頼の気遣いと、麻痺
次の日の朝、部屋で寝たふりをしていた。頼が帰ってくると、頼はオレが寝たふりをしていると見抜いて、オレと一緒に少しだけ散歩にと、誘ってくれた。
頼は仕事明けだというのに、オレには少しも「疲れた」という言葉は使わなかった。
扉にはのり付けしてあった後が見えた――何かが貼ってあった様子が。
「若葉が、いつも剥がしてくれてたんだな……」
「まぁな」
頼は否定しなかった。一緒に階段を下りると、一階下の奥さんが掃除をしていた。
奥さんから滲み出た嫌悪感を察すると、頼はオレを奥さんの視界から隠すように、オレの後ろについて、歩き出した。
歩き出しながら、オレはどんどん落ち込んでいく。
「ロワ」
「……オレが、オレがロワなんて名前だからいけないのだろうか。日本人の見目じゃないし、名前じゃないし……」
「リカオンもそうだろうが。ロワ、気にするなとは言わない。ただ、テメェが怯える必要はない。何かを特別変える必要はない」
「……頼。……どうして、どうして頼は怯えたりしないんだ? 若葉もリカオンも不安そうだった。でも、お前は何も怯えていない。どうして?」
無神経すぎる質問だった。
貴方は人間じゃないんですか凄いですね真似できないです、って問いつめるような質問だ。
オレは口走ってから慌てるが、言葉にしてしまった現実の苦さから逃げられなく。
頼はオレをじっと見つめてから、近所の公園まで歩いて、そこで缶コーヒーを買った。
頼は大人なのに、ブラックコーヒーが飲めないらしく、しっかりミルク入りのやつだ。
オレにも何か飲み物を買おうとしていたが、「オレはいらない」と言うと、頷いて缶コーヒーを振った。
「オレはよォ、もう麻痺してんだよ、あの屋敷で」
「――麻痺?」
ベンチに座りながら、頼は小さな声で話してくれた。
「嫌われるのも、好かれるのも、何をされるのも驚かなくなってんだ。一通り体験してきてるんだよ。何十回も侮蔑されるのも、何十回も好かれたのに失うのも経験してきた。その全てを覚えている」
「……頼」
「永遠なんだって思った、苦しむのは永遠なんだって。オレが、忘れて欲しくないからって、ちょっと欲張って、リカオンを琥珀に呼ばせたからなんだって。永遠じゃなくしてくれたのはテメェだ、ロワ。あいつらにとっても、テメェが終わらせてくれたんだ。スクルドを探し続けた、あいつを見つければ全部終わるから。あいつがあの屋敷の全てを決めているから。その情報を掴んだ。オレはずっと一人だと思ってた、でもリカオンからテメェの名前を聞いた……嬉しかったんだ」
「スクルド……」
頼は遠くを見つめてから、缶コーヒーのプルタブを押し開けて一口飲むと、「あー」と疲れが染み出てる声をあげて、空を見上げた。
空は悠々と雲が流れていて、明るい水色で優しい日向だった。今の時代じゃ、珍しくなってしまった雀が飛んでいく。
背もたれに寄っかかって、空をじっと見つめて、頼は呟くように言葉を続ける。
「ロワ――テメェが苦しまない為なら、オレは永遠に嘘をつく。苦しんでもテメェの為になるなら、嘘をつき続ける。罪悪感なんてねぇよ、自己満足だ。でも、テメェが幸せになるなら、永遠に嘘をつく、誰に対してもだ。テメェが幸せだと心から思うようになること――それが挫折してからの、オレの理想」
「――なぜそんな宣言をする?」
「テメェがオレを疑うという罪悪感が消えるように」
――頼は、頼はいつもそうだ。先回りして、オレの悲しみを先に消そうとするんだ。
ディースもオレには最初、伝わらない救い方をしようとしていた。
オレが屋敷に目をつけられないように、動いていた。
お前はいつもそうだ、そんなだから、皆はお前をヒーローだと勘違いしてしまうんだ。
それともお前はもう、本物のヒーローになれたのだろうか?
お前の中身は、挫折してからきちんと何かで満たされたのだろうか?
オレは外で泣くわけにはいかなかった。今、誘拐されてると疑われてるのなら、泣くのは最悪の事態を招きそうだ。
我慢する――頼達の言葉を受け入れるしかできない、現在を我慢する。
ふと、子供の笑い声が聞こえた気がしたが、公園だからだろうか。
少女の懐かしい声が聞こえた気がした――。