あやかし
この話は私が大好きな作家の作品に多大な影響を受けております。世界観も完全なオリジナルではなく、その作品から踏襲した部分もあります。
もちろん登場人物やら話の流れはオリジナルでございますが。
ただ、そういったことに不快感を覚える方は、戻ることをお勧めします。
夏が近づくと、祖母の屋敷を思い出す。
私の家には夏休みになると父方の祖母の屋敷に、家族そろって遊びに行くという決まりがあった。
祖母の家は坂道の上にどっしりと構えている古い日本家屋である。地主である曾祖父の代から伝わる家は、時代劇に出てくる武家屋敷のようだった。広いのは家ばかりでない。古館がすっぽりと収まりそうな庭には池や土蔵があった。土蔵の中は骨董品で溢れていて、そのどれもが当時、幼い私の目には魅力的に映った。
薄暗い蔵の中はかび臭く、いたる所に置かれた骨董品からは旧びた木材のような匂いが立ち込めていた。私はそれら一つ一つを手に取って眺め、どこをどうやって流れてこの倉に行き着いたのか想像を巡らせた。
ふと気配を感じて蔵の入り口を見ると、祖母がこちらを見て立っている。
恐ろしい目をして私を睨んでいた。
♦
大学三回生となった私は古びた二階建ての木造アパートで独り暮らしをしている。
その日も講義を終え、炎天下の道を一人歩いて帰った。
夕刻になって暑さは更に増したように思える。私は呻くような息づかいで、鉄製の階段をカンカンと音を鳴らしながら登った。
ようやく帰れたと一息ついてドアを開けると、四畳半の部屋から漏れた西日が目に滲みた。
眩しさよりも、停滞していた熱気が顔を突き上げる方に不快さを覚えた。窓を開けるのを失念したため、部屋はむんむんとした畳の匂いと熱気で澱んでいた。
蒸し風呂のような室内を抜けて、全ての窓を開け、廊下に面したドアも開け放して風を入れることにした。夕風を通すと幾分か暑さも和らぎ、私の機嫌も@co*a良くなった。
そうしてなにげなく窓際に腰かけた。
窓際には一匹の蚊の死骸が仰向けに転がっていた。指でつまんで外に放り投げると、窓硝子が金色に照らされていた。光を追っていくと黄金色の西日がぽつんと浮かんでいる。
黄金色の光はゆっくりと沈んでいき、少しずつ翳っていく街並みを照らしていた。通りの向こうの商店街からは未だ活気に満ちた声、道路を走る車の音、街路樹からはシーシーと蝉が鳴くのが聞こえた。
その時、机に置いておいたスマートフォンが鳴った。
それは母親からで、週末に祖母の家で集まる約束を覚えているかということだった。
祖母の訃報を聞いたのは、ひと月前のことであった。
この年になるとぼちぼち葬式が多くなる、とぼやく父の脇で私は喪服に腕を通した。
葬儀は沈鬱のまま行われた。
突然の不幸に、私たちは呆然として事態を受け入れられていなかった。
今後祖母の家をどうするかは後日改めて話そう、ということで解散となった。
そして今週末に一族で集まることになっていたのだ。
♦
電車を四回乗り継いで、祖母の住んでいた屋敷へ向かう。
駅を出てしばらく歩いていると急に空が暗くなり始めた。
あれほどギラギラと輝いていた太陽が、今はなりを潜めてしまっている。空には腹の重い雲がズルズルと伸びていくのが見えた。
かつて祖母はこうした暗雲を、鼬雲と呼んでいたのを思い出す。急に光を遮り、黒い雲が出るときはよくない風が吹くのだと言った。
そうして思い出に浸っている間にも、まるで巨大な獣のような暗雲は立ち込めていき、橋を渡っている時にポツポツと振り出した。私は速足で歩いた。
ひっそりとした田舎町を抜け、山の方へ向かう。伸びていく道の先が暗く沈んでいく。ぬるい風が吹いて道端の夏草が折れている。
飯森の坂を登ると竹林が聳える径に出る。
寄ってくる蚊を手で払いながら進むと、白塗りの土壁と瓦で作られた大きな門が見えてきた。
門をくぐって玄関の引き戸を開けると、暗く冷たい廊下が伸びている。奥の台所からは煌々とした灯りが漏れていて、そこから母と叔母が談笑する声が聞こえた。私は脱いだ靴を揃え、板張りの廊下を進んだ。するとトイレの扉がふいに開かれ、出てきた和郎叔父と鉢合わせた。
「おお、来たな」
「叔父さん」
頭を下げた私の背中を叩き、和郎叔父は楽しそうに笑った。
祖母の葬儀で会った和郎叔父はまた太ってしまったと陽気に笑って豪快に酒を煽っていたが、今は少しだけやつれて見えた。
よく来たよく来たと背中を何度もたたかれながら座敷へと案内された。庭に面した座敷は開け放たれており、そこに父ともう一人の叔父である真一叔父の姿があった。
二人は座布団の上でだらしなく足を崩しており、中央にあるお盆を囲むようにしている。お盆の上に水滴の滴る麦酒瓶がいくつかあり、父たちは既に顔を赤らめていた。
「お、来たな」
「元気だったか?」
私に気づいた父が手招きし、空いている座布団を指さした。
「飲んでるの? 家の片付けとか整理は?」
私が聞くと父は笑った。
