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「……さっきまでの雷雨が嘘みてぇだな」
雨雲と雷雲は、仲良く連れ立つように皇域上空から去り。
置き土産の湿気をたっぷりと含んだ重たい夜風が、空を見上げた朱夏の前髪を揺らした。
朱夏は宮苑の池にかかる橋の上で足を止め、春祭の時に食べる縁起物の饅頭のように丸い月に鳶色の眼を細め。
ある男のことを思い出し、苦笑した。
「西家の御当主様のあんな顔、初めて見たな~」
朱夏は南家当主である父親の代理で、今日の評議に出席していた。
本来なら次期当主である姉の紅華が出席すべきだが、悪阻が酷いために朱夏が代わって……つまり、代理の代理だった。
平素は午前に開始されるのだが、今日は友好国から使者との謁見が立て続けにあり、開始時間が遅れに遅れた。
しかもたまたま議題が多く、意見がまとまらず予定より長引いてしまい……最後の議題を話し合う時には、すっかり陽も落ちてしまった。
宰相職に就いている生真面目な東家当主と、腰が曲がり杖無しでは歩けぬほど老いてもいまだ現役の祭祀長官を務める北家当主が、まだ二十代の若い皇帝を容赦なく叱咤し。
四家の当主達と上級官吏達が共に場を進めていたが、しょせん代理の代理である朱夏は意見を求められることも特になく、たまに是か非か意思を口にするしか、することはなかった。
空腹と退屈を持て余していた朱夏の向かいの席には、西 白煌が座していた。
代理の代理の朱夏とは違い、強い発言権を持つ西家当主の視線は四家重鎮に頭の上がらぬ年若い皇帝にではなく……いや、視線どころかその美しい顔ごと窓のほうを向いていた。
三十代には見えぬ美麗な彼の興味は、国の重要事より窓の外にあるらしく……少々上向きの視線から、天候の変化を気にしているのではないかと朱夏は感じた。
白煌は時間の経過と共に強くなる雨に切れ長の眼を細め、やがて遠雷が聞こえるようになってくるとあからさまに眉をひそめた。
それが、互いの言葉が聞き取り難くなるほどの激しい雷雨に変わると。
みるみるうちに白煌の顔色が変わり……落雷の音が響くと、戦場ではムカつくほどに冷静沈着な男が東家の当主東 青淏の制止も聞かずに、評議の場から駆け出して行ってしまったのだ。
無礼どころか奇行といってもさしつかえないその行動に、無視された青淏は憤り、皇帝と上級官吏達は唖然としたが。
「これ、青淏。いいからお座り」
「黒景殿っ……」
四家最高齢の女当主、黒景は後を追おうとした青淏を杖で制止し。
曲がった腰をさすりながら、言った。
「陛下、先ほどの落雷は音の方向からして、落ちたのは西家の屋敷近くじゃ。屋敷には妹御がおるはず。幼き頃より臥せっている弱き姫ゆえ、雷をそれはそれは怖れると婆は聞いたことがありまする。どうか御容赦くだされ、黄雅様」
その言葉に、穏やかで優しい気質の皇帝は頷きつつも疑問を口にした。
「そうであったか……白煌は妹思いの優しき兄なのだな。だが、西家にも妹御のための使用人達が多数おろう? 屋敷に落ちたわけではないし、あのように案じ急がずとも良いのではないか?」
朱夏も、そう思った。
もしなんならかの被害が屋敷にあっても、使用人達が妹姫を速やかに避難させるはずだ。
「残念ながら西家の屋敷には、住み込みの使用人はおらんのです。ご存知のように白煌は人嫌いの潔癖症ゆえ、必要最小限の使用人を通わせておるだけじゃ。妹姫が赤子の時から、食事からなにから白煌とその弟達が世話しておるゆえ……戰は皇子の宿直番、凱は西部の村に渦鬼退治に出とるので妹姫は屋敷に一人じゃ。さぞ心細かろうて」
西家当主白煌は、人嫌いの潔癖症ーーーー。
これは朱夏も姉の紅華に聞いて知っていたが、使用人を住まわせていないは知らなかった。
「……そ、それは知らなかった。しかし、驚いた。いや、心底驚いた! あの白煌が食事の世話っ!? あやつが厨に立ち、料理をしておる姿など余には想像できぬ。実は白煌は女だったと言われた方が、よほど驚かぬぞ!?」
いや、陛下。
俺的にはそっちのほうが嫌です。
白煌に御前試合で容赦なく半殺しにされた経験のある朱夏は、そう思った。