8話 嘘と真実
指定された公園に着いた時間は、約束よりも五分ほど早かった。けれど彼女は手提げの小さなバッグを膝に乗せて、既にベンチに腰かけていた。いくら春が近づいたといっても、午後七時はすっかり陽の落ちた暗い夜の時間だった。
ぼくが尋ねると、今来たところだと返事をして、彼女はベンチから立ち上がって笑った。そばの街灯のおかげで、表情を見て取れる。夜になると流石に肌寒くなるのに、寒くないかと重ねて問いかけると、大丈夫だと彼女は首を横に振った。その髪には、お気に入りになってくれたのか、夏祭りの日に交換した髪飾りが映えている。彼女の動作と共に、チリリンと澄んだ音。
「あのね」
彼女の言葉の続きを、ぼくは少し緊張しながら待った。
「ごめんね」
けれど彼女は、理解できない想定外の台詞を口にした。
「……嘘だったの」
「うそって……?」ぼくは頓狂な声を出してしまう。
「受験。本当は、どこも受けてないんだ」
呆気にとられるぼくに、彼女は眉尻を下げた済まなさそうな顔をする。
「どうして、嘘なんか」
「えへへ……」
頬をかく仕草は本当に困っているもののようで、ぼくは続きの言葉をすぐに見つけられない。
「佑樹くん、すっごく優しいんだもん。あんなに真剣に、私の勉強に付き合ってくれるなんて。先生でもしてくれないよ」
ますます彼女の言いたいことがわからない。だって、教えてくれって言ったのはそっちじゃないか。ぼくは辛うじて、それだけを口にした。
「みんな、適当なのに。佑樹くんは、いつも本気なんだから。嘘だなんて、言えなくなっちゃって……」
ふう、と彼女は息をつき、一度伏せた視線をぼくに向ける。その瞳は穏やかで、普段と何ら変わりはない。
「どうして、受験しなかったの」
「うん……。私ね」
その瞳は、相変わらず静かに落ち着いている。
「しないといけないことが、あるから」
その内容を聞こうとしたぼくは、口を閉じた。彼女は、手に提げている小さなバッグから、なにか細長いものを取りだした。それを右手で握り、バッグをベンチに置く。白い布で覆われているそれの正体にぼくが気づいた頃、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
「佑樹くん」
不思議と、ぼくに恐怖心はなかった。
「私のこと、好き?」
はらりと布を解きながら、彼女は真っ直ぐにぼくを見つめる。街灯の光を受けて、黒い瞳はいっそう輝いて見える。ぼくには、眩しすぎる光。
「うん」
ぼくは、頷いた。よかったと、彼女は笑った。取り払った布を地面に落とす。小さな両手には、いまや光を反射する包丁が握られていた。
「私もね、好きだよ」
「うん」
「悲しいけど、佑樹くんのこと、大好きなんだよ」
静かな、子守唄のような声。包丁を握る少女は、儚い笑みを浮かべて、ぼくのことを好きだと言ってくれる。
「だけどね……。あなたしか、みつけられなかったの」
細い声に悲しみが混じる。目を伏せて小さな口を動かす様子は辛そうで、ぼくは唇を噛んだ。
「だって、逃げたでしょう。ずるいよ。そんなの、ずるいよ!」
兄のことを言っているのだとは、すぐに気が付いた。ぼくもそう思っているから。
「誰の手も届かないところに、勝手に逃げたんだよ。たくさん奪っていって、なのに逃げるなんて、ずる過ぎるよ!」
彼女が首を横に振る。鈴が場違いなほど澄んだ音を奏でる。
「ひどいよ……ひどいよ!」
土の色が、ぽつんと、一部だけ濃くなった。彼女が零した涙が、地面を濡らしていた。顔を上げてぼくを見つめる彼女は、いつもと同じようで、違っていた。悲しみに暮れ、どうしようもない憎しみに涙を流していた。
「いつも夢に見ちゃうの! 忘れたいのに、忘れられないの! とっても怖かった。あの人、どうしてあんなことしたの。怖かった……ずっと、今も!」
「うん……」
「佑樹くんにはわからないでしょ!」
彼女が泣き叫び、ぼくを睨みつける。
「全部、滅茶苦茶になっちゃった。私は普通の子だったのに、可哀想な子になっちゃった。誰も普通にしてくれなくなって……友だちも、一人もいなくなっちゃった!」
「一人も……」
「そう、一人も。お祭りの時、周りにいた子たちも、私が普通の子だったら関わらなかった。あの事件があって、可哀想だねって寄ってきたんだよ! だから私は、自分を変えないといけなくなった! いっつも笑って、みんなの励ましに応えなくちゃいけなくなった!」
