9話 償い
包丁を逆手に握り、胸に突き立つ前に、なんとか彼女の小さな手ごとそれを押しとどめることが出来た。彼女は必死に身体ごと体重をかけるようにして、ぼくの胸を貫こうとする。だけど幸い、彼女の細い身体が持つ力よりも、ぼくの力の方が勝っていた。
「はなして……はなし……!」
「ぼくのせいなんだ!」
彼女の言葉を遮って、ぼくは大声を上げた。彼女がきょとんとすると同時に、僅かに手の力が抜けた。
「ぼくも、兄さんが嫌いだ」
呻いてから、それでも、ぼくにも罪があることを打ち明ける。
「兄さんがああなったのは、ぼくのせいなんだ」
「なに、それ……」
彼女の手から、徐々に力が抜けていく。
ぼくが告げなければならない。兄は逃げたから。何も言えない世界に勝手に逃げたのだから、ぼくから伝えないといけない。
「ぼくは頭が悪くて、兄さんはすごく頭が良かった。だからぼくの両親は、ぼくに期待することを諦めて、ふたり分の期待を兄さんに……あの人にかけたんだ」
「そんなの……それぐらいで!」
「ぼくは、あの人が遊んでるのを、一度だって見たことがない」
佑樹は勉強ができないね、少しはお兄ちゃんを見習いなさい。それが両親の口癖で、ぼくはいつも生返事をするだけだった。それが許されていたのは、文句など一切言わない兄がいたからだった。
「いつも外で遊んで帰るのが、ぼくには当たり前だった。だけど、あの人はぼくと違って、遊ぶことを知らなかった。それが許されなかったんだ。みんなに期待されて、いつもそれに応えていて、ノイローゼになっていくのを、ぼくは見ていた。だけどそれは甘えだって、だれも、気にも留めなくて……。それが判明したのは、精神鑑定がされてからだったんだ」
ぼくの懺悔に、彼女が息を呑む音が聞こえた。
兄の精神を壊していることに、家族の誰も気づかなかった。いや、気にかけようともしなかった。診断が下された時には、とうに全てが手遅れだった。
「父はぼくと遊んだけど、ぼくは兄と父が会話をしているのさえ、ろくに聞いたことがなかった。それすらテストの点数の話ばかりだったことに、気づきもしなかった」
兄が机に向かう後ろ姿が蘇る。おにいちゃんと呼びかけようとしても、母に勉強中だからと止められた。遊びに誘うんだと彼の部屋に行こうとしたら、勉強の邪魔をしては駄目だと、父に諭された。そうだ、ぼくは兄の顔をまともに見たことが、何度あっただろうか。
「ぼくは、何も知らなかった。事件が起きた後も、知ろうとさえしなかった。友だちなんて一人もいなくって、親友だと思ってたやつにも石を投げられて。何度引っ越しても、犯罪者だと言われて。ぼくも恨んだ。全部、あいつのせいだって。ぼくは、家族を壊したのはあいつなんだって、ただ、憎んでたんだ」
ぽたりと、服を通して腕に熱いものが触れるのを感じた。ぼくは泣いていた。心から涙が溢れることなんて、何年ぶりだろう。
だけど、ぼくが言わなくちゃいけない。もう、伝える術は、他に残っていないのだから。
「けれど、あいつが……兄さんが、きみにひどいことをしたのは、ぼくのせいでもあるんだ。ぼくがもっと、両親の期待を受けられる人間だったら、きっと、あんな事件なんて起こさなかった。……少しでも、兄さんのことを理解しようとしていれば、自殺なんてしなかったんだ!」
ぼくは薄情な人間だ。兄が死んでも、涙ひとつ零さなかったのだから。悲しいと頭でわかっていても、心が動かなかったのだから。
けれど、兄が自殺したという事実は、紛れもない真実だった。ぼくはいくら憎んでいても、彼に死んでほしいと思ったことはなかった。全てが今更となって、やっと悔やむことを思いだしたのだ。
彼女を見ると、涙に濡れた目を見開いたまま首をゆっくり横に振っていた。泣いている彼女は声が出せないらしい。しかし口の動きだけで、「でも」と言っているのが理解できた。
わかっている。これは全て、ぼくら兄弟の都合。言い訳にさえならない。それでも、知っていてほしかったんだ。何もかも兄が悪いのだと思ったままでいてほしくない。
「……これだけ、知っててほしかったんだ。ずるいのは、あの人だけじゃない。ぼくもなんだ」
ずるいぜ、佑樹。澱んだ兄の目が見え、声が聞こえる気がした。
ぼくはズボンのポケットに片手を突っ込み、それを取り出す。左手で折りたたみナイフの刃を立てると、彼女がはっとする息遣いが聞こえた。再び、包丁を握る手に力が入るのを感じる。
「待って」
彼女が思い切り力を込める直前、ぼくは彼女の指を片手で解いて、包丁の持ち手を握りこんだ。そんな不可解な行動を、理解できないという顔で見つめている。その彼女へ、刃を指で挟んだナイフの柄を差し出した。彼女が震える手で、それを受け取る。
「これ、使って」
彼女がぼくを見上げる顔が、みるみる歪んでいく。ぼろぼろと溢れる涙を拭いもせず。彼女は泣き顔を見せる。
すっかり彼女が手から離した包丁の柄を、ぼくは左手で何度も握った。
「指紋、消さないようにしてね」
そう言って手の力を抜くと、包丁は音もたてずに地面へ落ちた。
ぼくは、腕の力を抜いて、身体の横に垂らす。
けれど、彼女は小さなナイフを握ったまま、小刻みに震えている。そうか、目が合っていると、やりにくいのかもしれない。
ぼくは、瞼を閉じた。
彼女の愛しい重さが、胸に飛び込む。同時にその胸で、鈍い音が響いた。