ロワの持つ物語
廊下で私は、霞のようだった記憶に色づいて、蕾が花開くように若葉への記憶を取り戻していった。いいや、この屋敷へきてからの記憶を――。
手が震える、震えた後は悔しくて掌を握りしめて、顔面にあてて声を殺した。
泣き声を堪えてから、助けを求めるように、小さな私の神様を呼んだ。
「……ロワ……」
「思い出したか、愚図が。二度と……二度と忘れるな。大事なものを、お前の理想を。全ての物語が終わっていたところだ、俺が現れなかったら! あいつがお前が王子である事実を願わなかったら!」
ロワはわななと震えて、小動物みたいな仕草で怒っていた――。
私を見上げ、じっと睨み付けて、私の鼻先に指をずいっと押しつける。
声は刺々しく、完全に敵意を向けている。
「何もかもが台無しになるところだった! お前は偉大な女だと思っていたのに! お前があの部屋を訪れて失うのは、〝犬〟についてだけだと思っていた。なぜ、自分の理想を忘れる?! お前は、脇役にでもなったつもりか?! お前は脇役じゃない、主役だ! それをお前も望んでいた! 〝俺達〟はお前を待ち望んでいたんだ、お前という主役を」
申し開きもできないよ……。私は項垂れて、眉間を抑えて嘆息をついた。
落ち込む私を見て、ロワは少し満足がいった態度を見せて、落ち着いた。
ロワが落ち着いてくれたなら、ふと過ぎった疑問に答えてくれそうだと思いついて、尋ねた。
「ロワ……あの人はどこにいったの。頼は……」
ロワは、ぴくんと片眉を動かし、はっとした様子できょろきょろとする。
「……そうだ、迎えに行かねば……早く……! ヨダカ、……俺は扉を開けておく。俺には何人もの人が重なっている。俺一人で、何十人分の容量はあるから、開けられる。お前たちは、ただ出口に向かっていけばいい。いいか、もう俺は時間に二度と負けない。次にまた会うときは、止まった時間の中だ」
「ねぇ、ロワ、一つ思い出すついでに考えたんだ。君について。君は時間を使う人、時計に関わる人。物語には一つ思い出すものがあるんだ――兎さん」
ロワは鼻をひくひくとさせてから、私に押しやっていた指先をどけて、先ほどの剣幕が嘘だったかのように、明るく子供らしい笑みを浮かべた。この子には「子供」らしい仕草など無縁だと思っていたのに、いざ子供らしい笑みを見るとほっとする。この子には笑っていて欲しい、って。
「俺とお前の縁は途絶えないようだな」
「――時計兎なんだね、やっぱり。時計を持つ人物といえば、その物語だ」
「正確に言えば、時計兎の息子だ――親父の記憶など俺には無いが、一つ覚えているものがある……この時計」
ロワが胸のポケットから、きらきらとした宝石で出来た懐中時計を見せてくれた。
ぱちんと蓋を開くと、中で沢山の時計針がちくたくちくたく忙しなく動き回っている。
「この時計がとても大好きだった。親父から貰った物だと思う――それから、とても鮮烈な赤、それだけを覚えている」
「――だった?」
「……俺にはもっと大事な時計ができたし、時間とも対立を始めたんだよ、ヨダカ」
ロワは笑みを消し去り、小さな意志を強く固めた表情で俯き、そのまま屋敷の奥へと向かった。
暗い屋敷の中で声が響く、ロワの声だ。
「水晶を割った部屋に〝犬〟がいる――、ヨダカ。俺にはもう一つ物語がある。今のお前には判らぬものだ、判った時刻こそ、屋敷の在り方も判る頃だろう」
――小さな子兎さん、君はまた孤独に闘おうとしている。
君にはアリスやハートの女王はついてないのか?
君は既に君自身の物語と決別を済ませているんだね。君はもう本来の物語からは外れている。輪にはいる行為はもうできない。
ロワ、君の物語は「不思議の国のアリス」――。
君のもう一つの物語とは何だろう――?
流石にそこまでは私にも判らなかった。




