人になれない証
「ちーちゃん、どうしたの? ……!? アンタ、あの屋敷の……」
「あーすっきりしたわ! 貴方達殺したかったのよ、ずっと」
「……やめろ、やめろ!」
若葉はスクルドの体へ体当たりして、オレからスクルドを離れさせる。
若葉はどうしようもなくおたおたとしていて、オレから滴る黒い血に泣きそうだった。
――若葉はオレの血が血でない異変に気づいていた。
オレは、胸から滴る液体が、血ではない事実に泣きそうになった。
(これが、証明だ。オレが人にはなれない永遠の証――)
人間になれない、お前はゴミを寄せ集めてできた人形なのだと、神様が教えてる。
子兎にはもう戻れない、かといって人間にはなりきれない、半端物。
だから、オレには色が宿らない。オレの瞳にある赤色だけが、人間らしい色合いだと、神様が偉そうに語っている気配がする。
いや、事実、運命の神様であるスクルドの瞳は嗤っている――お前は人間と一緒に暮らせないと、語っているんだ。だから、人間の真似をしたオレを嗤うんだ。
オレは――時を司るんだから、時計だ。黒い油を挿してギアが止まらないように動こうとしているんだ。時計でしか無い。時計以上にはなれない。限りなく人の傍にいて、人間には決してなれない存在。
オレはスクルドを驚愕したままの勢いで睨み付けていた。
だが、胸部に刺された物があると自覚すると、もう苦しくて何もできない気がした――手から力が抜けていく。嗚呼、膝から崩れ落ちる。
どさりと音がしたな、と思うと同時にオレは倒れていた。
「若葉……若葉」
「ロワ!! テメェこの野郎!」
「よせ、そいつに構うな……ルールだったんだ、名前を、オレはそいつの名前を呼んじゃいけないって……屋敷のルールが続いていたんだ」
もうその場に存在していないスクルドは、きっと見えないだけでそこにいるんだろう。
どうして、どうしてオレは屋敷から出れば解放されるって信じていたのだろう。
他の物語達には適応するけれど、あいつは――あいつは、元は女神なのだから、あの屋敷から解放されれば付きまとい続けるんだ。
スクルドは――あの屋敷だけじゃなく、世界の何処に存在していい女神なのだから。
あの屋敷にいたのは、本人の気まぐれである、とあの少女も言っていたじゃないか。
世界のどこにいても、オレだけは少女の名前を呼んではいけなかったんだ。
舞台上で役を演じる女優の本名を、叫ぶようなもので、野暮なんだ。
少女の名前を呼んだ瞬間、勝利を失う――そういう、制約なんだって気づくのが遅れた、それだけだ。
だから、悲しまないで。まだ、オレがあの少女に勝つ、最後の手段がある。
オレは、時計。時計以上になれないのなら――。
「若葉、とても狡い頼みがある」
「――やだ、嫌だ、死なないで……何で……!!! ロワ、ロワ!」
「若葉、落ち着け。あの島で――あの島で時計台を作ってくれ。そうすれば、きっとオレが生まれる。そのオレには、もう時間を遡るな、と言っておいてくれ」
そうすれば、せめて他の時空ではハッピーエンドになるだろうから。
お前たちの幸せを祈りたい。あの少女をこれ以上のさばらせてはいけない。
それならば、またオレが生まれればいい話。時間を遡りさえしなければお前たちはハッピーエンドで、オレが人になりたいという我が儘も起こらなければ、そのまま平和に暮らせる。
勝利は今度こそ、お前たちのものだ。過ちをもう繰り返さないよう、どうかお願いだ。
――心の奥底で、まだ我が儘なオレが泣きわめいている。
やだよ、忘れないでよ、オレはまだお前達と生きたいよ、って。
人間になりたいよ、って。
ほんの少し、我が儘が疼いた――。
「あと、オレは、もうロワじゃない。ちーちゃん、だ……」
「そんな遺言みたいな言葉吐かないでよ! 生きてよ! 俺に託さないでよ! 生きて自分で伝えてよ!」
若葉の言葉がむちゃくちゃな話にオレは笑いたい思いだったが、笑うと傷が痛むから何も言葉にできない――ちょっと気を失いそうになった時に、リカオンが若葉の側で泣いていた。いつの間にか帰ってきたらしく、衣服が全力で走ってきたのか、乱れている。
ぼろぼろに泣く姿を見て、オレはいつもリカオンを泣かせている実感がした。
「君は、いつもそうだ」
若葉はオレにしがみついて離れず、リカオンは泣き叫びながら、涙を両手で拭う。
「君はいつの間にかいなくなるんだ、前も。前もそうだった! 巻き戻す前も! 今度こそ、君を助けたかったのに、ロワ」
「ロワという存在になるのには、もう飽きた。オレは、人になりたい。千歳に……なりたい」
最後の気力を振り絞って、リカオンに笑いかける。
するとリカオンは益々涙するんだ、どうすればいいんだ。
「……ロワちゃん……いや、千歳……ちーちゃん、なぁ、……ほんっとずるいよ……」
若葉の声が遠い、ふわふわと意識が消えていく。
「それなら、誰もが憧れるような時計作ってやるよ……世界で一番でかい時計作ってやるよ!! だから、だからまた会おうね……絶対、また会おうよ、千歳!!」
意識がふっと途切れて、誰の声も耳に入らない。
真っ暗闇にただ一人漂うような感覚で、自分という者がどこまで存在しているのか分からなかった。
赤いシルエット、黒い声。
鐘の音が、やけに大きく聞こえる。死の迎えだろうか。いいや、オレは人になれんのだから、死に迎えなんてあるわけがない。
ならば、――あれは、何だ。あの、赤い子供は。
『一般人はここでお終いだ――』
『ここからは――未来の話だ』
子供がにっと笑いかけた途端、一気に青年の姿になり、頼と全く同じ顔になる。
だが、確実に頼ではなかった。
一番最初に思い出したのは、この瞳が冬のような瞳だということ。
冬のように、何もかも凍てつくし、雪の中で凍らせることで甘みを保つキャベツ。
嗚呼、オレはこいつにとって、キャベツのような存在だったのか。
キャベツの甘みを守る為に、外敵を凍らせ、人々を苦しませ続けていた冬の真雪のような――。