屋敷の<王>
「もしかして……もう姿形は覚えていないけれど……ロワですか?」
「う、うん」
「ロワ、最期に貴方に会えてよかった。僕はどうあってもこの屋敷の犠牲となるようです。狂う僕が最期に見つけた道を、貴方に残します。僕は覚悟を決めました、青い鳥を解放します」
「解放……頼を自由にするのか?」
「リカオンを殺します」
「それは救いではない」
オレは咄嗟に返事をしたが、琥珀の瞳には遠い未来への切望がにじみ出ていた。
正常でいたい、という願いが見えていた。祈りのように胸に手をあて、ぐっと俯いてからオレへ向き直り、琥珀は唇を噛みしめていた。
「本気で殺しにかかります。リカオン達は止めにかかるでしょう。お互い本気でなければ、物語として認められないでしょう? さて、その時名無しはどう動くのでしょうね? あの人の決定打になると思うんですよ、あの人への未来への」
「……琥珀、まさかお前、死ぬつもりで……」
オレが驚いて琥珀に向かって指をさすと琥珀は、屈してオレに目線を合わせてくれた。指された指をそっと両手で包み込む。
オレの手を包み込んだ両手に、何かを祈るように託そうとしている。
目を瞑って、神への祈り文句を呟いてから、オレへ笑いかける。
「僕はもう十分なんですよ。青い鳥が僕の側を離れる瞬間なんて見たくないんです。それは、再び『物語』が僕を捨てる瞬間だ……ずっと、ずっと。僕が此処へ拾われてから、頼様は側にいてくれました。ロワ、僕はね、最初捨て子だったんですよ。物語から捨てられたんです。もっと相応しいチルチルやウルドを、未来では物語は見つけていたんです。僕は物語に捨てられて悲しんだけれど、頼様は僕に再び物語と生きる意欲をくれた……。想像してみてくださいよ、親よりも近しい者が幸せになる、それも自分の行動が切っ掛けで。なんて幸せなんでしょう」
ボタンを掛け間違えたように、どこかずれた幸せなのではないか――と思ったけれど、それを言うのは駄目だと感じた。
オレが間違いだと言おうと、何と言おうと実行すると、瞳が強く瞬いていたから。
「……琥珀、お前、過去のチルチルは正常ではないと言ったな……。紛れもなく、今のお前は……」
普通だと――思うんだがなぁ。
確かに人肉を食べたりしていたが、頼を思う気持ちには真っ当な人間のような暖かい友情を感じられるんだけどな。
オレの言葉を手で制して、琥珀はチェシャ猫のような笑みを見せる。
「いいえ、狂ってますよ。愛憎で言うなら、僕が世界で一番愛してるのはリカオン嬢なのかもしれない。だからあの娘を殺したい、殺そうとするだけで皆が幸せだ!」
琥珀はオレをぽんぽんと軽く叩くように撫でてから、姿勢をしゃきっと正し、スクルドへ視線を向ける。オレへ話しかけた時は視線を合わせてくれる優しさを持って接してくれたが、スクルドにはそんな素振りは見せなかった。
寧ろ、スクルドへ挑むように、挑発的な眼光だ。
スクルドはにこにこと微笑んでいて、何を考えているのかいまいち判らない奴だった。
「――今はアリスとお呼びします。アリス、この勝負貴方の負けですよ。過去の僕が死ぬのに、未来に僕がいた矛盾が起こり、〝いつもの貴方の好きな時間〟に矛盾が起きる。いかさまの時間はお終いです。さぁ貴方の負けです――それが未来を作る、かつてウルドだった僕の願い」
「チルチル、随分興味深い行動をするのね。最初から不思議だった、貴方がロワを憎まないのも。どうして? ロワは貴方から青い鳥を。物語を奪うのよ?」
「――この屋敷の<王>には従いたい、物語を持つ習性として。私の<王>は貴方じゃない。僕にとって、運命を決めるのは頼様と、リカオン嬢と、ロワなんだ。この三人だけが僕にとっての勝利をもたらす。貴方なんて紛い物。紛い物を憎みこそはすれ、勝利を呼ぶ神をどうして憎みましょう? それだけです」
「馬鹿な子、それならそんなに言う貴方の矛盾する未来がどうなるか、見せて貰うわ。……本物のスクルドを選ばなかったのは、貴方よ、恨まないでね? あたしを紛い物と呼んだ報いを受けるといいわ。ごきげんよう」
スクルドは傍から見てもすぐに判るほど、敵意を琥珀に持っていて、苛立っていた。
声が刺々しく、いつも甘ったるい女の子をイメージさせる声を放つスクルドにしては珍しい。
スクルドは時間を早送りしようとしている、待て、と叫びそうになった。
嗚呼、琥珀に手を伸ばそうとしたのに、この手は届かない。一瞬だけ届きそうになったのに、琥珀がオレの手を叩いて、拒絶した。
オレは――オレはいつも誰かの応援を身に受けて生きているのか。誰かの応援だけを身に受け止めて、何もその人に恩返しする行いもできず終わるのか。
琥珀はオレに託そうとしたんだ、未来を。きっと世界が変わる未来を。オレと同じだ、タイムパラドックスを産んで、予想できない未来を作ろうとしている。
未来に自分が存在したという事実さえ消してでも、オレに勝たせようとしているんだ。
琥珀、お前は狂ってなんかいない――!! お前は自らを本気で悪にする行為で、皆を生かそうとしてくれた。狂う奴の判断ではできない。
お前は誰よりも、屋敷のために「存在」していながらも、未来を変える手伝いをしてくれる。
ぽろりと瞳から涙が溢れ落ちる頃には、場面は変わっていて、ディヴィットが琥珀を撃って琥珀が死んだ後だった。