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助けられた礼を、一言も口にすることなく。
琳が、次兄の西 戰の片腕をとって早足でその場から去ったのは。
兄を、西 白煌を……理由も善悪も問われることなく、思いのままに人を殺すことを許されている西家当主である兄を。
(早く、早くここから……この人から、朱夏から煌兄様を離さないとっ!)
朱夏から。
獣化した琳を助けてくれ、飼いたいと言って……大事にすると言って、優しく撫でてくれた朱夏から遠ざけたかったからだった。
自分の兄、白煌がとても強いのを琳は知っていた。
琳は幼い頃より、庭で手合わせする三人の兄達を見てきた。
長兄の白煌が戰と凱を血反吐にまみれるほど厳しく指導する場面も、琳は何度も見てきた。
だから、紅華が朱夏の頬を殴った時も驚かなかったのだ。
姉に易々と頬を殴られた朱夏は、きっとそんなには強くないはずで……どれほど弱いかどうか知らぬが……もし多少は強いとしても、白煌に勝てるほど強いはずがない。
白煌がその気になれば、一瞬で殺されてしまうだろう。
(駄目、絶対に駄目! 煌兄様、お願い! あの人を、朱夏を殺さないでっ……)
白煌が家族以外には非情な男であること、琳は重々知っている。
(吾が獣になることを知ってしまった人達を、煌兄様は今まで皆、殺してしまった……兄様にばれたら、この人も殺されてしまう!)
琳は自分の意思で姿を変化させているわけではないので、突然、変化してしまうこともある。
それを運悪く目撃してしまった西家の使用人達は、白煌によって口封じのために殺された。
(吾がこの場で朱夏を庇ったら、知られてしまったことが兄様にはきっと、ばれてしまう……早く、早く南家から出なくちゃっ!)
白煌はそのことを、琳に隠さず教えてきた……それによって琳は、自分が獣化してしまうということの重大性を言葉での説明以上に理解した。
(だって、殺して欲しくないんだもの! 死なないで欲しいんだものっ……あの人は、朱夏は、虎の私を怖がったり気持ち悪がったりしなかったっ……)
朱夏は琳を、あんなにも猫だ猫だ言ったくせに。
飼いたいとまで、言ったのに。
獣から人の姿に戻った琳に、名前を訊きもしなかったくせに。
ーー大丈夫だ、心配要らない。俺の姉貴がお前の兄ちゃんを、白煌殿をすぐに連れてきてくれるから。
と、朱夏は琳にそう言ったのだ。
朱夏は姉の紅華のように、琳の『吾』という一人称を耳にしても驚かなかった。
琳本人に確かめることもせず、白煌に知らせるように姉に言っていた。
つまり、朱夏は最初から琳が西 琳だと……。
猫だとはまったく思っておらず虎だと……白虎の幼体だと分かっていたということになる。
(虎の吾を一目見た時から、西家の……煌兄様の妹だと、朱夏は分かってたんだっ……ならどうして吾を飼いたなんてっ……それに、今度こそ大事にするって何?…………今度こそってどういう意味なの?)
