茶トラの猫はゴロゴロと喉を鳴らした。