過去の國を渡る者
風呂上がりの琥珀に、ずずいと絵本を見せつけた。
オレは泣きそうになるのを必死に堪えて、視線だけでどうして琥珀がこの絵本を持っているのか問うた。
琥珀は、髪先から垂れる雫をタオルで拭き取って、ゆっくりと衣服を身に馴染むよう整える。
「その様子じゃ、今の僕が何者か判っているんですね? それも貴方は過去を遡ったばかりと見た、この屋敷では――道理で様子がおかしいと思いました」
「未来のお前が持つ役目は何だ?」
疑問に疑問で返すのはおかしいと判っていながらも、聞かずにはいられなかった。
答えられるなら答えて欲しい、だってオレには何が何だかさっぱり判らないんだ。
オレの知らない未来がある、オレの経験していない未来が。
その全てを、琥珀なら元ウルドならば知っているはずだ。
琥珀は数瞬瞬いてから、考え込む素振りを見せ、視線に何か含みを持たせる。
「僕はね、未来から生まれて、過去へと育っていくんですよ。未来の僕は何もかも知っていて、過去の僕は未来の僕が覚えていた物を少しずつ失っていく、忘れていく。それでも、生きていく。それに何かしら理由が要るんですか?」
「お前はだって悪者だ、あいつを、若――」
「まだ名前を口にしてはいけない、物語が決まってしまいます。未来を不確定のままにしておきたかったら、偽名を使いなさい」
――この屋敷では物語が決まっていないと、存命が難しい。そのルールを琥珀は知っているはずだ。
たとえば、琥珀の物語は「幸せの青い鳥」。
未来の国のチルチル――今話している琥珀――は優しい。だけど決して幸せの青い鳥が手に入らない焦りから、気が狂いだして、頼に固執するようになる。
幸せの青い鳥が何かを、過去の国のチルチル――店主を受け継ぐ琥珀――は知っているからこそ、狂ってしまうんだ。
側にいたのに、ある日鳥は巣立つから――。
琥珀は、リカオン達とは逆の時間へ向かっている。
未来から過去へ旅立つ人生が、琥珀の物語で屋敷では「物語があるから決まっている人生」。
何も物語を持たないディヴィットだけが、屋敷の常識を変えられる可能性があるんだ、強者に狂わなければ。琥珀の言葉は、そんな意味を含んでいると見えた。
オレが昔、消える前も。頼がディースになっていた頃は、琥珀はオレには優しかった。
時を逆行する琥珀にとって、未来が過去なのだ。
何よりチルチルは色んな世界へ行ける、故に異次元のオレたちを知っていても不思議ではなかった。
「――貴方のお父さんは物語がない者を見下していたが、僕はね、思うんですよ。何も物語がないからこそ自由で、皆は畏れ、故に君臨できるのでは――とね」
「……ディヴィット……」
オレは琥珀から手を離して、小さく項垂れた後に、絵本を強く握る。
「琥珀――」
「まだ同情しないでください。必ずしも僕が、過去の国であの方を閉じこめるとは限りません。今の僕は、あの方の行く末を見守ってきた。傷が痛い、怖いって震えても、あの方は僕を見捨てなかった――僕にとっての青い鳥を、過去の僕は知っていたからこそああなったのでしょうね。でもだからといって、僕は過去の僕になりたくない」
「琥珀、オレはまだ混乱している。オレは死んだはずだ――お前も知ってるだろう? まだ物語が始まらないお前なら! どうしてだ?!」
オレは、「未来のチルチル」である琥珀に大声で問いかけた。
オレの大声に合わせるように、吹雪で揺れている窓がばたーんと開いた。窓から物凄い突風が入り込み、一気に部屋の温度が下がる。
雪も中へ入ろうとするが、真っ赤なカーペットへたどり着く頃には、溶けている。
琥珀は指さし、オレに窓を閉じるよう促したので、オレは窓へと慌てて駆け寄った。
窓を閉じて、ノブを後ろ手にし、開けさせまいとした。
琥珀は、腹部をさすりながら、穏やかな笑みにほんの小さな同情心を染みこませた。