「なあにまずは楽しくやらにゃいかんよ。家や蔵の整理は明日になってから皆でやればいいさ――まあ飲め」
そう勧められるままに私は麦酒を飲んだ。
汗をかいた麦酒瓶から水滴が零れ落ち、畳の上に斑点をつくっていく。喉が渇いていたためか、ぬるくなった麦酒は思いのほかうまい。水のように一息で飲み干すと、炭酸が喉に染みて涙が浮かんできた。
そんなふうにして顔を突き合わせながらしばらく飲むことになってしまった。話の種はもっぱらこの古びた屋敷のことだった。
「おふくろが死んでひと月か、いまだに信じられんよ」
「まあ急なことだったしなぁ」
和郎叔父は言う。
確かに元気であった祖母が亡くなったという訃報は寝耳に水であった。祖母は年をとっても衰えるどころか、凄みが増していくようだったからだ。正月に会った時も「お前は盆暮れくらいにしか顔を見せないな」と怒鳴られて背筋が寒くなったものだった。
「しかしこの屋敷は年がら年中暗いよな」
真一叔父が言う。
「子供の頃はこれが普通だと思っていたけど。自分の家を持つと、ここが暗すぎるのがよくわかるよ」
「そもそも電灯の数が少ないし、木に囲まれて明かりも入らないからな。昔の家は全部こんなもんだったんだろうか」
父と叔父たちは私を輪に加えておきながら昔話に興じていた。
しばらく頷きつつ麦酒を飲んでいたが、グラスが空になったので私は立ち上がった。
「父さん。母さんに会ってくるよ、挨拶してくる」
「そうか? うん、行って来い」
私は微笑んで手を振る叔父たちに頭を下げ、引き戸を開けて廊下に出た。
祖母はこの冷え冷えとした大きな屋敷に一人で住んでいた。祖父が亡くなった時、叔父夫婦と暮らす話も出たが、祖母はこの屋敷を離れようとはしなかった。
♦
部屋を出て台所へ向かおうと廊下に出たところで美奈と出くわした。
私が遠慮なく部屋から廊下へ踏み出してしまったため、歩いていた美奈とぶつかりそうになってしまった。
「きゃっ」
美奈は驚いて小さな胸の間に抱えていた麦酒瓶を落としそうになったので慌てて背中を支えてやった。
「あっ、ごめん」
「び、びっくりした」
肌の白い彼女は暗い廊下の中で浮きだって見えて、私も驚いていた。
「兄さんも来てたんだ」
美奈は麦酒瓶を抱え直して言った。
「ああ。さっき着いてさ、今は親父たちと話をしてたんだ」
「先にお父さんたちのとこに行ったんだね。えっと、叔母さんがね、兄さんがまだ来ないって心配そうだったから教えてあげた方がいいかも」
「ありがとう、母さんは台所にいる?」
「うん、私のお母さんと晩御飯作ってる」
「そうか」
美奈は三つ年下の従妹だ。私を兄と呼ぶが血は繋がっていない。
和郎叔父の娘である彼女とは昔からよくこの屋敷で一緒に遊んでいた。二人で遊ぶとき、和郎叔父は美奈に「お兄ちゃんの言うことをちゃんと聞けよ」と言うのが常であり、律儀な美奈はそれに倣って私を兄と呼ぶのだった。
豪快な印象の和郎叔父の娘にしてはおっとりとしていて大人しい性格だが、地味というよりは清楚という表現がしっくりくると思う。
背は小さいながらもすらりとした手足。腰まで伸びた黒髪はしっとりと細やかで、その下には整った面差しと綺麗な双眸がある。さながら美しい人形のようであった。
「美奈も大掃除に駆り出されたんだね」
「あんまり重いもの運べないけどね」
そう言って照れくさそうに髪を撫でた。生糸のような黒髪は彼女の指の隙間をするりと抜けていく。
「兄さんと会えて嬉しいな、元気にしてた?」
「元気だよ。おばあちゃんの葬式で会ったばかりじゃないか」
「ふふっ、そうだね」
そう言って微笑んだ。
小さなころから怖がりで、何を見るにも細い眉を強張らせて警戒する彼女であったが、私といる時はふわっと緊張を解いてこうして微笑んでくれた。私はそれが嬉しかった。
見ると美奈は通っている高校の制服姿だった。制服の上から袖口まで伸びる夏物のカーディガンを着ている。この季節だが少し涼し気な印象だった。
「学校から直接来たの?」
「うん、ちょっと用事があったから」
「そっか」
話していると座敷の方から和郎叔父が「おーい麦酒がなくなったよーう」という声が聞こえてきた。
「あっ、はーい――私行くね、また後で」
「そうだね、また」
美奈は麦酒瓶を抱えて小走りで去っていった。彼女に抱えられた麦酒瓶を見て既視感を覚える。
昔、美奈と土蔵の中で遊んでいた時、木彫りの小さな観音様を見つけたことがある。彼女は「これを持っていると怖くない」と言って観音様を胸に抱きしめた。むっつり顔の観音様が美奈に抱かれている時だけは頬を緩めているように思え、美奈もまた屈託のない笑顔を浮かべていた。あの時、薄暗いはずだった土蔵にぽっと光が灯ったように見えたのだ。
♦
母と叔母に挨拶をした後、久しぶりに訪れた祖母の屋敷を見て回ろうと思った。
酒好きの父達は酔いに任せて昔話に興じており、その輪には加わりづらかった。母達は台所で晩御飯を作っていたが、料理下手な私では力になれない。
