狂気の屋敷
若葉と二人でテーブルについた。落ち着いた葡萄色のテーブルクロスがテーブルを隠すように包んでいて、椅子の背もたれも同じ色だ。椅子はアンティーク調の椅子で、何だか皆がよく想像するいかにも大人です、ってイメージのバーにいるような錯覚。綺麗にスプーンやフォーク、ナイフが並べられていて、私も若葉もテーブルマナーを守った。
かかっている音楽は、名も知らないけれど、有名で聞いた覚えのあるジャズ。
厨房らしき方向からはとても良い香りがしていたものの、やけに静かだった。
店の給仕が料理を運んでくれる。何も印象に残らないような、言い方が悪いけれど薄っぺらな人だった。他にテーブルは五つの他に大きな、団体用があるのに、私達の他には誰も席には座っていない。琥珀さんが少し遠い席で、グラスを磨いている。琥珀さんのテーブルには食器や、グラスが並んでいた。琥珀さんは視線が合うと、ぺこりと会釈してくれた。だが、私に対して、道具を見ているような眼差しはそのまま。
窓ががたがたと強風に揺れていて、外は真っ暗だった。いや、真っ黒といってもいい。木々の色も、屋敷の明かりによって識別できる程度。
実に大晦日らしい天気であったというのに、寒さをあまり感じないのは、暖房が効いているからだろうか?
食事の最中。ずっと頼という人物を考えていた。
懐かしい。でも初対面。何より、長年思い描き続けた理想が服を着て歩いている。
ずっとずっと私がお手本にする際に、空想していた理想の私だ。
王子様になれたらきっとあんな姿になるだろうって妄想したのを現実にした姿!
「後で行く」と言ったのに来ないし、それでいて「肉は絶対に食べるな」と言外に忠告してくれて。
何より、あの瞳が凍てついている理由が気になった。
一瞬で脳裏から焼き付いて離れなくなる存在。まるでお伽噺。
自分がそうなる予定だったのに、本物の王子様が現れるなんて、予定外すぎて。
王子様ってそういえば、他に王子様が現れたらどうなるのだろう?
どちらかが本物でどちらかが偽者の王子様になるのだろうか?
――偽者になってしまうのは私だろうけれど、憎めないくらい本物だ。あの人が王子ならば従者でも私はよくなってしまう。
頼が気になった。頼は何者なのか、頼はなぜこの屋敷にいるのか、どこに住んでいたのか。
どうして――何か覚悟を決めた瞳だったのか。
私の脳は、頼という存在でいっぱいだった。頼、君はいったい何者なんだ!
「……リカオンちゃん、あの人の言うとおり肉は食べないほうがいいよ」
次々と運ばれてくる料理を前に、若葉は青ざめた表情で私にこっそり教えてくれた。
私は、はっとして意識が現実に戻ってきて、若葉を見つめる。
若葉は理由は今は言ってくれそうになかった、ただひたすら青ざめていた。
少し嘔吐しそうな勢いでもあったのが気になって、私は肉には手をつけず、野菜ばかり食べていた。
それでも私は十分に美味しいと思ったのだが、一つ気になった。
どれもこれも、さっぱりとしている――よく言えばね。悪く言えば、塩だけの味付けが多い。まるで塩漬けにでもしようとしているような。
デザートまで塩ヴァニラアイスとは、なんというか……塩が名物なのだろうか。
食事を終えて、琥珀さんに銅鍵を返すために、琥珀さんの元へ行く。
琥珀さんはグラスをぴかぴかに、傷一つ作らず磨いていた。
「これ返します」
「ああ、有難う御座います」
「あの――ここに田鎖 頼って人が泊まっているんですよね? 食事の席では見ませんでしたが……」
「――頼を、見た?」
ぴかぴかのグラスが落ちて、割れる。かしゃんと音が鳴って、グラスの寿命はそれで終わる。
人の笑顔が凍り付く瞬間を、初めて見た気がする。
笑顔がびしっと固まってから、徐々に溶けていくんだけれども、警戒心強い笑顔は怖くてそれ以上つっこませてくれない。