「ねぇ、琳ちゃん。その服は琳ちゃんのじゃないね?」
琳の思考を遮ったのは、兄の戰だった。
戰は琳より三つ年上の兄だ。
長兄の白煌によく似た美しい顔、輪郭に沿って切り揃えられた艶やかな黒髪、すらりとした細身の身体。
ここにいない凱とは双子で……泣きぼくろが右にあるのが戰で、左にあるのが凱だ。
「え? あ、うん、これは女の人が……朱夏のお姉さんが着せてくれたの。今度返してくれれば良いからって……すごく綺麗で優しくて……紅華って名前なんだって。戰兄様、知ってる?」
妹のその言葉に、戰は片眉を微かにあげた。
「南家の長女、紅華? まぁ、知ってるけど……ふ~ん、"朱夏”ねぇ……南家の武術馬鹿次男坊なんかに殿をつけろとは言わないけれど、なんとなく朱夏と親しげな感じで、お兄ちゃんは悲しいよ」
「べ、別に親しくなんかない! 戰兄様だって朱夏って言ったじゃない!」
「それに、あのおばさん程度が"すごく綺麗”って、琳ちゃんは言ったよね!? 吾や兄上ほうが、ずっと美人だと思うけど……しかも服を返せだって? くれたんじゃないんだ? う~わ~、南家次期当主ともあろう者が、ずいぶんと吝嗇だねぇ~。ねぇ、兄上?」
戰が後ろを歩く白煌にそう声をかけると。
「……吝嗇? いや、吝嗇ならばその衣装を西家の者には貸すまい。…………まったく小賢しい女だ」
琳が身に付けていた衣装は、特別なものだった。
緋色に基調にしたそれは、南家の家紋入りだった。
おそらく、紅華が成人前に着ていたものだろう。
(これを吾の琳に着せ、返却を望むとは……一会で終わらせる気などないという、あの女の意思表示だ)
「……琳、一つ質問してよいか?」
「………………なあに?」
まるで朱雀の羽で染めたような鮮やかな色の衣装を着て、自分を振り返らずに早足で歩く妹に白煌は訊いた。
「南 朱夏は、お前のその容姿について何か言っていたか?」
敬愛する長兄の言葉は、戰の背筋をぞわりと撫で上げたけれど。
長兄の言葉に含まれたものを汲み取る聡さも狡さも、まだ持たぬ琳はそれに気付くことはなく。
「え? ううん、何も言ってなかったよ?」
西家の門へ向かっていた足を止め、くるりと振り向き。
首を傾げ、そう答えた。
「……そうか。琳ほど愛らしい姫を前にして、褒め言葉の一つすらないとは。美的感覚が崩壊しておるのか、それとも南家の色を纏ったお前に感激のあまり黙してしまったのか……吾には理解しかねるが、世の男共は好いた女を自分の色に染めるのを好むらしいぞ? さて、琳はどう思う?」
天仙のような美麗な顔に、蕩けるような笑みを浮かべ訊いた兄の言葉は。
「……兄様、質問は一つって自分で言ってたよ? ……それに、好いた女の人って……兄様達以外に、吾を本当に好きになってくれる人なんかいないよ。煌兄様だって、いつもそう言ってるくせに」
琳の心臓を、チクリと刺し。
「……そうだ、琳。お前の兄達以外の人間は信じるな、けっして……絆されるな、騙されるな」
「煌兄様……」
眼の奥に焼き付いていた赤い髪が。
一瞬で灰になり、霧散した。
「さあ、おいで。色々あって疲れたろう? 兄様が抱っこしてやろう」
「……うん」
白煌は琳を抱き上げると。
兄の首にぎゅっと掴まって、顔を肩に伏せてしまった琳の背を。
ぽんぽんと、軽く叩いた。
「琳、お前が無事で本当に良かった……大丈夫、お前はこれからも何も心配することはない。今まで通り、全て吾に……吾と戰と凱に任せておけばよいのだ。……全て、な」
もし、この時。
琳が白煌の胸から顔をあげ、その表情を見ていたならば。
きっと、泣いてすがって頼んでいただろう。
朱夏を殺さないで、とーーーー。
※※※※※※※※※※
「え?」
七日後、だった。
琳がそれを知ったのは。
「朱夏が北家の地下牢にっ!?」
突然、琳を訪ねてきた老いた北家当主が。
「ああ、そうじゃよ。病弱で臥せっているはずのお前さんがいなくなったと、皇域中が大騒ぎなったあの夜より、な」
北家の管理する地下牢に、朱夏が収監されていることを琳に告げたからだった。
「な、なんで!? なんで吾を助けてくれた朱夏が、牢に入れられてるの!?」
「……なんでって、そうさねぇ」
北 黒景は出された茶に口をつけ。
こくりと一口飲んでから。
「…………こやつにお訊き、西の末姫」
「…………(婆めがっ、余計なことをっ)……」
忌々しげな表情を隠そうともせず自分を睨み付ける白煌を、枯れ枝のような指で指し示した。