新たなる挑戦の幕開け
ホームルームが終わると同時に鞄を持って大学に向かう。
結局昨日は桜ヶ岡先輩とろくに話すことは出来なかったから今日は何か進展があるといいんだが…もちろん演劇のほうも…
そうこうしている間に大学にたどり着く。
そして昨日の記憶を頼りに練習場所に向かいホールの扉の前で大きく深呼吸。
「すー…、はー…。…よし!」
心を落ち着かせた後覚悟を決めて扉をゆっくりと押す。
すると少しだけドアを開けたところで誰かの声が聞こえ、ドアを少しだけ開けた状態で扉を押す手を止める。
聞こえる声は一つだけ。ということは電話だろうか…。だとしたらここで入っていくのは迷惑かもな。
そう思い開け掛けた扉を閉めようと力を抜くと同時にひときわ大きく張り上げられた声が耳に届いた。
「『……ああ、ロミオ。どうしてあなたはロミオなの?』」
前言撤回。これは決して電話で誰かと話しているわけではない。
実際にこの『物語』を見たことは一回きりだというのにやけに耳に残っているフレーズ。
…確か…シェイクスピアの恋愛悲劇『ロミオとジュリエット』。
声の主は台詞を続ける。
「『あなたがモンタギュー家のロミオでなければ私たちの愛を邪魔する物は何もないというのに…』」
「『そのロミオという名の代わりに私の全てを受け取ってください。』」
「『愛していますわ、ロミオ様…』」
その瞬間心臓が跳ねた。
決して自分に言われた言葉ではないというのに。
暴れる心臓を抑えようと手を伸ばす。
それがいけなかったんだろう。
扉を支えていた手が動き、扉が『ギイ…』と鈍く音を立てる。
「…ッ!! 誰!!」
…完全にバレたな…誤魔化せる雰囲気でもない。
そう思い観念してホールの中に入る。
ホールの一番奥、小さな舞台の上では高校の制服に身を包んだ『お姫様』が驚きに目を見開きながら俺を見ていた。
恐らく怒ってらっしゃる…
これは早いところ謝るしかない。
「…ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったんです。桜ヶ岡先輩。」
「…………」
先ほどジュリエットを演じていた桜ヶ岡一花先輩は真っすぐ俺を見つめたまま何も言わない。
「…?」
そこで違和感を覚える。
四月のステージで見たセーラー服に身を包んだ先輩、昨日のおどおどして小動物のように縮こまっていた先輩……
そのどちらとも違う雰囲気をまとった目の前の先輩は俺を真っすぐ見据えたまま口を開いた。
「私たちが愛を誓い、添い遂げてもなお、あなた方は私たちの愛の邪魔をするというのですか!!」
「えぇ!?そんな台詞ありましたっけ!?」
だめだ!
桜ヶ岡先輩は完全に『ロミオとジュリエット』の物語の世界に入り込んでるようだ。
じゃあ、俺は一体何役!?
困惑している俺をよそに先輩は舞台の一番前ギリギリのところまで歩み寄る。
「あなた方がこれ以上私たちの愛の邪魔をしようものなら私にも考えがあります!」
これはあれか?
もしかして俺がアドリブでどこまで対応出来るのかを試しているもだろうか。
だとしたら、ここで先輩に良いところを見せるチャンスなのでは?
