13
翌日の朝。
寒さに耐えながら夜を過ごした朱夏の前に、北家当主北 黒景が現れた。
杖を支えに歩く老女のゆっくりとした動きに合わせるかのように、油灯の炎が揺らぐ。
陽の光の地下牢を歩む黒衣の老婆はまるで、黄泉からの使いのようだった。
「……北家当主御自ら足をお運びいただき、恐悦至極に存じます」
朱夏は膝をつき頭を垂れ、礼を述べた。
気が遠くなるほど続く階段を下りこの地下牢を訪れるのは、年老いた黒景にとって易いことではない。
北家当主として北将軍の職に就き、禍鬼退治だけでなく北方の民を襲った蛮族共と熾烈な交戦を繰り返して追い払った女傑も、今では背が曲がり、その身体はずいぶんと小さくなった……祖が聖獣玄武であろうとも、老いは只人と同じように訪れるのだ。
「この度は我が父紅侶への御配慮、ありがとうございました。私の浅慮な行いが四家の皆様、特に黒景殿には多大なご迷惑をおかけすることとなり、まことに申し訳ございません」
この地下牢へ朱夏を収監することで白煌から保護する案を、皇帝黄雅が思いついたとは考え難かった。
年若く皇帝の座に就いた黄雅は、寧国の裏も表も知り尽くし永きにわたり皇家を四家を支えてきた四家の当主達に、内面的にはまだまだ頭が上がらない。
朱夏を差し出せば白煌の機嫌はとれるが、それでは南家は黙っていない。
だが、朱夏になんの咎めもなければ、西家の面子を潰すことになる。
しかも、西 白煌は寧国の臣でありながら治外法権的な……特殊で特異な存在だ。
西家の祖である白凛は初代皇帝黄寧の妻となり世継ぎの子を産むことを了承するさいに、いくつかの交換条件を提示した。
白凛を恋い慕っていた黄寧は無理難題とも傍若無人とも思えるその全ての条件をのみ、彼女を手に入れたのだ。
代々の西家当主が、善悪にかかわらず自己判断のみで人を殺めるなどという非道が許されているのも、それが白凛の提示した条件の一つであったからだ。
つまり、西家の末姫の件で朱夏が有罪であろうが無罪であろうが白煌には関係がない。
朱夏を殺したければ己の手で殺す権利を、白煌は与えられているのだから……。
(この婆さんが、黄雅様に申し出てくれたんだろう。俺を北家で保護すると……南家は北家に借りができちまったな。俺自身も、な)
「反省したかい? 朱雀の坊」
懐から取り出した鍵で牢を開けながら、黒景は朱夏に問うた。
「ええ、まぁ。今回は反省すべき点が多くて、我ながらやっちまった感が半端ないっすよ。……申しわけありませんでした、黒景殿」
開け放たれた鉄扉から出ると、再度深々と頭を下げた。
その朱夏の姿に黒景は、溜め息を一つついてから再度問うた。
「朱夏、お前さんの嫌疑は晴れた。じゃがのう、寝台であられもない姿の末姫と半裸で抱き合っておったと姉君から聞き、父君でさえ多少疑わざるを得なかった。そんなお前さんの潔白を、誰が黄雅様に訴え出たと思う?」
その言葉に、朱夏の鳶色の眼が見開いた。
「……まさかっ」
一人しか、朱夏の脳裏には浮かばなかった。
「そうじゃ。西 琳は三人の兄を従えて自らの脚で皇域を闊歩し、黄雅様の御前に現れた。病弱などという手はもう使えないほど健やかで、さすがは西家の姫と言わざるを得ない美しい姿を皆の前に晒すことになった……それはもう、蜂の巣を突いたような騒ぎであったぞ?」
その言葉から、黒景は琳が屋敷から出ないのは……出られないのは、身体が弱く病気がちだからなどではないと知っていたのだと朱夏は察した。
