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とても美味しそうな匂いがしたので。
(……あ……これ、吾の好物の東坡肉の匂いだ……煌兄様、作ってくれたの?)
琳が、眼を開けたら。
「お? やっと起きたな、アホ猫」
右手に白米がこんもり盛られたどんぶりを持ち。
左手には艶やかに光り食欲をそそる香りを放つ東坡肉をはさんだ箸を持って。
「おい、猫。お前も飯、食うか?」
胡座をかいた半裸の男が、そこにいた。
「ふ、ふぎゃあっ!?(だ、誰っ!?)」
驚きのあまり、後方に飛び退いてしまった琳は。
「ぷぎゃんっ!」
床へと、落ちてしまった。
「う~わ~、猫のくせに受け身もとれねぇのかよ!? アホ猫め! ほんと、鈍臭い猫だな~」
床の上で体勢を直し、わざとらしいほど猫猫と連発する男を見上げ。
琳は自分が、寝台の上から落ちたのだと知り。
「ぶぎゃぎゃっ!?(異国人っ!?)」
半裸の男が、赤い髪に鳶色の瞳をしていることに気が付いた。
風呂上がりなのか、男の髪はしっとりと濡れていた……。
琳は異国人など見たことはないが、髪や眼、肌の色が寧国人と違うというのは兄達に聞いて知っていた。
「…………おい、アホ猫。猫のお前には人間様の言葉は分からねぇだろうけど、一応言っておく」
男は東坡肉を口に入れ、咀嚼し飲み込んで。
寝台の上に置かれた角盆に乗っている皿から、新たな東坡肉を箸でとってから言った。
「俺は異国人じゃねぇぞ? こんな見てくれしてっけど、寧国人だ。名前は南 朱夏だ」
「ガウッ……」
(南 朱夏? 南ってことは、この人は南家だ!)
琳は毛を逆立てた。
南家は西家を嫌っていると、兄達からそう聞いていたから……。
「ここは南家の屋敷にある俺の部屋だ。こんな格好なのは、宮苑の池で溺れてるお前を助けて濡れちまったからであって露出狂でもねぇし、猥褻行為の準備でもねぇ。猫をどうこうするような奇抜なド変態趣味は、俺にはねぇ。お前に危害を加える気はないから、安心しろ」
視線を琳に向けることなく男はそう言うと。
再び東坡肉を口に放り込み、続けざまに白米を投入した。
「……うん、うめぇ! やっぱ、うちの厨頭の作る東坡肉は最高だな!」
以後、琳を無視し。
男は食事をして……その姿を琳は観察しつつ、自分のおかれた状況を把握すべく混乱状態だった脳内を整理した。
落雷に驚いて無我夢中だった琳は屋敷を出てしまい、宮苑の池に脚を滑らせて落ちてしまい、この男に助けられたこと。
男の名は南 朱夏といい、黒髪黒眼ではないが寧国人であり、南家の屋敷に部屋を持っている……つまり、南家直系である当主の家族(息子?)であること。
琳に、危害を加える気はないこと。
そして。
虎へと獣化してしまった琳を、猫だと勘違いしてること……。
(この人、吾が猫って勘違いしてるのよね? それって、都合が良いわよね!? 猫なら皇域に普通にいる生き物だもの。このまま猫のふりをして……あ、でもどうやって屋敷に帰ったらいいの!? 帰り道がわからないし、むやみに出歩いて他の人に見つかったら……!)
もくもくと食事をする赤毛の男、朱夏を白琳はじーっと見た。
(どうしよう……この朱夏って人に頼るしかないのよね!? でも、この人は西家を嫌ってる南家の人で……溺れてた猫を助けてくれる人なんだから、いい人だとは思うんだけど……)
ちなみに。
半裸の男を見て恥じらうという感性は、ずっと三人の兄達と暮らしていた琳は持っていない。
「…………おい、アホ猫。さっきからなに凝視してんだよ?」
朱夏は空になったどんぶりと箸を角盆に置き。
琳のほうへと、顔を向けた。
その顔は、兄達のような美しさはないが非常に端正な顔だった。
だが、顔は良くとも口が悪い。
琳は生まれてから一度だってアホなんて言われたことはないのに、この男は何度もアホアホ言ったのだ。
「ガウウウウッ~!(吾はアホ猫じゃないのに!)」
「……そういや、お前。猫にしちゃ変な鳴き方だよな……よくみりゃ耳の形も違うし、柄も虎柄だし……いや、でも、皇域で猛獣を飼うのは禁止されてっから、虎の子のはずねぇよな……」
「にゃ、にゃあ~ん?」
虎ではありませんアピールのため、意識して猫の鳴きマネをしたら。
朱夏は吹き出し、笑った。
「ぶっ! あはははっ、疑問系かよ!? …………ほら、こっち来い。お前用に牛の乳あるから」
「ガウッ!?」
寝台から身を乗り出した朱夏が、琳の身体をひょいっと持ち上げ。
自分の膝の上におき。
「……猫、お前は猫だろう? 猫でなきゃ、駄目なんだ……」
「ガウウ?」
琳の頭を、それはそれは優しい手つきで撫でた。
「東坡肉も食うか? もう充分冷めてるから、猫舌でも大丈夫だぞ?」
熱を孕んだ眼で。
自分を見上げる琳を見つめ返して……。
「……ガルルッ(食べる)」
鳶色の瞳と。
黄金の眼が。
「…………なぁ、猫。このまま、俺がお前を飼っちまってもいいか?」
「ガウッ!?(吾を飼う!?)」
真っ直ぐに互いを見て。
「俺、すっげぇ大事にするからっ…………今度こそ」
「ブニャ?(え?)」
二人の視線が結ばれた。
その瞬間。
ドクンッ、と。
琳の心臓が大きく跳ね。
「グアッ、アアアア……ぁああああ、あ、あん、ん、んんっ、ふぁあ、んっ!」
「ッ!?」
朱夏が、鳶色の眼を見開き。
自分の膝の間に倒れ込んだ少女を、とっさに両腕で受け止めた時だった。
ーーバンッ!!
と、扉が勢いよく開かれ。
「大変よ、朱夏っ! 西家の末姫が行方不明らしくて、西 白煌と弟が半狂乱でっ……あら? あんたが女の子連れ込むなんて珍しっ……え? ずいぶんと若いような……ま、まさかっ!?」
「はぁ? 紅華、ごかっ」
朱夏の姉、紅華は。
寝台で全裸の未成年らしき少女を腕に抱いている、半裸の弟の姿を瞬きもせず凝視し。
「未成年に手ぇ出しやがったのかっ!? この愚弟がぁああああああ!!!」
なにか言いかけた弟の頬に、問答無用で拳を叩き込んだ。