冷たくて長い廊下を歩き、二階へと続く階段にたどり着いた。木の階段は黒茶色に変色しており、つま先を僅かに乗せただけで軋む音がした。私は音を立てて一歩一歩階段を上った。
子供の頃、二階に上がることは禁止されていたのを思い出す。
私たちが遊びに来ると、孫の顔を見た祖母は渋面を僅かに緩めていたが、階段に少しでも近づくと両目をカッと見開いて恐ろしい形相で怒鳴った。理由は二階に保管してある骨董品にあった。
祖母は古物を集めるのが趣味だった。価値あるものは少なく、ほぼガラクタと呼ばれる類の雑多な収集であった。
土蔵が古物で溢れ、遂には屋敷の二階の一室に骨董品専用の部屋を作った。そしてその部屋に一振りの日本刀があった。
これは家の護り刀だからと祖母は言った。
我々に忍び寄る邪悪なものから守ってくれるものだ、決して軽はずみな気持ちで触れてはいけない。そう言いながら祖母は痛いくらいに私の肩を掴んだ。
一度だけ見せてもらった日本刀は、白鞘に収められ、横渡になる白木の刀掛けに置かれていた。
祖母が時折手入れをしていたようで、切れ味もかなりのものであったらしい。日本刀の手入れをしていた時、祖母の頭から髪が落ちて刃に触れた。その髪ははらりと真二つに切れて畳の上に落ちたそうだ。
祖母は私と美奈がこの部屋に入ることを固く禁じた。もしこの禁を破れば仕置きを下すと脅されていた。物言いにギョッとする私と、恐ろしくて泣き出してしまった美奈はこの言いつけを破ることはなかった。
窓が閉められた二階は一階よりも薄暗かった。手探りで壁のスイッチを押すと、天井からつりさげられた電灯が橙色の光を灯した。
どこか空気が冷え冷えとしていて、肌寒く思える。空気は埃っぽく澱んでいて、古い日本家屋の匂いが充満していた。
私は奥の和室へと入った。
祖母に入るのを硬く禁じられていた部屋である。ふすまを開けて入ると、妙な古物ばかりが目に付く。
妖怪が描かれた屏風、常滑焼の壺、巨大な硝子でできた金魚鉢、鹿の角。それらは畳の上に整理されて置かれている。
日本刀はどこにあっただろうかと見まわしていると、ふいに何かと目が合った。思わず身構えたが、よく見ればそれは鼬のはく製であった。目を見開き、茶色い牙をむき出しにして私を睨んでいるように見えた。
鼬を見て思い出した。これは土蔵にあったはずである。
当時小学生だった美奈がこれを見て震えていたのをよく覚えている。聞けばこの鼬が睨んで威嚇の声を上げたのだと言う。これは作りものだから生きてはいないと何度も言ったが、美奈は怖い怖いといって木彫りの観音様を抱えたまま土蔵を出て行ってしまった。
いつこの部屋に移したのだろう。
何故か鼬のはく製から目を離せなくなっていた。目を離せばひゅっと動いて噛みつかれそうな気がした。かと言ってこのまま見続けるのも恐ろしい。
あの時の美奈が言った通り、まるで生きているようで、私を睨んでいるように思える。
ゆっくりとした時間が流れた。私は棒立ちになったまま、鼬と対峙していた。
誰かが階段を昇ってくる音がして、どきりと心臓が跳ねた。恐る恐る振り返ると、ふすまがゆっくりと開かれてそっと美奈が顔を出した。
「兄さん、ここにいたんだ」
「あ、ああ」
「何してたの?」
「いや、日本刀があっただろ? あれを見に来たんだ」
「そういえばあったよね日本刀」
美奈は静かな足取りで和室に入ってきた。
そんな彼女を見ていると、どうして足音が聞こえただけであんなにも怯えてしまったのかわからなくなる。どうしてか、私には祖母が階段を上がってこの部屋へ来るように思えたのだ。
「どこにあったかな、一度だけ見せてもらった時はたしか部屋の真ん中にあったのに」
「しまっちゃったのかな」
私は一息ついて部屋を改めて見回してみた。
「水虎」
美奈は屏風を見て言った。
「え、なに?」
「ほら、この屏風に描かれてる妖怪」
「すいこ?」
「うん、水に虎って書くの」
小さな指で空宇に水虎の字を書いてくれた。
「よくそんなの知ってるな」
「おばあちゃんが教えてくれたんだ」
木の骨組みに張り巡らされた用紙は色あせており、そこには大和絵で一匹の妖怪が描かれていた。ぎょろりとした目玉を持つ河童のようないで立ちの化物だ。鼬と同様にこちらを見ているように思える。
「怖いなあ。おばあちゃんこういう怖いの集めるの好きだったよね」
「美奈はまだ怖いのは駄目か」
「うん、恐いのは嫌だな」
それきり口をつぐんだ美奈は屏風の裏へ回った。そしてあっと声を上げた。
「兄さん」
「どうした?」
「これ」
私も屏風の裏へ回ると、そこには白木の刀掛けが転がっていた。
「あれ、これだけか?」
辺りを見回してみても白鞘に収められた日本刀はどこにもなかった。
「おかしいね、刀だけないなんて」
「そうだな・・・・・・あ、きっとおばあちゃんが土蔵に移したんじゃないか?」
私は閃いた。
土蔵にあったはずの鼬のはく製もここにあるのだ。私たちの知らないうちに祖母が入れ替えを行ったのかもしれない。