心の中で考えを素早くまとめ深呼吸。
意を決してその台詞を言う。
「ああ!愛しのジュリエット!!私は『パリス』、ジュリエット! キミの婚約者だ!!」
台詞を何とか噛まずに言う。
先輩に比べまだまだ棒読みだし、まだキャラになりきれてないのがよくわかる。
それでも先輩と同じ舞台に立ちたい一心で舞台に近づく。
『パリス』というのは『ロミオとジュリエット』の物語の中に出てくる登場人物だ。
ジュリエットの家、『キャピュレット家』の家長、『キャピュレット』が勝手に決めたジュリエットの婚約者。
よかった、ちゃんと覚えてて。
この物語自体、昔、妹に無理矢理付き合わされて見ただけだったけどまさかこんなところで役に立つなんて。
桜ヶ岡先輩——、いや、ジュリエットは俺の言葉を聞き驚きの表情を浮かべた。
「私に婚約者などおりません!」
「ジュリエット、私は『キャピュレット家』の家長、キャピュレット様より決められた婚約者。家のご意向に逆らってはなりません!」
「私はジュリエットという名の代わりにここにいるロミオ様に全てを捧げたのです!あなたたちの意向には従いません!!」
舞台の上を歩き、身振り手振りを交えて台詞を言う先輩。
いつの間にか先輩の紡ぎ出す『ロミオとジュリエット』の世界に引き込まれていくのが分かる。
由真朝陽ではなく、ジュリエットの婚約者であるパリスになっていく、そんな感覚がした。
今の俺はパリスだ。先輩がジュリエットになりきっているように。
そう思うと自分自身が西洋の庭にいるような気分になる。今着ているブレザーの指定の制服も西洋の騎士がきているような服に変わっていくような気がする。
物語の中に気が付くと入り込んでいく…
「あなたはキャピュレット家を裏切るというのですか!」
ノリノリで大声を張り上げる。
先ほどの棒読みが嘘のように変わっていた。
「なにやってんの?あんたたち?」
そこで第三者の声が割り込む。
せっかくノッてきたところだったのに……
水を差されつい苛立つ気持ちをそのまま台詞として乱入者にぶつける。
ジャージを着た眼鏡の少女へと。
「私たちは……って、えぇぇぇ!! 葉音先輩…じゃなかった、鈴暮先輩!い、いつからそこに!!」
ホールの入り口には演劇部部長、鈴暮葉音先輩が腰に手を当てて立っていた。
夢中になって演じていたせいか全然気が付かなかった。
「いつからって…んー…ちょっと前? あー、あと、葉音でいいよ。……それにしても朝陽くん、初日から一花に捕まったんだ。」
「え…捕まるって……」
葉音先輩の何か含んだような物言いに首をかしげる。
先輩は俺に近づき、桜ヶ岡先輩に聞こえないように小声で話す。
「朝陽くんは今日が実質活動初日だし知らないのも無理はないね。実は一花舞台に上がると周りが見えなくなるらしいんだよね。でもよくある話だよ。お芝居になるとその登場人物に入り込んじゃうってのは。ここまで入り込むのは珍しいけど…」
「えっ!じゃあ、どうやったら現実に引き戻せるんですか?」
「…知りたい?」
「当たり前じゃないですか!!もうここから先は俺だけじゃ絶対対処できないですし。」
なんか我に返ってからまた続けるのは恥ずかしい!!
そもそも先ほどは上手く入り込めた気はするけど実際のところまだまだ初心者だし!
「おっけー。じゃあ、失礼してっと…」
葉音先輩はそのままゆっくりと舞台に上がると桜ヶ岡先輩の後ろに回る。
そしてその体を舞台から突き落とした。
「え……」
桜ヶ岡先輩は突然の出来事に反応できずそのまま宙に身を投げた。
「あ、危ない!!」
とっさに桜ヶ岡先輩の体に自身の体を滑り込ませその体を受け止める。
受け止めたその体はとても軽く、頭がクラクラするような甘い香りがした。
ヤバい…!!り、理性が!!