彼女が誘拐事件の被害者だと知って、その興味と同情から人は寄ってくるのだ。真白自由という人物そのものを見るのではなく、彼女の存在を「可哀想な被害者」だとカテゴライズして。それに彼女は、笑顔で応じなければならなかった。
敵意を剥き出しにした瞳を見て、ああ、これがぼくに向けられる感情なのだと、いやに納得してしまった。自分に生涯残る深い傷を作った犯人と血の繋がった弟。憎むべき対象になっても、おかしくなんてない。
ぼくの顔色が変わらないことに、彼女は苛立ちを刺激されたらしい。幾度も激しく首を振る。その度に乱暴に鈴が鳴る。
「わかるわけない! わかったふりなんて、知ってるふりなんてしないで!」
辛かったね、怖かったね。そんな言葉を、彼女は数えきれないほどかけられてきたのだろう。それこそ、自分を変えるしかなくなるまで。
「佑樹くん、あの人が何したか、知ってる?」
掠れた声で、彼女はぼくに尋ねた。
「本当に、ひどいよ。全部、取られちゃったよ」
顔を歪め、泣きながら、笑おうとしているのか。それでも、静かな憎しみの炎は、彼女の瞳から消えない。
「私が女の子だから、あの人は、私を選んだの……?」
一瞬で、ぼくの思考は停止した。顔色まで変わっていたかもしれない。
「そんな……」
実際、彼女はただ兄の部屋に閉じ込められていただけだとぼくは思っていた。それだけしか、知らなかった。
「痛かったよ。とっても……。苦しくって、痛くって。逃げる気力なんて、なくなっちゃったよ」
さあっと、自分の血の気が引く音が聞こえる気がした。あの部屋で、そこまでひどいことが行われていただなんて。ぼくは想像したこともなかった。
「だから、佑樹くんが唯一の救いだった。私にひどいことをしないで、あの人を怖がってるきみが、たった一人の味方に思えた」
彼女の肩が、細いそれが震えている。
「あの人は、私の大事なものを、みんな奪っていったよ……。私は、汚れてるんだよ。汚されたんだよ……。きみの、お兄さんに」
ぼくは、何も言えない。兄は彼女に対し、限りなく残酷なことをしていたのだ。そしてぼくは何も知らずに、これまで彼女と接していたのだ。
「知らなかったんなら……仕方ないのかな……。私も、誰にも言わずに黙ってたんだから、当たり前だよね……」
保護されても隠していたのだろう。両親にさえも。自分が汚されたことを、小さな身体の中に、彼女はずっと閉じ込めてきたのだ。もしそれが公にされていたら、兄の罪は更に重くされたはずだ。
「こんな気持ち、佑樹くんには、わからないよね」
震える声。ぼくは、黙って頷くしかなかった。それを見て彼女は、正直だね、と笑う。
「やっぱり、きみだね」
彼女の笑顔が、どれほどの強さを持っているかを知った。強くならねばならなかった。そうやって、少しでも周囲の同情に応えるしかなかった。
「全部、終わったことなんだけどね……。もう、どうしようもないんだよね……でも、割り切れないよ、どうしたらいいの、わかんないよ!」
心の奥からの悲痛な叫びに、ぼくは奥歯を噛み締めて両手を握りこんだ。彼女の頬を、絶え間なく涙が流れていく。あまりに痛烈なそれに、胸が苦しくなる。
「だから私も、少しぐらい仕返ししてもいいって思って。じゃないと、この夢から逃げられないって! なのに、勝手に一人で逃げるなんて、あんまりだよ! 私はまだ痛いのに! 苦しいのに!」
そうだ、だから。
「……でも、きみが、残ってるんだ」
彼女は無理矢理笑っている。
「幸せになるなんて、許せないって思った。もしそうなら、壊してやるって。……だから、いつでも壊せるように、そばにいたんだよ」
ぼくは、ただ頷く。
「だけど、きみは優しくって……。本当に、好きになった。吊り橋効果だってきみは言ってたけど、間違ってないと思う。でも、それでもすごく……すごく好きになっちゃった。優しいから。優しくしてくれるから! だから、好きって言ってくれた時、本気で嬉しかった。毎日、幸せだった。手の温かさが、大好きだった……!」
同じだった。好きだと認めてから、彼女と居られるのが楽しかった。嬉しかった。確かにぼくは、幸せだった。
けれど。
「だけど」
包丁の切っ先が、ぼくの胸に向けられる。
「しないといけないんだ」
ごめんね。彼女は掠れた声で謝った。