「そうかな、だっておばあちゃん護り刀だって大切にしてたのに。大事なものを土蔵に移すかな?」
「そう言われればそうか・・・・・・ならきっと砥ぎにでも出したんじゃないか?」
「砥ぎに――そうかも、そうかもね」
「きっとそうだよ。案外さ、明日みんなで整理すればひょっこり見つかるかもしれないし」
「うん。明日は大変そう」
「これだけ広い家だと一苦労だよ。そういえば美奈、何か用事があってここに来たの?」
「そうだった。あのね、お母さんがお醤油足りないって。一緒に買いに行かない?」
「いいよ、暇してたとこだったから」
「じゃあ、行こ?」
美奈も私と同様に居場所がなかったのかもしれない。
下の階で父親たちが静かになるまではここでなりを潜めていようと思ったが、美奈と散歩がてら買い物へ行くことはやぶさかではなかった。
「そういえば雨が降ってなかったか?」
「もう止んだみたいだよ」
「そっか」
そうして私たちはふすまを見て首をひねった。
いつの間にか開け放していたはずのふすまは閉じていた。
「私、入る時に閉めたっけ?」
美奈が聞いてきたが、そう聞かれると思い出せない。閉めていたかもしれないし、閉めなかったかもしれない。
そういえば美奈がここへ入る時もふすまを開けていたが、私はふすまを閉めていただろうか。
♦
中谷酒店は祖母の屋敷から数十分歩いた先の入り組んだ町中にあった。
コンビニやスーパーまでは距離があるため、この辺りの住人は日用品が揃う中谷酒店を重宝しており、私たちも子供の頃はよく二人で駄菓子を買いに来たものだった。
雨が降った後であるからか、街路を吹き渡る風がひんやりしている。見上げた先にある西の空では茜色が広がり、私たちが歩いている背後からは藍色が伸びていた。空の色がだんだんと変わっていく様が美しかった。
「ねえ兄さん、お祭りのこと覚えてる?」
美奈が急にそんなことを言った。
「夏祭りだろ? 覚えてるさ」
「小学生の頃はよく一緒に行ったよね」
「仲よく手なんか繋いで行ったよな」
「うん」
美奈が恥ずかしそうに萎んでしまうのを見て、私も急に恥ずかしくなった。手を繋いだのは何年も前のことだ。今そんなに恥ずかしがることはないだろうにと思った。
彼女の手を見てみる。小さくて柔らかそうな手だった。小学生の頃の私はこの手をなんの躊躇もなく握っていたのだ。
「あの夜、私はしゃいじゃって。兄さんから離れちゃだめだって言われてたのに、夜店に夢中になっちゃって、気が付いたらはぐれてた」
「美奈が迷子になっちゃった夜のことか、あの時はどうしようかと思ったよ」
「私もどうしようかと思った」
あの祭りの夜のことを思い出す。
私は人込みで溢れる路地の中、狐の面をつけて歩く女の子を見た。その子は赤い浴衣を着ていて、ごった返す人の波をすいすいと避けて歩いていた。その姿がどこか妖艶で、一瞬だけ目を見張ったのだ。
その時、美奈と繋いでいたはずの手がするりと抜けていた。すぐに美奈を探したが、彼女はどこにもいなかった。
人混みが苦手で恐がりの美奈は私と手を繋いでいる時でさえおろおろしていたのに、はぐれてしまってはさぞ心細いだろうと慌てて辺りを探し回った。
狐の面をつけた少女のように人並みをするする抜けていこうとしたが、私にそんな器用な真似は出来なかった。次々と押し寄せる往来の人の足に小突き回されながら美奈を探した。
やっとのことで人込みの隙間から浴衣を着た美奈を見つけた時、私は汗だくになって息も上がっていた。
すぐに声をかければよかったのに、なぜかそうしなかった。
今にも泣きだしそうな顔をして怯えている美奈を私は見ていた。
私はなぜあんな意地悪をしてしまったのだろう。
きょろきょろと辺りを見回す美奈をしばらく眺めた後、地面を蹴って急に彼女の前に現れてみせた。
「わっ!!」
私がそう言って驚かすと、美奈は「ひゃうっ!?」と声を上げ、頭を抱えて蹲ってしまった。
声を上げて泣かれる方がまだよかった。
美奈は震えながら声を殺してしくしくとすすり泣いた。
「あ」
私は声を失った。
彼女が履いている下駄を見ると、足の指の隙間が赤く擦れているのが見える。きっと私を探しまわったのだろう。歩き回る内に鼻緒が指の隙間に食い込んで痛かっただろう。
「ごめんよ美奈」
私は謝って蹲る美奈の肩に手を置いた。小さな肩は震えていた。
美奈はぽろぽろと涙を流すだけで何も言わなかった。
それでも彼女の震えた指先はしっかりと私の浴衣の裾を掴んでいた。
この時のことはあとになって思い出す度、後悔していた。
今、横を歩く美奈はあの時のことを思い出しているだろうか。
「ごめんな美奈」
私は少年だった頃と同じように謝った。
「え?」
「ほらあの夜さ、美奈をびっくりさせて泣かせちゃったじゃないか」
「い、いいよそんな昔のこと」
美奈は微笑んだ。
「兄さん、ちゃんと私を見つけてくれた」
彼女の左手が一瞬だけ私の右手に触れた。