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
思考停止になりそうな頭をぶんぶんと振りなんとか理性を取り戻しこんな状況を作り出した本人に抗議の視線を向ける。
「葉音先輩!! いきなり何してんですか!?」
「んー…、高さもあまりなかったし、それにいつものことだからね。」
全く悪びれてないような間延びした声で葉音先輩は言う。
ん…? いつものことって…
「それって…どういうことですか?」
「一花はこうでもしないと舞台から降りないんだよねぇ。劇で誘導して下ろすって方法も試したことはあるけどそれだとかなり時間がかかるし…。それに…」
「それに?」
「あたしはキミが受け止めてくれるって信じてたからね!」
「なにその信頼感!! ホントに危ないですから!!もうこんな方法をとるのはやめてください!!怪我でもしたらどうするんですか!?」
「お、おぅ…わかったよ。そんなに怒んなくても…」
言葉を詰まらせながら葉音先輩は視線を逸らす。
「ん…」
そこで桜ヶ岡先輩がゆっくりと体を起こした。
「んー…ん? ん…?」
そして自身の今の状態をゆっくりと確認し、お互い目が合う。
そこで先輩はようやく思考が追い付いたようで顔を急速に赤く染め上げた後、慌てて体を引き離し、俺から距離を取る。舞台の下の壁まで下がり涙を溜めた目で悲鳴を上げた。
「ひっ…ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「ち、違いますよ先輩!!誤解です! 変なことはしてないですから!!」
「ほんと一花は舞台の上とそれ以外では全然違うよねぇ。でも、やっぱりその性格何とかしたいとは思ってるんでしょ?演劇部にもそのために入ったんだし。」
その様子を見て葉音先輩は間延びした声でそう言う。
「は…葉音ちゃん……そ…そうは思ってるけど…でもぉ…」
「でもじゃない。…あー、朝陽くんごめんね。コミュ障な上に一花は人見知りも人より激しくってね。なんとか会話出来るまでは一か月くらいかかるんだよね。ゆりりんと話せるようになったのも最近だし。もともと一花はこの性格をどうにかしたくて演劇始めたんだけどさそれが裏目に出たというかなんというか…」
葉音先輩はステージの上にしゃがんだままで一花先輩を見下ろす。
つまり舞台の上で演じるときと普段とで性格が変わるようになったってことか…
ゆりりんというのは上月のことだろうか。
「あ、そうだ!良いこと思いついちゃった!」
手をポンとうち葉音先輩は笑顔を浮かべる。
「ろくなものじゃない気がするんですけど…」
「まあまあ! 話は最後まで聞きなよ! 一花は男子とも話さないし、人見知り。本人もどうにかしたいと思っている。…ということで!! 訓練だ!!」
「なにが『ということで』なんですか。」
話が繋がってない。
「朝陽くんを使って…いや!協力してもらって『一花の人見知りを直そう作戦』を実行します!!」
今『使って』って言い掛けなかった!?
「葉音ちゃん!?」
桜ヶ岡先輩が慌てたように声を上げる。
「本当にそんなこと出来るの!!」
「ちょ…先輩!?桜ヶ岡先輩も何乗ってるんですか!だいたい男子なら柊先輩がいるじゃないですか!!わざわざ俺じゃなくても!」
「柊はダメなんだな…これが。それにこれは決定事項だよ。部長命令だよ!」
先輩はえへんと胸を張る。
「それ職権乱用ってやつじゃ…」
「これは演劇部のために必要なことなんだよ!」
俺の言葉を遮り葉音先輩は声を張り上げた。
その声はホールの中に反響する。
「そ…そういうことなら…」
「ちょ!桜ヶ岡先輩!!」
先輩が葉音先輩に流されてる!?
「わ…私もこのままじゃ…ダメ…だから…それに…な…するって…めたから…だから…よろしく…お願いします…」
その言葉は小さく途切れ途切れでしか聞き取れない。
だが、先輩のその目に迷いはなかった。
相変わらず目は合わせてくれないが。
なんでこんな流れに……
まあ、俺としては先輩とこんなにすぐお近づきになれるなんて思ってなかったからラッキーではあるんだけど…
心の準備というものが……
「じゃあ、明日からなんて悠長なことは言わず今から頑張ろうか!」
「いっ…いみゃから!!」
桜ヶ岡先輩は顔を赤くする。
「そんなすぐには無理です!!」
「なーに、女々しいこと言ってるんだ!思い立ったが吉日って言う言葉もあるじゃないか!!」
「そ…そ…そんなの…今日からんて無理だよぉぉぉ~~~!!」
涙目で叫びながら桜ヶ岡先輩は走って出ていく。
あとに残されたのは呆けた俺とドヤ顔を浮かべたままの先輩そして微妙な雰囲気。
「朝陽くん…」
「今のは完全に先輩の所為ですよ。桜ヶ岡先輩のペースに合わせるべきだったかと…って、先輩?」
先輩は桜ヶ岡先輩の出て行った扉に向けていた視線を俺に向ける。
「…あれは『私を追いかけて』っていうことなんじゃない?」
「んなわけないでしょーーー!!」
俺の今日一番大きな声がホール内にこだました。