北家と西家は懇意ではあるが、あの白煌が他人に琳の秘密を漏らすはずがない。
「…………あんた、どこまで琳のことを知っているんだ?」
琳が、その生涯を安寧に過ごすためには。
なんの打算もなくただただ純粋に、彼女自身を愛する西家兄弟以外にあのことを知られるべきではない。
「朱雀の坊は、まだまだ未熟じゃな。殺気を抑えんか、ここは人の心の【負】を喰う者を封じておるのだから」
「誤魔化すなっ……否定も肯定もないのか!? 白煌殿に知れたら、北家は予定より早く代替わりすることになっちまうぜ?」
「ほっほっほ……力技でしか物事を進められぬ獣に討ち取られるほど、婆は耄碌しておらんよ。猛虎を狩るのに馬鹿正直に正面から向かう必要などないじゃろう? 適所に罠をはれば、それでことは済む」
「………………俺は、俺達はあいつを護ると決めた……今度こそ。そのために白煌は必要だっ……………………驕るな、玄武の末よ。白凛に繋がる者等に手出しは無用。でなければ……」
チラリと、朱夏が赤みを増した鳶色の眼で油灯を流し見ると。
弱々しかった油灯の炎が一気に勢いを増し、鳳凰の両翼のように左右に広がって黒景の周りをぐるりと囲んだ。
「……これはこれは。迂闊なまねをなさるものじゃ。南家の御初代様は、伝え聞くよりずっと短気でいらっしゃる」
身に迫る炎に照らされた老婆の顔にあったのは、焼き殺される恐怖ではなく満足げな笑みだった。
「貴方様の火炎に焼かれたならば、人の世で穢れた我が魂も天の故郷に還れるやもしれませぬな……」
眼を閉じた黒景の鼓膜を、朱夏の怒声が撃った。
「止めろ、紅焰! てめぇは阿呆かっ!? ここで墓に片足突っ込んでる婆さん一人殺したって、意味ねぇだろうがっ!!」
朱夏の怒気に圧されたのか、炎は一気に縮こまり……消え。
漆黒の闇が、朱夏と黒景の眼から互いの姿を……表情を隠した。
「……安心せい、朱夏。婆は墓まで、このことは大事大事に持っていく」
「……」
「お前さんは貧乏くじを引いたな、婆は同情するぞ」
黒景の言葉に、朱夏からの返事はなかったが。
ただ、老いた耳にも届くほどの重い溜め息が聞こえた。
「さて、朱夏よ。このような辛気くさく縁起の悪い場所に長居は無用。さぁ、婆を背負って階段を昇れ」
「……あ~、すみません。俺、先祖が鳥系なんで鳥目なんです。こんなに真っ暗じゃ何も見えないんで無理っす」
梟をはじめ、夜目の利く鳥も世にはいることを棚上げし、朱夏があからさまな棒読みでそう答えると。
「見え透いた嘘を言うでない、坊主。ほら、さっさとせんか! 外で琳が短気な保護者殿とお前を待っておるのじゃから」
黒景は闇の中を真っ直ぐに歩み寄り、朱夏の背を杖で一発叩いた。
「なっ!?」
朱夏が驚いたのは、もちろん背を叩かれたからではなく。
西 琳が、地上で己を待っているということだった。
「琳が来てるのかよ!? それを先に言ってくれよ!」
「ほっほっっほ、先に言うたらつまらんだろう?」
「つまらなくねぇよ! ったく、あんたのそういうとこは、黒璋に似てるな……ったく、しっかり捕まってろよ!」
「御初代様に似ているとは、北家当主として最高の褒め言葉じゃの~」
「褒めてねぇよ!」
「ほっほっほ、いや愉快愉快!」
朱夏は笑い続ける黒景を背負い、北家の地下牢の階段を一気に駆け上がった。
朱夏と黒景の去った、静寂に満ちた闇の中で。
ーーコトン。
牢の壁に立てかけてあった、べっこう飴の木棒が倒れ。
そのまま、ずぶずぶと地面に飲み込まれ……消えた。