シリウス
「帰りに図書室に寄っていいかい?」
「またお伽噺を借りるの? 部活はいいの?」
「……スランプなんだ、コーチからも休んでイイって。しばらくは」
私はハイジャンの選手だ。走り高跳びというやつで、かつては一メートル九十センチというただの計測記録にしては壮大な数字を跳んだことがある。
最初は私含めて嘘だと思った。けれど、もう一回頑張って目指して跳び続けたら、またしても壮大な数字を記録更新し、それ以来私は跳び続けていた。
皆が私を「鳥」だと称した。私はリカオンという名前だというのに。リカオンという名前の狼がいるんだよ。
誰かがいつだったか、狼で空を飛ぶから「シリウス」と冗句で呼んだときもあった。
シリウスは、中国語で天狼星と書く。天狼という生き物は、狼に翼があるものだと聞いた。
私は「シリウス」と呼ばれるととても嬉しくて、「シリウス」と呼ばれたい為に跳び続けていた。
私は記録更新し続け、誰もが笑顔、先輩達も「星が相手じゃ敵わねぇしな」って笑って応援してくれた。ライバルと呼ばれる人達も、「星が相手だから気合いが入る」って目を輝かせていた、私は楽しんでいつも跳ぶ瞬間の空を楽しみにしていた。
水色の空に、太陽がちかっと目に入るんだ。雲が目にはいるときもあるし。
夕方に跳ぶときはとびきり美しい、夕闇の青がもうすぐで手に入りそうになるんだ。
ああ、この空は私だけのものなんだって、自分が本当にお星様になったような錯覚をする。
でもそれは三ヶ月前までの話。
最近は、別の星の夢を見るようになってからはバーがいつも落ちてしまう。
跳んだ瞬間に思い出すんだ、昔忘れてしまった大事な「お星様」を。私がシリウスと呼ばれて嬉しかったのは、「星」に近づいたと思ったからだったんだ。
欲しかった星があったんだ。
どんな星だったのか、どんな色だったか、どんな輝きだったのか。それらに全て手が届きそうになって、「待ってくれ!」と手を伸ばし、バーにぶつかりコーチに怒られる。下手したら怪我してたと。
お星様――キラキラとして、いつも私の中に巣くっている存在。
お星様と同時に「誰か」を思い出しそうになり、私にとっては「誰か」が大事な気がするんだ。
それ以来私は跳べない。思い出しそうになるお星様を思うと、胸が切なかったし、何より空を飛ぶ楽しみが味わえない。
何も考えないで跳ぶ瞬間が楽しかったんだ、あの爽快な一瞬!
短い時間で、一メートル以上も跳ぶあの浮遊感!
空に手が届きそうで届かない切ない気持ちが、生まれるあの一瞬!
跳びたいのに跳べないって寂しい。でも怪我したら大変だし、最近は一メートルすらも跳べなくなってしまったから、コーチはスタメンを変えようとしている。
それもしょうがない、って割り切ろうとしている。
割り切ろうとしているけれど、中々人の心ってうまくいかないんだなって、夜に私は泣いて思い知る。
やだよ、跳びたいよ。でも、大事なお星様も守りたいんだ。
三ヶ月前は、そんな風に泣いていた。
これで怪我でもしていたらまだ周りから同情されていたかもしれないけれど、周囲は私をただの「さぼり」扱いしてくる。
違うんだ、跳びたいんだ、けど怖いんだって言っても信じてくれない。
コーチは信じる信じない以前に、よりいい選手を生み出すのが役目だから、スタメンから外すしかない。
何よりコーチにとっては怪我でも本当にしたら大変だ、自分の所為になるから。
私は、泣けない狼の咆吼を抱えていた。
私が黙り込んでいるのをスランプからの悩みだと誤解した若葉は、話題転換に勤しむ、気配りができすぎて恐ろしい奴だ。
「リカオンちゃん、来週から冬休みでしょ」
「そうだね、グランマに帰っておいでって言われてる」
「あーじゃあ行けないかな。何かね、招待状がきてたんだ。俺とリカオンちゃん宛にさ。何だったけかなーって思ったら、前ににーちゃんに貰った商店街のくじ引きの景品だった」
気配りできると思っていたのをなかった思いにしたい……私は実に気に入らない。若葉の兄貴が時折、私と若葉の機嫌窺いのように、賄賂のような品を若葉に持たせて、若葉も気づいてないという事態が多い。それが実に気に入らないのだ!
若葉はお姫様のようにか弱い男子だ、と言ったら笑顔で殴られそうだが。
若葉は実際、料理は資格を取りたいので完璧だし、洗濯だって皺一つ残さない、掃除はうちの大掃除に毎年手伝ってくれる。レースの刺繍や、テディベア作りが趣味でそこらへんの女子よりも、女子らしいお姫様だった。
外見はもちろん、女々しいことなんてない、百八十七センチもあって七十キロもある大きな体を持つ男性なのだがね。見た目だけはかっこいいよ!
若葉と二人でいて、逆ナンされたときもあったんだよ。ただ、私が女性だと知ると気まずそうに女性のほうが逃げていったが。
「君は来て欲しいのか?」
「……にーちゃんが荒れる前に、避難したいなーって。父さん達も帰省を理由に避難するみたいだし、この時期は。俺は連れて行けないって言われてさ。家にいるよりかはいいかなって」
避難したいという思いに、私は悲しくなる。
家族が若葉一人を犠牲にしても何も思わないほど、若葉には辛い目なのだと。
むしろ家族こそが苦しみを産んでいる、そんなやるせない現実に辛くなる。
でも若葉はそんな表情浮かべない、ただ私の様子を見ている。私はシャープペンシルを握りしめた。
君を守れるのは私しかいない!
「それなら私に断る理由はないじゃないか! 君が犠牲にあうのを王子様として、友達として、見過ごすわけにはいかないんだ。君を守る手として、受け入れてやろうじゃないか、本当はとっても嫌だけどな!」
「――いつもありがとね」
若葉は苦く笑って、今朝クラスメイトが皆に配っていた新商品だとかいうヨーグルト杏仁チョコレートパフェ味の飴を取り出して、包装を破いて舐めた。
味は微妙のようで、複雑な顔をしていた。苦いよ、甘いよ、しょっぱいよ、まずいよ、そのどれもが含まれてる表情。飴にしょっぱいものなんてあるのか?
「それ私は美味しかったぞ」
「いや……まぁいいから、早く解いて」
私はプリントを見つめて、また窓の外を見つめた。陸上部がバーの片付けをしている、あの中に私もいたんだ、三ヶ月前は。
どうしてこうなったのだろうな。
「なぁ、もう私は十分頑張ったのではないだろうか」
「と、言いますと」
「答を適当に書いて出してもいいのではないだろうか……痛い、痛い、いたたたたっ」
若葉はほっぺたをぎゅうぎゅう抓ってきたので、私は素直に問題を解く努力をした。
冬は五時でも一気に暗くなるから危険だ、先生に提出した後、私たちは図書室に行った。