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7話 兄の最期

 何度引っ越しをしたのか覚えてないけれど、その何回目かで、兄は自殺した。彼は、十八歳になっていた。

 その頃は、まだ辛うじて母が食事を用意してくれていた。ある寒い朝、皿を並べながら、まだ起きてこない兄を起こすようにぼくに言った。

 薄い木のドアをいくらノックしても返事はなく、鍵など端から存在しないから、ぼくはノブを握ってそっとドアを開けた。あれからぼくが兄に向ける感情は、尊敬よりも恐怖や苛立ちといった、汚いものだった。

「朝だよ……」

 ぼくの声は、冷え切った部屋の空気に溶けて消えていった。

 兄の両足は床についておらず、その身体は微かに揺れていた。

 とっくに死後硬直していた兄の身体は、検死の結果、発見時には既に死後数時間が経っていたものと判明した。夜が明けてからではなく、ぼくらが普段通りに眠っている間に、兄はこの世を去った。冷え切った肉体は一晩中、どこからか吹き込む風で僅かに揺れていたのだ。

 死んだ兄は僅かに瞼を開いていて、その奥の澱んだ瞳と目が合った時、十一歳のぼくは尻もちをつき、ショックのあまり吐いてしまった。空っぽの腹から胃液を垂らしていると、いつの間にか両親が後ろに立っていて、首を吊っている兄を呆然と眺めていた。

 兄の死を知った人は、誰も彼も他言しないと約束した。そのはずなのに、どこからか情報は漏れて広がり、世間的にはマイナスな結果だと捉えられた。「誘拐少年は更生していなかった」「罪に堪えられない若者の弱さ」そんな言葉が、嫌でも目に耳に入ってきた。外に出ると知らない大人たちに囲まれて、何か言えと言われ、顔をあげろと写真を撮られ、ぼくは怖くなり走って逃げた。それから学校を休んで部屋にこもっているうちに、次の場所へ引っ越すことになった。

 両親の精神が更に摩耗し、今のようになってしまったのは、それからだ。

 澱んだ目をした兄が、ぼくのことをずるいと責め立てる夢を見始めたのも、それからだ。

 罪を犯したのは、勝手に死んだのはそっちなのにと、ぼくが彼に反論することはかなわない。

 そして友人など誰一人いないまま、中学校の二年生に進級した時、真白自由がぼくの前に現れた。一生会うことはないと思っていた少女は、ぼくのことが好きだと唐突に言った。ぼくは返事ができないまま、なぜ彼女が自分に笑いかけるのか考え続け、「吊り橋効果」という言葉を知った。あまりに辛い幼少期の経験の中で、同い年のぼくが怯えながらもそばにいたことは、きっと彼女にとっての救いだったのだろう。ぼくは彼女に手助けなんてしなかったのに、彼女は当時生まれた感情を好意に変えてしまったのだ。そうしてぼくは、納得した。


 吊り橋効果でもなんでもいいと、ぼくは思うようになっていた。彼女がそれを気にしないのなら、ぼくだけが何度繰り返したって意味はない。きっと。

 そう、思いたい。ぼくは、勝手で現金で、ずるい。


 彼女は、受験は順調だと嬉しそうに言い、素直にぼくも喜んだ。尋ねると、大学でしたいことを語ってくれた。仲の良い友だちを作りたいと言った。小物を作るサークルに入りたいと言った。けれど、どこの大学を受けたのか聞いても、いつも「内緒」と言って教えてくれなかった。

「まだ、ちゃんとした結果は出てないでしょ。これで落ちてたら、私、顔向けできないよ」

「大丈夫だよ、あんなに勉強したんだし」

「佑樹くんは、甘い甘い。みんな勉強してるんだから」

「でも、顔向けできないことなんてないよ」

「そう? だったらね、あとね」

 どのような結果になっても、彼女が四月から新しい生活を送ることは決まっている。そこで少しでも、今語っている夢を叶えて欲しい

 相変わらずよく笑う彼女は、春の訪れを感じる三寒四温の空気さえ楽しんでいた。

「卒業式、もうすぐだねー」

 帰り道、柔らかな髪を弾ませ、スキップをしながら彼女はぼくを振り返る。

「自由は、卒業式で泣きそうだよね」

 ぼくが言うと、わざと舌を出す。

「絶対泣かない!」いたずらっぽく笑う。「佑樹くんに笑われるなら、泣かないよー」

 鈴を転がすような声と共に跳ねてみせる。その子どもらしい仕草に、ぼくは笑ってしまう。

 そんな日常がゆるゆると過ぎていく。当たり前が、どんどん当たり前でない日々に近づいていく。それをもったいないと感じていることに、ぼくは自分で驚いた。

「合格発表の日、直接教えたいんだ」

 彼女はある日、そう言った。指定された三月の上旬は、既に春休みに入っている。夕方まで友だちとの約束が入ってるから、ごめんねと済まなさそうに彼女は謝った。ぼくは、いいよと返す。夜の七時はその用事のためだけに待ち合わせるには、少し遅い時間かもしれないけど、そんなことぼくは全く構わなかった。

「ありがとう」

 別れ際にふわりと微笑み、彼女はいつものようにぼくの手を握り締めた。

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