何やら気恥ずかしくなり、それきり私たちはしばらく話さなかった。
♦
中谷酒店について庇の下に入って声をかけた。
「すみません」
店内には誰もいなかった。
商品を並べているのに扉は開けたままで、都会であれば信じられないような光景だ。
「不用心だなあ」
思わずそんな言葉が漏れた。
美奈が棚から醤油瓶を取ってきてレジ台の上に置いた。
「田舎の人は繋がりを大切にしてるから。泥棒とかはきっと平気なんだと思うよ」
「そんなもんかなあ」
しばらくすると、奥に延びた廊下から髪の長い女の人が出てきた。明子さんと言い、昔からよくお世話になっている。
「はいはい、いらっしゃい。あら、望月さんとこの」
望月と言うのは私たちの性である。
「明子さん、お久しぶりです」
そう言った美奈に倣って私も頭を下げた。
「いらっしゃい。あ、お醤油ね」
明子さんは醤油瓶を見てレジを打ち始めた。
「一族揃って集まってるんだろ? みんなに集まってもらっておばあちゃんも幸せだよ」
明子さんは言う。
明子さんは祖母の葬儀にも出席してくれた。生前の時は一人きりで暮らす祖母が心配だと言って、何度か様子も見に行ってくれたらしい。
「生前は祖母がお世話になりました」私は改めて頭を下げた。
「いいのよ、どうせ暇な店なんだから」
あの広い屋敷の中、祖母と明子さんが二人きりでいることを想像してみた。気難しい性格の祖母と一緒にいるのは大変だっただろう。
「おばあちゃんが集めてた骨董品はどうするの?」
明子さんが言った。
「あれですか、明日みんなで整理するつもりです」
「そう。あのね――こんなこと言うもんじゃないかもしれないけど」
明子さんは辺りを伺った。
この店には私たち三人以外誰もいないのになぜそんなことをしたのだろう。うまく言えないが、何かに怯えているようだった。
「あの品々は例え形見でも持っていかない方がいい、どこかへ売るか誰かに譲ってしまいなさい」
思わぬ言葉に私と美奈は驚いた。
「あの屋敷に行った時、本当は怖くて仕方なかった」
「祖母がなにか粗相を?」
「違うのよ、おばあちゃんじゃなくて、あの骨董品のことだよ」
「骨董品が怖かったんですか?」
「そうよ、なにか不気味でね――屋敷にお邪魔していた時、おかしなことが起こったんだよ。おばあちゃんと台所でお茶を飲んで話をしていた時、二階の和室から人の気配がしてね。微かな絹擦れやら足音やらが聞こえたの。誰かいるのっておばあちゃんに聞いたけど、誰もおらん気のせいだの一点張りでね。でも、天井からミシミシ部屋を歩き回ってるような音がずっと止まなかった。そのうちおばあちゃんも天井をじっと見つめて動かなくなっちゃったの。泥棒かもしれないから警察を呼ぼうと言ったけどおばあちゃんはその必要はないって――」
「刀」
美奈が言った。
「え?」
「祖母は刀があるから平気だと言ったんじゃないですか?」
「そう、そうなのよ。護り刀があるから平気だって・・・・・・聞いてみたら護り刀と骨董品の話をしてくれた。何か不思議なものが宿った骨董品を集めるのが趣味なんだって。だからこういうことが度々起こるけど、護り刀がある限りは暴れまわることはないだろう――なんて言うのよ。それにあの池」
「庭の池ですか?」
「あんたたちはあの池に何か不思議なものを見たことないかい?」
「いや、そんなこと」
「あの池も何かおかしいよ」
「そんな、普通の池ですよ。なにもないです」
明子さんは神妙な面持ちで首を振った。
「私が小さい頃、綺麗な硝子玉を集めるのが流行ったんだ。私も青く光る硝子玉を持ってた。でも無くしちゃってね、泣きながら探したけど結局出てこなかったんだ……でも、あの日……最後におばあちゃんの家に行った日、池の水面がやけにキラキラ輝いてたから不思議に思って覗いたんだ。そしたらそこにあの日無くした硝子玉が。見間違いかと思ったけど、あれは間違いなく私のだった。なんであんなところにあったのか、全くわからない。
おばあちゃんは龍が眠ってるって湖の水を取り寄せてきたから、不思議なことも起こるって言ってたね」
私は呆気に取られてしまった。
「ごめんねえこんな話。でも悪いことは言わない、あれらは手放した方がいいよ」
明子さんは醤油瓶の値段を読み上げた。
中谷酒店からの帰り道、私は祖母の奇行を思い返していた。
いつだったか、全ての部屋に鎌が置かれていた。これはおまじないだから決して触るなと言われた。部屋にこんなものがあったのでは危なくていられない、と私は庭に出てみることにした。
その時、ふいに池の水がちゃぷんと跳ねる音を聞いた。池には何もいないはずだ。鯉や金魚でも飼い始めたのか、或いは蛙でもいるのか。興味をひかれた私は池を覗き込んだ。
すると祖母がやってきて私の襟首を掴んで引っ張った。
「この池を覗くんじゃない」
恐い声でそう言って、手にした清酒の酒瓶を投げ込んだ。
あの時、池には何がいたのだろう。
考えを巡らせていると、美奈が小さく言った。