話題を避けて、「ご馳走様でした」とお礼を告げて去るしかない。
琥珀さんから見えない場所、階段を上る途中で、若葉がしゃがみこんだ。
青ざめて、哀哭を押し殺している。
私は不思議に思い、若葉を自分の部屋に招いて座らせた。若葉は真っ青を通り越して、少し白い顔色だった。
幽霊みたいな顔色。
流石に心配になる、私は若葉の背中を何回も赤子をあやすように撫でて、なだめようとした。
若葉は余計に震えるだけだった。
「いったい何がどうしたんだね、若葉」
「兄ちゃんは俺を殺すつもりだったんだ……リカオンちゃんも一緒に……。もう駄目なんだ……もう大人しく死ぬしかないんだ……ごめん、リカオンちゃん。連れてこなければ……」
「何を急に怖い話をしているんだ!? いったいどうして――」
話が飛躍しすぎだ! 何であの馬鹿兄貴が、若葉を殺すなんて。あいつなら若葉を殺そうと思えばいつだって殺せるじゃないか。
ただ刑期が怖くてやらないだけだ、つまりそれって警察や法律がある限り絶対安心ってことだろ? この日本では絶対安全ってわけだ!
あんな馬鹿でも、理性くらいはあるはずだ!
君を励まそうと思っていたのに、君からの言葉で頭が真っ白になる。
「……さっきさ、肉料理あったじゃん……俺は食べなかったけど。あれ、牛でも豚でも鳥でもない」
「へ? そんな肉……あるのか?」
「シェフ目指して色んな料理食べてきた俺だよ? その俺が、判らない肉があるって言うんだよ?」
「よ、世の中広いからきっと知らない肉なんて山ほどあるよ!」
「じゃああの料理はなんなのさ、あの塩の味付けしかない料理は! デザートまで塩アイスだよ!」
「き、きっとこの屋敷の名物なんだよ……」
「……リカオンちゃん、さっきね、テリーヌの中に交じっていたもの持ってきたんだ。見せようか」
そんな行儀の悪い行いを若葉がするなんて。
何を私に伝えたいんだ? テリーヌの中に何があったって、そりゃシェフだって人間なんだからミスくらいするさ。
髪の毛が入ってたら、苦情を言えばいい。
そんなに怯える必要はないと思うのに――って楽観視していた。
若葉が見せてくれたのは、指輪。
その指輪には見覚えがある――老夫婦がつけていた指輪と全く同じ指輪だったんだ。
「――あそこで、リカオンちゃんはあの夫婦を見かけた?」
まさか――。
「――あれから先に、あの夫婦を見かけた?」
そんな――。
「リカオンちゃんに判るようはっきり言うよ! あの人は知っていたんだ、この屋敷が『人』を食わせる屋敷だったって! だから肉を食うなって言ってたんだ! あの人があの場にいないのが、あの人は判ってるって意味してるだろ?!」
それだけじゃない。この屋敷では頼が特別なんだって、琥珀さんの様子から覗えた。
若葉の言葉が色んな納得ができて――嗚呼、嗚呼。
そうさ、若葉の兄貴が、普通に考えて真っ当な旅をさせてやりたいだなんて思うわけがない。
どうして私は気づかなかったんだろう。信じたかったんだ、若葉の兄貴が親切心でここへ招待したって。
親切心で今まで、何かしら与えてきた物もあるけれど、それらは全て若葉に警察へ訴えないご機嫌取りの計算も含まれているんだって私には判っていたじゃないか。
ご機嫌取りなんていつしか面倒になるに決まっている。面倒になったらどうするかなんて、幼稚園の子でも判る。捨てるんだ。ごみが出たら、それと一緒に。
どうして、――この屋敷へ招待された「理由」を考えなかったんだろう。
私は震える手を落ち着かせようと力を入れてみるが、余計に震えて。
足も震える。こんな時思い知る、私は所詮女の子なんだって。
若葉のほうが冷静だ、冷静に向き合おうとして対処を考えているように見える。
私は見ないふりをしようとしていたんだ。