失踪の名人と
横浜は不思議な町だ。僕の好きな物が一杯だ。
そもそも最初から、僕はその街に殊更の興味があったわけではない。
山手から眺める海の景色が好きだ。その丘に営む人々が好きだ。
日本人と外国人の区別のない、混ざり合う水彩画のような街が好きだ。
父の生家へ避暑に訪れた夏は、そんな好きが一杯だった。
でも、君だけが嫌い。たった一人の、その少女の事だけが嫌いだった。
彼女はいつも白いブラウスを着、肩より伸びた黒くて長い髪は美しくも
おさげ髪にまとめたりせず、いつでも風に靡かせては台無しにしていた。
近所でもお人形のようだと言われた小さな顔は、意地悪にほほえませ、
隙あらば土を投げつけてきたり、平気で汚い言葉で罵ったりして、
僕らへの悪戯を考えているのだ。
僕らは教会の横で缶けりをしたり、木登りを一緒にしたが、
君は大人数でのかくれんぼとなると、いつも最後まで探せない。
僕が鬼の時は、日が暮れるまで探し回ったりもした。
失踪の名人、とでも言うのだろうか。代官坂で途方に暮れていると
笑いながら出てきては、僕らを脅かすこともあった。
負けず嫌いで、男の子と張り合って泣かすこともあった。
そんな猛烈な性格が他の友達と違って、嫌いだったと思う。
次の夏も、その次も、僕らは変わらなかった。
だが三年目の夏に、彼女の母親が結核で亡くなった。
片親で育てられていた彼女の顔から笑顔が消えたのは
この暑い夏だったかもしれない。
会ったことのない父親と暮らせる、遠くに歳の離れた兄さんがいると
彼女は言ったが、来年に育ての親が引き取る話を大人から聞いたのは
僕が横浜を去った後だった。
次の夏。僕らが遊んでいる場所へ手を振ったのは、確かに君だった。
泥だらけだった服も、今日はお通夜みたいな暗い色の服で、
いつも走り回って乱していた髪もおさげになっていて、
僕は彼女の大人しい可愛らしさに気付き、頬に熱を覚えたのと同時に、
言葉にできない切なさを感じ、悟った。今日で会うのは最後だと。
袖にフリルのついたシャツで木登りはできないだろう。
そして艶の綺麗なエナメル靴の足では、もう缶けりはできないだろう。
それから戦争があって、横浜の家は焼け、そして何十年もして
彼女のことを忘れてしまっていた。
僕は大人になり、子供たちが走り回って遊んでいるのを見て
昔にそんな懐かしいことがあったと思い出し、時間が許せば
また東急線へ乗り込み、わけもなく横浜へ出かけるようになった。
今では遊んだ場所にはずいぶんな住宅地が立っている。
夏至の高さから射してきた木漏れ日の陰で
あの日の失踪の名人が微笑んでいるような気がした。
◎この小説を執筆するにあたって
童謡『赤い靴』をモチーフにした物語を書きたいと思い、参考文献をいくつも読みましたが、
真相は現代になってもわからないままです。なので思い切ってフィクションとして、
その靴を履いた少女がそこに居て、ある夏に消えてしまうという筋書きにしました。
消息については想像に委ねますが、他の作品の中でもしかしたら再登場するかもしれません。(才)