「なんだか怖い」
ひどく沈んだ表情である。
「おばあちゃん、何を集めてたんだろう――なんであんな死に方したんだろう」
「・・・・・・わからない」
後になって聞いた祖母の死は奇怪であった。
祖母が亡くなる数時間前に明子さんが様子を見に来てくれた。玄関で呼んでも祖母が出てこなかったので家に上がったのだそうだ。祖母は座敷に正座してじっと壁の方を見ながらピクリとも動かない。明子さんが声をかけても反応がなかった。
これはおかしいと誰か人を呼ぼうとした時、祖母が大声で笑い始めた。その声は屋敷全体に響き渡るほどの声だったらしい。ひとしきり笑い終えると祖母は明子さんに気づき、今日はもう帰れと言った。
明子さんは言われた通りに帰ったが、やはり心配になって夕刻にもう一度様子を見に行った。
祖母は縁側で仰向けになって死んでいた。
どういうわけか祖母の体はぐっしょりと水で濡れていた。
「おばあちゃん、あの刀どこにやったのかな」
「きゃあっ」
私がなんとはなしに呟くと、突然美奈が悲鳴を上げて手を握ってきた。
「どうした?」
美奈は顔を真っ青にして震えながら、上にある電線を指さした。
見ると電線の上をつたって、何か胴体の長い獣がするすると駆けている。
「なんだあれ!?」
「・・・・・・鼬が、私たちを見てた」
美奈は言った。
♦
その晩、座敷に大きな机を並べて一族揃って食卓を囲んだ。
美奈の箸は進まなかった。心配になって私が声をかけても、大丈夫だからと弱弱しく微笑むだけだった。
電気がついているのに部屋の中はやけに暗く思えた。
美奈の顔はどんどん暗くなり、心ここにあらずといった様子だった。魂の半分が黄泉の国に引っ張られてしまったようだった。彼女を見ているうちに私の胸は苦しくなっていく。
「ごちそうさま」
美奈が言うと和郎叔父は困ったように笑う。
「なんだ美奈、もういいのか? お前はもう少し食べたほうがいいぞ」
「いいの、お腹いっぱいで。先に食器だけ下げてくるね」
そう言った美奈は立ち上がり、台所へ向かおうとした。だが廊下に出る一歩手前で足を止め、そこから動けなくなってしまった。
察した私は慌てて残りをかき込むと、食器をもって美奈のもとへ急いだ。そうして美奈の持っていた食器を取り、席に戻るように言った。
美奈は申し訳なさそうにお礼を言ったが、席に戻ろうとはしなかった。台所へ向かう私の後をとことこついてきた。
台所について壁のスイッチを押したが、蛍光灯はつかなかった。何度か試しているうちにようやく点灯したが、ブブッブ、と数回点滅を繰り返してついた灯りは頼りなかった。
「家のあちこちがおんぼろだな」
私は言った。
食器を水に漬けるとふいに気配を感じた。
美奈も何かを感じ取ったようで薄暗い室内に目を配らせている。
「大丈夫だよ」
私は美奈の肩に手を置いて言った。
「なんにもいやしないさ」
美奈は私の手をぎゅっと握った。
♦
その夜、私はなかなか寝付けなかった。
何度かうとうとしたのかもしれないが、すぐに目が覚めてしまう。眉間には重たい眠気が纏わりついているのに、目だけは妙に冴えていた。
寝返りをうつのを止め、目を開けると薄暗い天井から細いコードに吊られている電灯が見えた。枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばし、画面を見ると午前二時を回っていた。
明日は忙しくなるから早く寝ようと思ったのに、このままではどうにもならない。私は意を決して起き上がった。
台所で水でも飲んで気を落ち着けようとふすまを開けて廊下に出た。
廊下は真っ暗で、その闇の中で何かが鎌首をもたげてこちらを見ている気がする。恐くなった私はすぐに廊下の電気をつけた。すると、目の前のふすまがすっと開いた。
私は思わず悲鳴を上げそうになったが、それは美奈だった。
「兄さん」
「美奈、ごめん起こしちゃった?」
「違うの――私も眠れなくて」
美奈は囁いた。
私たちはそのまま一緒に台所へ向かった。美奈は戸棚から薬缶を取り出して火にかけた。
「兄さんもお茶飲む?」
「うん、いただく」
手際よくお茶の準備をする美奈を見ていた。
彼女はパジャマの上から薄い夏物のカーディガンを羽織っていて、その後ろ姿がなにやら美しく、艶めかしくも思えた。美奈がお茶を出してくれるまでの間、私は机に肘をついてぼうっとしていた。
「刀だけど」
ふいに美奈が言った。うとうとしていた私はその言葉にはっとなった。
「兄さん?」
「あ、うん。刀がなに?」
「刀がないと、この屋敷は護られているのかな?」
「おいおい、恐いことを言わないでくれ」
背筋が寒くなったのと同時に、なんだか少し腹立たしい気分にもなった。
祖母の生前の収集癖のために恐ろしい思いをしなければならないのは理不尽だ。おかしなものばかり集めていたのは祖母で、私たちはなんの関係もない。美奈にまで怖い思いをさせている祖母の古物を恨めしく思う。
