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一方。
その頃、朱夏はーーーー。
「……もしかして」
西家令嬢誘拐未遂の疑いで、地下牢に投獄されて七日が経ち。
投獄後初めて、身体を清めることを許されたのだが……。
「それって、水か?」
牢番達が申し訳なさそうに持ってきた盥の中身は、湯ではなく水だった。
「南将軍、申しわけありませんっ……」
二人の牢番は、先月の南軍と北軍の合同演習で顔見知りになった北軍の下級兵士だった。
まだ若く経験不足のために騎馬戦中に落馬し、危うく大怪我をするところだった二人を救ったのが父の代行で南軍の将軍をしている朱夏だ。
合同演習でも朱夏は、自軍の兵達だけでなく他家の兵士にも気さくに話しかけ、困っている者があれば進んで手を貸し、請われれば武術指南も快く引き受ける。
そのため、北軍と東軍の兵士にも……寧国最強の美貌の武人、西 白煌を生き神のように崇め奉る狂信者の集まりのような西軍の兵士以外には、好感度が高かった。
「気にするなって! させてもらえるだけありがたいんだ。あの長い階段を水をいれた盥を運ぶのは大変だったろう? ありがとな」
囚人が行水を許されること自体が特別なことであることが分かっている朱夏は、人好きされる明るい笑顔で、恐縮している彼等に礼を言った。
「いいえっ、そんなっ……あ、あのこれ、俺の母さんが作ったべっこう飴なんです! こんなもので申しわけないんですが、どどど、どうぞ!」
差し出されたのは、棒をつけて流し固められた子供の手の平ほどの飴だった。
職人の作った市販品と違い、いびつな形をしたそれはいかにも手作りという感じで……母親が軍で働く子供を思い、心を込めて作ったことが伝わってくる。
「……甘いもんなんて、七日ぶりだ。母君にもよろしく言ってくれ」
自然と、朱夏の顔がほころんだ。
※※※※※※※※※※
牢番の兵士達が去ってから、朱夏はべっこう飴を舐めながら衣服を脱いで行水を開始したが。
「そ、想像以上に冷てぇし!」
その冷たさに怯んで、行水ではなく身体を拭くだけにした。
朱夏は暑さには強いが、寒さは苦手だ。
はっきり言うと、寒さに弱い。
そのため、気温の低い地下牢生活は七日目ともなるとそれなりにきつく……風邪をひくのも時間の問題のように思われた。
「ううっ、寒みぃ~っ! ……やっぱ、あったけぇ湯が恋しいなぁ」
手ぬぐいで手早く身体を拭き終え、朱夏は衣服を身につけた。
「北家の地下牢に連行されるのが分かっていたら、厚手のものに着替えて外套も手袋も持参したのによぉ~」
春の陽射しの届かぬ地下牢は冷え切っており、夜には吐く息が白くなるほど気温が低くなる。
今は昼間だが、ここはまるで初冬のようさ寒さだった。
油灯の弱々しい炎では暖をとることも出来ず、かび臭い毛布を頭から被って寒さに耐えるしかなかった。
「……誘拐未遂で北家地下牢に投獄、か。あの白煌殿がそんなまどろっこしいことをするはずねぇから、父さんが黄雅様に頼んだんだろうな……」
朱夏は舐め終わったべっこう飴の木棒を左手に持ち、地面に線を……解読不明の下手くそな絵を書きながら、自分の置かれた状況を再度考えた。
「琳が秘密を知られた俺を始末したかったら、迎えに来た兄ちゃんに誘拐されたとか乱暴されかかったとか言ってたはずだ。でも、あいつは俺を庇った……」
朱夏に獣化のことを知られたと分かっていながら、琳は朱夏を兄の白煌から守ってくれたのだ。
つまり、琳は朱夏を殺されたくない、死んで欲しくないと考えて行動した。
「だが、西家兄弟の性格をよく知る父さんは騒動を知り、すぐに手を打った」
理由はどうあれ。
琳を保護後すぐに西家に知らせることも、送り届けることも朱夏はしなかった。
気を失った子虎姿の琳を連れ帰り、共に湯であたたまり、身体を拭いてやり、櫛を使い毛並みを整え、寝台に寝かせ……寝姿に魅入った。
それはもう、じっくりと……『紅焰』は眺めるだけでは物足りぬと琳に触れたがったが、朱夏がなんとかそれを抑え込み……三時間程経過していた。
その間、二人っきりでいたのは事実だ。
白煌が朱夏を"疑う”のは無理もないことで……。
朱夏が街の妓楼に頻繁に顔を出す男だというのは、皇域では知らぬ者はいない。
妓楼に足しげく通う目的は女ではないが、わざわざそれを他者に言う必要性を感じなかったので訂正はせず放置し……友人達に"渡り鳥”と、朱夏はからかわれることもあった。
琳は実年齢より幼く見えるものの、さすが絶世の美女だった白凛の末である西家の姫。
男ならば誰もが一度で良いからその身に触れたいと、手に入れたいと願うような美しい少女だった。
父親代わりの兄としては、いろいろ疑わずにおられぬのもうなずける。
(二人で寝台にいたのを見ちまったことを、姉貴が父さんに報告したんだろうな……事後ではなかったが、途中だったとかなんとか……琳がまっ裸なのがまずかったな)
「……妹に不埒なまねをされた違いないと思い込んでる(で、あろう)白煌殿が俺を殺しに来ると考え、父さんは奴が手出しできない安全な場所に俺を保護して欲しいと黄雅様に頼んだんだろうが……」
西 白煌といえど、そう易々と手出しできない場所。
それが、玄武の末である北家の管理するこの地下牢だ。
北家と西家は御初代様同士が仲の良い友人であったこともあり、さすがの西家も代々北家当主には敬意を払って接している。
その北家の管理下にあるここに収監された者に手出しすることは、西家当主としておいそれとはできない。
しかも、この地下牢は普通の牢ではない。
地中深くに作られたここは、本来は人間を収監の対象にはしておらず……。
ある特別なモノを収監……封じるための牢だった。
「親父と先代東家当主が生け捕った高位の禍鬼、禍貴がここの最下層に封じられている……はず、なんだよな」
朱夏の父、南 紅侶の脚を奪った禍貴がこの下にいるはずなのだが、ここに七日間もいるのに気配が全く感じらなかった。
朱夏が気配を追えぬほど、最下層の牢とは距離があるということか……玄武の【封】が、わずかな気配も漏らさぬほど強力なのか……。
「……大怪異大禍の【核】を持つ特別な禍貴、か。神格を放棄した四聖獣の末裔の俺達には、大禍の【核】を完全に無にする力はねぇもんな。封じるのが精一杯だ。なぁ、紅焰。あんたが何とかしてくれねぇか?」
朱夏のその問いかけに。
白虎族の将白凛がとどめを刺した大禍の死骸を、その身の内に持つ神炎で灰にした朱雀族の将紅焰は答えてはくれなかった。