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緊迫からの逃避

「さて、ここからいつもお前は苦労するんだ」


 私の背中からひょこっと現れる、銀髪。くりんとした瞳で私を見上げる。

 私だけが喋られる、今回は身体は動けないようだ。

 ロワが私に向かって、小首傾げて微笑んだ――機械的な笑みだけど、何故かその微笑みは心が暖かくなって涙が出そうだった。


「お前の人生を大きく苦しめる存在が現れる。一人な、心を闇に捕らわれてる奴がいるんだ」

「……琥珀さんじゃないのか?」

「そいつは、いつもの役目。あと少ししたら判る、あと少ししたらまた俺は現れるよ。今回は二回も時間に勝ったんだ。今回は間に合う、だからこそ俺はお前に考える時間を与えたい」


 えへんと胸を張って誇らしげに、時間に勝ったと自慢するロワに私は苦笑した。

 ああ、まだ苦笑できる気力があったんだ、表情が何一つ動けなくなったかと思ったのに。

 過ぎった顔は――。


「……もう……何も考えたくないよ」


 ねぇ、ロワ。時間って不思議だね。恐怖が持続すればする程、考えるのを停止してしまいそうになるんだ。

 知ってるよ、それが生きるって行為を否定するんだって。

 考えるのをやめた瞬間、人間ではなくなるんだって。人間は考えるからこそ、人間っていう生き物なんだよ。人に言葉を伝え合うからこそ、沢山の人と感動を共にできる素晴らしい生き物なんだ。

 それは知ってるんだよ、判るんだよ。でもだからといって実際にどうだって言われても、今の状況だと何もしたくないに繋がるんだ。

 できるなら君が一生時間を止めてくれないか、って願ってしまうんだよ。

 私が頼の妹? それを自覚した瞬間に、私は途轍もない後悔に襲われると思うんだ。

 忘れてしまった出来事が悲しくて悔しくて、自分を責め続けてしまう。

 あんなに、あんなに忘れないって思ったのに、実際には忘れていた。

 星だけを覚えていて、星の名前を忘れていたってどれだけ間抜けなんだよ――間抜けさを半分思い出した。

 蔓が絡んで絶対に触れられないようにしていた想いを、記憶の奥底で見つけたんだ。

 今、蔓が取り除かれて、記憶が全て、もうすぐ見えそうだ。

 ――嗚呼、見えそうだ。


「ヨダカ」

「もうそれは私じゃないと気づいてる」


 気づき始めたんだ、もう今は、空に輝く強い燐の少年を思い出してきたんだ。

 どうして忘れていたんだろう、私は。

 あんなに覚えていたいって願ったのに、何故あの森の出来事を忘れていたんだ?

 曖昧に覚えていたから、私はきっと今この髪型が、頼と似ているのだろう。

 中途半端に、世界中が忘れても、私だけが頼を見つけていたんだ。

 ロワはじっと私へ視線を流してから、首を振る。


「いや、お前は――星だよ。ただちょっと違う輝きなんだ。なぁ、お前は空を飛べるんだろう?」

「……空?」

「ハイジャンというやつだったか? いつだったか聞いたんだ、お前はシリウスと呼ばれていたくらい、空を飛べたんだって。なぁ、最初から空を飛ぶのは簡単だったか?」

「――いいや」

「じゃあ苦労した時のバーの高さを逐一覚えているか?」

「――……いいや」

「必要な苦労っていうのはそういうもんだ。苦労したと覚えていても、細かい数字は忘れてしまう。ましてやお前達兄妹には事情があった。俺から話すつもりはない、頼から聞けばいい。いいか、星は星だ。シリウスだろうが、ヨダカだろうが俺にはどうでもいい。――お前と頼はとても似ているから、どちらが本物のヨダカか俺には想像がつかない。でも……どちらでもいいと思わないか?」

「どうしてだ、どちらにも物語はあるんだよ。シリウスにはシリウスの、ヨダカにはヨダカの。交じってはいけないんだ! 苦労した高さ、全部は覚えてなくても、どうしても飛べなかった高さは覚えているよ。ようやく飛べた高さだ、一メートル九十センチっていうハードルを私は一生忘れない! あの新しい景色が見えた空を!」


 私が必死に訴えると、ロワは少し考え込んで、儚い笑みを浮かべた。

 水滴のように一瞬で水面に溶ける微笑み。おっとりとした微笑みは、一瞬で消えて無表情に戻る。


「お前がまだ強くて安心した。これより先は……お前がどちらでもよいと言っていたら、そちらの世界に俺は現れただろうよ。ディースに必要だから」

「ロワ……?」

「なぁヨダカ、お前は俺にとってはヨダカなんだ。頼ではなくてな。いいか、考える行為を否定する愚かさを思い出すといい。どれだけマイナス思考に陥っても、何が何でも考え続けろ。後悔する前に動くんだ、少しでも何かが変わるかもしれない――いいや、お前なら変えられる。だって、お前は紛れもない〝運命の女〟なのだから」


 ロワはシャンデリアへと身軽にジャンプして、指を鳴らそうとしていた。

 私は待って、と言いたかったのに、声が出なかった。恐怖と悔しさにまだ塗れていたらしい。

 やるせない思いを抱えたまま、休憩の時は終わっていた。

 琥珀さんの銃口が私に向かっていると気づいた――嗚呼、かちりと何かが外れる音がした。セーフティーだ。いよいよ私はまずいらしい。

 目を思い切り瞑った、真っ暗闇が訪れると同時に、硝煙の匂いが強くなった――。

 嗚呼、音で耳が痛い。

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