するっと目端で何かが動くのを見た。見ればごわごわの浴衣を着た男が、台所の入り口に立っていた。
ぎょっとした私は驚いて椅子から立ち上がった。
「おおすまんすまん、驚かせてしまったか」
誰かと思えばそれは和郎叔父であった。
「びっくりさせないでくださいよ」
私は跳ね上がった心臓を抑えるのに必死だった。まるで私の恨みを見透かしたように、祖母が現れたと思ってしまった。
「お父さん、どうしたの?」
「喉が渇いて眠れなくてね。ちょっと飲みすぎてしまったみたいだ」
叔父は戸棚から硝子コップを取り出し、蛇口の水を入れると一気に飲み干した。コップが空になれば、再び叔父は同様のことを繰り返す。ステンレスに水が落ちる音と叔父が水を呑み込む音がしばらく続いた。
「ふぅー、生き返った。じゃあ俺は寝るよ」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「ああ、そうだ二人とも。あんまり夜更かしはよくないぞ」
和郎叔父は言った。
「はい、お茶を飲んだらすぐに寝ますよ」
「そうしなさい、明日は忙しいからな。あと、昔話に華が咲くのもわかるが、夜中にあまり大きな声で笑うのはよくない」
「笑う? 誰がです?」
「君たちだよ、笑っていたじゃないか」
「私たち、笑ってなんていない」
美奈が和郎叔父を一瞥して言った。すごく不気味そうにしていたので私まで背筋がひんやりしてきた。
「そうだったか? いや、すまん。酔っているからな」
和郎叔父はなんでもないように言って、台所を出て行った。
♦
和郎叔父が去った後、私たちは黙ってお茶を飲んだ。
気味の悪いことを言った叔父の言葉が頭で反芻する。
私たちは声を上げて笑ってなどいない。今この屋敷でとてもそんな気分にはなれない。
『大きな声で笑うのはよくない』
叔父の言葉が祖母の言葉と重なる。
祖母は阿呆のように大声で笑うことを嫌った。そんなふうに笑うと阿呆に見えるぞ、とよく注意されたものだ。その祖母が、死んだ日には大声で笑っていたのだという。まるで、これまで抑えてきたものを全て解放するように、屋敷全体を震わせるような笑い声だったと明子さんは言った。
笑っていたのは祖母だったのか、それとも何か別のものが笑っていたのか。
その途端、台所の電気がふっと消えた。
私たちはびくっとなって固まってしまった。頼りにしていた小さな灯りが消えて、辺りは一気に闇が深くなった。
「に、兄さんっ」
美奈が悲鳴に近い声を上げた。
「大丈夫だよ。ただの停電か、蛍光灯が切れたんだ。なんでもない」
私は彼女を怯えさせないようにと、努めて冷静に言った。
「ほらもう行こう」
椅子から立ち上がり、美奈の手を取った。小さな肩は震えていた。
屋敷の中はひどく暗かった。灯りを着けようにも電灯のスイッチが見えない。スマートフォンを灯そうとして、部屋に置いてきたことを思い出した。
仕方なく、手探りで暗い廊下を進んだ。
昼間にも暗いとは思っていたが、夜の帳が降りると暗い水の底に沈んだようだった。私はどこを歩いているのだろう。数名の人が寝ているはずなのに、今この屋敷には私と美奈しかいないように思われた。
生暖かい夜風が屋敷の中を吹き抜けていく。風の中に鉄錆の匂いがした気がして思わず鼻を抑えた。
その時、美奈の手を放してしまっていたと気づいた。
振り返ってもそこに美奈はいなかった。
「美奈?」
私の声は屋敷の闇に吸い込まれていくように思われた。
トイレの水を流す音が聞こえた。台所へ続く廊下の角まで戻ってみるとトイレの戸が開け放たれていた。気分が悪くなったのだろうか。
「美奈、いるのか?」
いきなりのぞき込むわけにもいかず、私は戸の影に立って声をかけた。返事はなく、水が流れる音がいつまでも続いている。
二三度読んでも返事がないので中を見ると、橙色の裸電球が煌々と灯り、水が流れる和式便所を照らしているだけだった。
台所の方で壁や床を殴りつける音が聞こえてきた。急いで向かってみたが、そこには誰もいない。
ただ床には土や枯れ草が散乱しており、そこにいくつもの獣の足跡があった。
ねえ、と背後で誰かに呼ばれた。
振り向けば廊下の先に歯を覗かせて笑う人が立っている。
私はそれを美奈だと思って歩み寄った。この暗い屋敷で美奈以外の誰かが廊下の先に立ってこちらを見ていることなどあり得ないと思ったのだ。
はっとして見れば私は祖母が死んだ縁側に来ていた。
なんでこんなところへ来たのか全く分からなかった。いつの間にか額に珠のような汗をかいていた。庭から体に張り付くような暑い風が吹いた。縁側の障子は開け放たれており、庭が一望できるようになっている。
美奈はそこに立っていた。
音もなく静かに縁側に立つ美奈を見ていると、しんしんと静けさだけが増していくように思われた。
「っ美奈、なんでこんなところにいるんだ。急にいなくなったらびっくりするだろう」
美奈は私を見ないまま、庭先を指さした。
