籠の鳥を救う
水槽から解放されて。心に残るのは虚空。
泡がぷくりと浮かんだ後に、水槽は消え去った。あれだけあった大量の水も、忌まわしい鎖も。
何も、何もできなかった。自分なら助けられるって私は傲慢だった。
私の傲慢さがただ一人の寂しい女性を殺した。
頼を助けたいと願って、そのついでに私をも助けてくれて。
それだけじゃない、最後に私の背中を押してくれた。冗談めいた口調で、「貴方は王子様になれる」って言ってくれた気がした。
天井の円を描いたものをずっと見つめていた――正解が嬉しくないってどうしてだろう。
どうしてもこうしてもないよ。
シンが消えたからだよ。
お姫様が人を救えないって私は傲慢だった、シンは聡明だ、すぐにどうしたら救えるか自分で導きだした。その上、助けるために自害した。勇者だ。
頼が起きるのを私は待っていた、頼まで失ったら、私はシンに顔向けができない。
ねぇ、どうして時間は止まらないの?
ロワ、休憩する時間はまだなの?
こんなにも息が苦しい――喉がきゅっと締まる感覚。がちがちと身が震えそうになる。
ずっと心に、何かを失ったという感情で満ちている。
胸が潰れそうだよ――どこかで聞いた覚えがある。人魚達は、輪廻転生なんてない。
三百年生きるけれど、人間のように魂は巡らない。
人魚はただ一度きりの魂だと。それならば、シンにはもう二度と出会えないのだろうか。
頼、君は――怒るだろうか、悲しむだろうか。
一番に君が悲しんでくれれば、シンちゃんは喜ぶ気がするんだ。他の誰でもない、寂しさを埋めてあげていた君が悲しむ行為は素敵だと思うんだ。
頼の睫が震える、私は息を呑んで、跳ねるように飛びつき頼を揺さぶった。
頼は、ゆっくりと瞳を開いて、咳き込みながら私に問いかけた。
「クリアしたか?」
「――でも大事なものを失ったよ」
「何を失った?」
「シン」
私は涙を堪えながら説明し、頼はシンの話を聞くと、天井を見つめた。
天井を睨む目つきだったけれど、シンに対してというより、この屋敷に対して怒っていると感じた。
「……いつも……」
何か聞こえない言葉を頼は呟いた。自分に向かっての罵りだったと思うんだ。
悔しさが表情に滲み出ていた、頼にしては珍しかった。頼はあまり感情を出さないから。
それから、一つ何かに気づく、頼はポケットを探って、水に濡れた絵本を見せてくれた。
見せてくれたのは表紙だけだけど。
「これが濡れたら、オレにはもう後は判らない」
「どうして?」
「この絵本が全てなのに、オレはこの絵本を全て覚えられないから。内容の密度が濃い」
頼はそれ以上追究させようとはしてくれなかった、瞳が「もう何も聞かないでくれ」と悲しみに憂いでいた。
私は絵本に手を伸ばし、そっと重ねた。絵本の中に、同じ絵という概念だからシンがいるような気がして……。
「シンの絵を持って帰っていいかな」
「勿論。なぁ……後はどうなるかわかんねぇんだけどさ、お前にやりたいものがある」
「何?」
「シンはお前にもできるかもしれないって言っていた。だから、これを……」
頼はシンをあの時絵から出したり、ドアノブを食べたりしていたカトラリーセットを私に手渡そうとした。
黄色い布に包まれた、フォーク、スプーン、ナイフの三つだけが入った簡単なカトラリーセットを。
私は……頼まで消えていくのではと、怯えた。頼が私にカトラリーセットを託す必要性を予測すれば、「自分は消えるから」という考えにしか至らない。
そんなのは嫌だ。
これを受け取れば、私は本当に「主人公」になって、頼は「脇役」になって屋敷のルール通り物語を持たなくなった者は、消えていってしまうんじゃないか?
少なくとも、袂を分かつのではと。
――私と、ばらばらになる。幼い日、連れ戻せなかったあの時間をまた巻き起こすのは嫌だった。
私は首を振って、名前を呼ぶ。
「……頼」
「オレよりお前のが勝率は高い。持ってろ」
頼は屋敷に対して怒っている――屋敷への精一杯の反抗をしようとしている。
登場人物の予定調和が狂うぞ、さぁどうする、と挑戦状を投げつけている。
頼は、屋敷から出るつもりはないのか……もしも、琥珀さんが死んでいたなら、頼へ店主の座が明け渡されるから?
いつまで、頼はこの屋敷と向かい続けなければいけないんだ?
私は――頼を助けたい。頼を籠の鳥にしたくない!
遠い昔見た籠の中に閉じ込められて、一切手助けできなかった景色を払拭したい。
今なら手を掴もうと思えば手を掴める、もう、あの黒い手はない。
もう、幼くない! 昔は屋敷が選ぶ側だったが、今は私達が選ぶ側なんだ!
物語や、未来を選ぶのは子供には難しくても、年頃の私達ならば不可能ではない!
君の籠は、もう扉は開いているんだよ、頼。後は君が、逃げたいと願うかどうかだ。
「頼! 逃げよう! 君も一緒に、いいやシンは攫うのが王子様だと言っていた、私は君の意見を聞かずに君を攫うよ!」
「オレは……」
「四の五の言わず、ついてこい!」
私はカトラリーを受け取って、頼の体を引っ張って、立ち上がらせた。
部屋から出て行こうとする、扉はもう既に全て開いていた。
ロワがきっと開けてくれたのだろう、もうあとは出口に向かえばいいだけだ。
頼の笑い声が聞こえた、押し殺すように、ぶは……と噴き出してからは、息が漏れている。
頼は何も言わなかった。私は幼い頃と違って、もう王子様になっているんだ。
あの頃は髪の毛も長かったし、何もできなかった。
今も何もできないけれど、頼だけは。頼だけは救いたい。
そうだ、絵画も持って行かないと。
私は階段の踊り場にくると、シンのかつて存在していた絵をじっと見つめた。
シンだけが絵に存在していない。
私は持ち運びが大変なため、ナイフとフォークで絵画を小さくして、ポケットにしまいこんだ。
この島から出る直前に、普通の絵画に戻そう。そうすればきっと元通りになる筈だ。
私はカトラリーを握りながら、頼の手を握ってまた出口に向かう――エントランスに向かう。
エントランスで閃光が走った――。




