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寧国の都である安寧の中心部に位置する皇域は、大陸一の大国にふさわしく広大だ。
高い壁に囲まれた皇域には皇帝の居住区である皇宮、政の行われる官庁があり、そして、季節ごとに美しい花々を咲かせる草木に彩られた宮苑がある。
園内に造られたいくつも池には稀少な黄金色の鯉達が優雅に泳ぎ、清流の流れる小川は春の柔らかな陽にきらきらと輝き、涼しげな水音を奏でていた。
四季ごとに盛大な宴がに行われる宮苑だが、今年の春の宴は中止となり……皇帝黄雅が昨年末より臥せっていて、新年の祝賀行事も一切行われなかった。
例年だったら七日間続く春の宴で賑やかな宮苑も、今年は静かで……小鳥たちの楽しげなさえずりをのせた春風が葉を揺らし、満開の白木蓮の木々の間を吹き抜ける。
その宮苑の一番大きな池に架けられた朱塗りの橋を少女は駆け足で渡り、南門へと急いでいた。
「朱夏の出迎え、まだ間に合うかな!? 李迦ったら、なんでもっと早く教えてくれないのっ!?」
小柄で華奢な身体を包む衣装は華やかでありながらも品良く、結い上げた髪には白蝶貝と金で作られた優美な髪飾りが煌めき、耳には稀少で高価な金剛石の耳飾りが輝いていた。
艶やかな黒髪に黒曜石のような瞳をした、誰もが振り返らずにいられないような美しい容姿の少女だった。
少女の名は琳といい、姓は西。
寧国の四大貴族四家である西家の末姫で歳は十六……一ヶ月後には十七歳になる。
「やっと……朱夏がっ……朱夏が、やっと帰ってくるっ!」
この一ヶ月半の間、帰りを今か今かと待っていた男の名が、少々興奮気味の少女の唇から何度もこぼれ落ちた。
その男、朱夏は琳にとってとても大事な人ではあるが、恋人とかそういった相手ではなかった。
朱夏は琳の尊敬するお師匠様だ。
十五の春から、琳は彼に武術を習っている。
朱夏は四大貴族の南家の次男で、戦で脚を失った父親にかわり南軍の将軍職を代行していた。
一ヶ月半前、南軍の守護地域である寧国南部の砂漠地帯にある街が禍鬼の群れに襲われたとの報告を受けた朱夏は、直ぐに動いた。
部下を連れ禍鬼の駆除に向かい……想像以上に被害地域が周囲の街や集落に広がっていたいたため、帰都が延び、半月の予定が一ヶ月半も経っていた。
「朱夏も南軍の皆も、怪我してないといいんだけどっ……ああ、もう! 裾がひらひらして走りにくい! まくっちゃえ!」
たおやかで美しい衣装の裾を両手で持ち上げ、琳は走る速度をあげた。
ひとけのない宮苑を抜け、官吏達の闊歩する皇宮内を貴族の姫らしからぬ姿で走って行く彼女を呼び止め、不作法を注意する者は誰一人としていなかった。
多くの者は見てはおらぬと視線を不自然な方向へと流し、少数派ではあるがその姿を凝視し眉を潜めた者は……その表情を他の者に見られぬように、慌てて両手で顔を覆い隠した。
ーーまったく、厄介な姫だ。さっさと後宮に押し込めてしまえば良いものを!
官吏達を一瞥もせず走り去る凛の背を眺めながら、皆はそう思わずにはいられなかった。
凛の姿か完全に見えなくなると、回廊の隅にいた下級官吏達は談笑を始めた。
「……いやいや、獣のような姫ですな~。いくら美しかろうと家柄が良かろうと、うちの息子の嫁にはしとうない!」
「まったくですな! あの御方は女子でありながら男子のように胴衣を着て、南軍の兵士に混じりお遊戯していらっしゃるとか。淑やかな我が娘の爪の垢でも煎じて、飲ませてさしあげたいものだ」
「わははは! まったくその通りですな~!」
同じ寧国人でありながら、四家の直系は彼等只人とは比べものにならない身体能力を有しているのは周知の事で……聴力も獣並みだと言われている四家直系の姫も、これだけ離れれば何を言っても聞きとがめられることはない。
彼等はそう判断したのだ……が。
その、数秒後。
「………………ほう。吾の宝である琳に、貴様の娘の汚らわしい爪の垢を飲めと申すのか?」
お喋りで軽い口が災いし。
気配無く現れた男によって、首と胴体が"さよなら”することになってしまった。
「屑共が。吾の可愛い妹を愚弄しおって……凱、戰。すまないが後始末を頼む。吾は琳を迎えに行くゆえ」
男が振り向かず言うと。
これもまた気配無くそこに立っていた二人が恭しく頭を垂れ、応えた。
「「はい、兄上」」
西 琳は寧国四大貴族西家の姫であり、次代皇帝の座が決定している皇子李迦の妃候補であるため、下級官吏がおいそれとは声をかけることなど出来ぬ存在ではあったが。
彼女が下級官吏達にとって、挨拶の声を掛けることすらはばかられる存在と……"厄介な姫”になってしまった最大の原因は。
怖ろしい保護者が、琳にはいるからだった。
御初代様の時代より四大貴族の中で唯一、何処であろうと何人だろうと理由も善悪も問われることなく、思いのままに当主が人を殺すことを許されている最凶の一族、西家。
琳の兄である当主、西 白煌は都を護る西軍の将軍で……寧国最強の武人といわれ、寧国最悪の貴人といわれ……そして。
「琳を引き留めることすらできぬとは。虫除けにすら使えぬ、なんと役立たずな皇子だ。……まぁ、愛らしい琳に問われたら、喋ってしまうのも無理はないか」
寧国一の過保護兄であり。
「吾の妹は、寧国一の可愛らしき姫ゆえな」
突き抜けた妹馬鹿だった。
この最強最悪の兄は、琳の師匠である南 朱夏が今日帰都するのを三日前には知っていた。
だが、それを妹に教えはしなかった。
彼の帰りを待ちわびて日々を過ごす妹の姿に、朱夏への苛立ちは以前の数倍にも膨れ上がっていたからだ。
(吾が後を追っていることさえ気付かぬほど夢中で、南門へ向かうとは……そんなにあの男が恋しかったのか!? この兄よりもか!? 朱夏めがっ! よくも吾の琳を誑かしおったな!)
白煌は白い鎧に僅かに付着した血液をぬぐった絹布を、息絶えた男の腹の上へと放り捨て。
「朱夏……今回も生き残りおって。さっさと逝ってくれれば良いものをっ!」
白煌は、忌々しげにそう吐き捨てると。
赤子の時から彼が大事に大事に、それはそれは愛しみながら育てた妹、琳の後を追った。