「音が、池の中に何かいる」
庭から流れてくる風の中に獣の匂いが混じり始めた。
途端に廊下の方から、とととととと、と音が聞こえた。
人のものではない。足の短い四足獣が走る音と似ている。それは廊下を何度も行き来しているらしかった。耳が慣れてくると、足音の他に荒い息遣いまでも聞こえるようになった。
どん、と二階から重たい音が響いた。
私と美奈は飛び上がった。
天上からは足を引きずって歩くような音の他に、水が滴る音も聞こえてくる。それと同時に廊下から聞こえていた足音が勢いづいた。トイレから水が流れる音が再び聞こえ始めた。
気配は確実に私たちに近づきつつあった。それをまざまざと肌で感じる。
どこかからか見られているのだという奇妙な感覚を覚えた時、うなじに怖気が走った。
私はそれらから美奈を庇うようにして立った。熱気と獣の臭いのする中で、息を荒くしながら、やがて現れるであろう魔物を待ち構えることしかできなかった。
ぽちゃん、と池から水のはねる音が響いた。
思わず目を向けると、黒い雲の隙間から月明りが漏れていて、水面をぎらぎらと妖艶に照らしている。私は無意識のうちに美奈の手を取り、裸足のまま庭に降りて光差す池へと走った。
背後で誰かが笑い合う声が響いた。
「うぅ」
美奈が挫けそうな声を上げる。
美奈は私に掴まれていない方の手で必死に片方の耳を塞いだ。
池の縁にたどり着いた私はそこで屋敷を振り返った。暗い縁側にも座敷にも誰もいなかった。耳を澄ますと微かな唸り声が聞こえ、闇の中で何かがうねったのを見た。
「池になにかある」
美奈は細い手を水の中に埋める。
私はなにもできず、かがみ込んだ美奈のうなじを見ていた。
「これって」
美奈が何か掴んで池から引っ張り上げた。
「刀」
池の中には見当たらなかった日本刀が入っていた。
美奈が刀の柄の部分を持ったまま呆然としていると、するっと鞘が抜け落ちた。
海中から飛び上がった魚の鱗が光るように、刀身は月明りを一身に受けて輝いている。
「なんでこんなところに」
刃が月の光を反射させると、闇に沈んでいたはずの屋敷には月明りが差すようになった。
熱い熱気は消え去り、ひんやりとした風が竹林からさざめいた。
どうしてか屋敷の闇に紛れた邪悪な者達がここに来ることができないのだと言うことがわかった。
あの不気味な足音も、息遣いも、熱気も、獣の匂いも、一瞬にして取り払われていたのだ。
庭に生臭い匂いが立ち込め始めた。
こぽこぽと水が抜けていくような音がして見て見ると、池の水がみるみる抜けていく。
水が抜けきった池の底は石畳であり、月明りをギラギラと反射させて光っていた。
♦
奇怪な夜が明け、朝日が差す頃に私と美奈は目覚めた。
二人で日本刀を抱え込むようにして座敷で眠っていたらしい。
昨夜のことがどこまで本当なのかわからなかった。
私たちは何もなかったかのように朝食を取り、屋敷や土蔵に眠っていた古物の整理を始めた。
父達は古物をどうするつもりだろうかと不安だったが、それは杞憂に終わった。
「こんな悪趣味なもの引き取らないよ。処分するか、どっかに売ってしまうさ」
父達も何か得体のしれない古物に恐怖していたのかもしれない。
♦
祖母の家を後にする前に明子さんの酒店へ顔を出した。
昨夜のことを話すと、奥で始終を聞いていた老婆が言った。
「それは護り刀のおかげやざ。ほやさけ、あんたは守られたんや」
老婆は目を細めてゆっくりと言った。
「けどもう関わらん方がええ、その刀さんにもお礼言うてどっか社にでも収めたほうがええ」
私は頭を下げて酒店を後にした。明子さんと老婆は私の姿が見えなくなるまで店先で手を振ってくれていた。
私は遠い昔のことを思い出していた。
私が幼稚園児だった頃に祖父は死んだ。
以来、祖母はあのがらんとした屋敷にずっと一人で住んでいた。
人の世話にはならん、ここは私の家だから離れない、と言って誰と共に暮らすこともなかった。
祖母は口では強気なことを言うくせに、一人になるのは嫌う節があった。人懐こいくせに人を遠ざけてしまうから難しかった。
一人でいる寂しさを何で埋めていたのだろう。
私は薄暗い部屋で骨董品と向き合う祖母の姿を思い浮かべた。
そういえば骨董品集めに拍車がかかったのも、祖父が死んでからであった気がする。
誰の目もない時、祖母は寂しさからか骨董品に何事か話をしていたのではないだろうか。
そうしたものが感応し、骨董品が何か不思議な生き物に変わったのではないか。
もしそうであれば恐ろしく、そして哀しくもある。
夕立が近づいてくる気配があった。
風が吹いてくる先には黒雲をため込んだ雲がある。辺りはじめじめと湿り始める。湿気に当てられた植物からは甘い香りが漂い始めている。最初の雨粒が落ちてくるのは時間の問題だった。
いつか、祖母と美奈と三人でこうして駄菓子を手に歩いていた日を思い出す。その時は私も美奈も、祖母も笑顔だったような気がする。
私は屋敷に向かって走り出した。