水没絵画
〝未来のチルチル〟が恐れていた通り、琥珀は狂いだしていた。
頼を閉じこめて、人の肉を食いだした。いや、正常なのかもしれない、料理店の主人としてならば。
注文の多い料理店の店主ならば、人肉を好むのだから、それが普通だ。
琥珀は怪物なんだ、って認識を変えようとした。
しかし、心の何処かでまだ穏やかだった琥珀を覚えているから、簡単にはいかないけれど。
リカオン達が屋敷にくる日取りが決まる。今まで人肉となった客を含め、沢山とは言えない人数が屋敷にきて犠牲になっていた。
今日、ディヴィットとリカオンがくる。
オレは、エントランスにあるシン姫の絵をじっと見つめていた。
スクルドはオレから滅多に離れなくて、まるでオレが何かしでかさないか監視しているようだった。
シン姫は変わらずに絵画で緑のバッスルドレスを着て、おすましをしている肖像画だ。
「その子に会いたい?」
スクルドの言葉にオレは、可能なのかと驚いて振り向くが、スクルドは腹に一物あるような胡散臭い笑みを浮かべている。
「勝負しましょう。あたし、貴方と遊びたいの。シン姫は自分を描いた雲村紅をどう思っている?」
シン姫は最後らへんは「親」である雲村紅を誇りに思っていたと、青い光から聞いた。
だが情報をそのまま鵜呑みにしていいのだろうか?
次元は違うし、次元が違うなら人も違うのか? ――だがオレはあの青い光を信じたい。
優しい目に馴染むようなあの輝きを。
「心では認めたくないが、誇っている」
「――なぁんだ、今回は正解なのね。いいわ、会うのを許してあげる」
オレはどうすれば会えるのか小首傾げてから、絵に触れると、絵の中へ吸い込まれた。
絵の中は一つだけ明かりが一定の方向から差し込んでるだけの、水槽みたいだ。
ぶくぶくと沈んでいく感じがするのに、呼吸ができるから不思議だ。
どこまでもどこまでも沈んでいく――深海のように。やがて底に辿り着くと、そこにはシン姫がいた。
シン姫はオレへ背中を向けていて、さめざめと泣いている孤独なお姫様だった。
大丈夫だよ、これから皆がくるから、もう一人じゃ無い。
もう頼だけを待つ日々にならないし、この屋敷から解放されるように、オレも頑張るから、泣かないでくれ。
女性の涙は、やはり、気持ちが弱くなってしまう。
恐る恐るオレはシン姫に声をかけた。
「シン姫」
「……どうやって此処へ入ってきましたの?」
シン姫は、はた、と泣き止み、ゆったりとした動作で振り返ってオレを見つめた。
涙が滲んだその瞳は、女性特有の可愛らしさを秘めていて、どきりとする。
「――赤毛の人から頼まれた」
頼だって誤解されるだろう、リカオンのことだけど。
でも別に構わなかったから、オレはシン姫と対面して嬉しい思いを隠せなかった。
つい、つい喜んでしまったんだ。再び出会えて、オレの姿を認識して貰えて。
シン姫は、屋敷の者が噂してオレの存在を知っていたのか、ディヴィットにオレがどのような存在であるのかまで伝わっていた時空もあった。
それ故に、時間に負けた時もあった。
シン姫は物語というより、絵を持っている女性だけれど、オレと同じような「物語があるからこそ生きられる登場人物」だからお互いを知っていてもおかしくない。
オレだってシン姫の噂を、屋敷で遊んでいる時に聞いた覚えがあるんだ。
謂わば、同類だ――同族だ。同胞だ。
同じ家に住んでいるのに、存在を知らない馬鹿はいないだろう?
「シン姫、できればオレの言葉に耳を傾けてほしい。これからリカオンがくる」
「リカオン?」
「頼の妹だ。助けて欲しいんだ、頼達を」
「あたくしには何もできませんわ」
「――シン姫。もしも助けられたら、絵が外へ行けるんだぞ?」
「そんな甘言騙されない。この絵が、屋敷の外へ行く? 無理よ」
シン姫の瞳は濁った黒で、この絵から自由に出入りできない外を、憎んでいるような表情だった。
膝を抱えて座り込んでいて。顔を絶対に此方へ向けないで、俯き続けていた。
自分は絶対に存在できないと信じている。存在する現実が罪だと思いこんでいるような。
シン姫、もう少しだけ信じてくれないだろうか。
現実にちょっと期待するだけでいいんだ。きっとそんな行いができたら、皆を助けられる。
「名無しの物語がいる。そいつはお前にとって魔法使いだ、シンデレラの。ただ魔法使いは自分の使うべき魔法が判らないんだ、もし魔法使いが誰か判ったとき、魔法を教えてやってくれ」
「シンデレラ……? あたくしに物語がつきますの? ……か、甘言よ、信じない」
「信じてもいい頃合いだと思ったら、信じてくれ。お前が信じたいと願ったときに」
「……ロワ……?」
シン姫の口から自然とオレの屋敷での名前が零れた。
シン姫は呟いてからはっとして驚いている様子だった。
オレはシン姫の頭を優しく撫でた、するとオレはいつの間にか現実に戻っていて。