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6話 彼女の手


 ずるいぜ、佑樹。


 その言葉で目が覚めた。もちろん部屋にはぼくしかいないし、頭の中だけの声だということも、ぼくは知っている。

 まだ暗い朝の四時であるのを確認し、布団を口元まで引き上げて、ぼくは再び瞼を閉じた。うっすらと父さんのいびきが聞こえる。最近は酒を飲んで帰ることが増えたのが、脱ぎ捨てられるスーツから漂う臭いで気が付いた。ちゃんと布団をかぶって寝ているのだろうか。

 しかし薄情にも、確認のために布団を出るのは寒すぎるので、そのままじっとしていた。もう熟睡できないことはわかっている。この声で目が覚めた後は、せいぜいまどろむことしかできない。布団に潜り込んだまま、ぼくは大きく息を吸って吐いた。

 身を切るような寒い日だ。学校の門を目指して登校する生徒が、寒さに背を丸めてのろのろと歩いている様子は、いつしかテレビで見たゾンビもののパニック映画を彷彿とさせた。

 それでも受験を控えている教室は賑やかで、クラスメイトは返却される模試の結果と睨めっこし、全国の高校生と自分を比較して一喜一憂している。それを見ているだけのぼくは当然浮いていて、雪のちらつく窓の外を眺めている内に居眠りをしてしまっていた。今朝は嫌な夢を見てしまった。ずるいぜ、佑樹。その言葉に言い返したいが、その相手はもういないのだ。



 雪がちらつく冷え切った空気の中でも、彼女は待ってくれていた。

「風邪ひくよ。先に帰っててもいいのに」

 思わずそう零すと、彼女は眉をひそめて不満げな顔をする。

「……ごめん、ありがとう」

 言い直すと、ほっこりとした温かな笑顔でぼくを見上げた。彼女の笑顔は温かい。人の心を包むような柔らかさを持っている。

「佑樹くん、今日、図書館行く?」

 マフラーに埋もれる口を動かして、彼女はぼくに問いかける。

「き……自由が行くなら、行くよ」

「どうしようかなあ。あんまり天気が悪くなったら、帰りの電車止まっちゃうかも」

「ああ、そうだね」

「今日は、帰ろうかな」

 更に夜にかけてこの冬一番の寒さになると、朝の電車に乗るときに電光掲示板が訴えていたのを思い出した。道行く人々は、背を丸めて足早に目的地へ向かっている。

 ぼくたちも、そのまま早めに駅へ向かうことにした。隣で彼女が自分の手に息を吐きかけるたびに、白い息が煙のように空気を染めていく。真っ赤な手を少しでも温めようと、小さな両手を擦り合わせ、ぎゅっと握っている。

「手袋は?」

 ぼんやり眺めていたぼくは、やっと気が付いた。彼女は照れ笑いをして、遅刻しそうで慌てていたら忘れたのだと言った。

「ぼくの、貸してあげるよ」

 薄い手のひらが、細い指がこれ以上冷えてしまうのは、いけないことである気がした。

「いいよ、忘れたのは私だもん」

「いいって」

 ぼくが手袋を外すのを見ると、彼女はふるふると首を横に振って拒否をする。だけど絶対に、ぼくより彼女の方が寒さを感じるはずだ。あんなに小さくて細い身体なのだから。それを知っているから、無視などできなかった。

「もう、駅着いちゃうよ」

「貸してあげる」

 いつもより足早だったせいか、いつの間にか、駅までの最後の横断歩道を渡り終えていた。

 屋根の下に入ると、彼女は髪に絡む雪を赤くなった手で払う。ぼくも自分の髪から雪を払うと、手袋を渡そうと、彼女の片手をとった。驚くほど、その手は冷たかった。

「どうしたの」

 不思議そうな彼女に「冷たい」とだけ返すと、おかしそうな笑い声が返る。

「佑樹くんの手、温かいよ。やっぱり男の子だね。私、冷え性だから余計に冷たくなっちゃうのかな」

「よく我慢できたね」

「慣れてるから。雪は好きだけど、手がかじかんじゃうのは、好きじゃないかな」

 笑顔のまま、冷たい手のひらを握ったり開いたりしている。ぼくは手袋をブレザーのポケットに突っ込んで、彼女の両手を自分の両手で両側から包んだ。冷たい手がはやく温まるように、それでも痛くない程度に、ぎゅっと力を入れた。

「手袋より、こっちの方が早く温まるよ。多分」

 彼女の手は小さい。ぼくの手でも包めるぐらい。

 他人事の雑踏に巻き込まれないよう、駅の片隅でぼくは彼女の手を温める。温かいと言ってくれたぼくの手で、せめてかじかむことのないように、冷たい両手を握る。

 少し温まってきた小さな手に安心し、さっきから何も言ってくれないことを不審に思い、俯けていた顔を上げた。彼女の大きく見開かれた目が、ぼくの視線とぶつかった。

「ごめん。力、入れすぎたかな」

「う、ううん」

 彼女は慌てて首を横に振る。マフラーに引っかかる髪が小さく揺れる。

 なにか変なことをしてしまったのだろうか。不思議に思うぼくを見上げて、彼女はいつものように笑おうとしているみたいだった。けれどその顔には困ったような何かが隠れていて、いつものように上手に笑えていなかった。

「……ありがとう」

 よく通る透き通った声が、雑踏など気にも留めずぼくに向けられる。

「あのね……」

 珍しく彼女の歯切れが悪く、ぼくは心配になる。彼女は目を伏せてしまい、ぼくは続く言葉を待つしかない。

「ううん、なんでもない。ありがとう」

 しかし再度こっちを見つめる彼女は、いつもの同じにこやかな笑顔で、ぼくは拍子抜けしてしまった。

「初めてだね。佑樹くんから、手、握ってくれたの」

 そのことを気にしていたのか。そういえばそうだねと、ぼくは返した。彼女の声は、普段よりも僅かに弱く元気がない。それでも愛らしい笑顔は変わらない。

「温かくなったよ。手袋より、ずっと」

 いくらか血色の良くなった手を胸元に当てて言うのに、安心したぼくは「よかった」と笑った。

「なんできみは、そんなに優しいんだろう」

 ぼくの手袋を受け取った彼女は、小さく呟いた。そしてすぐに、意味が分からないでいるぼくを置き去りにして、いつものように「またね」と笑って言った。つられてぼくも、「またね」と声を出した。

 そういえば、ぼくから彼女に触れたのは、初めてだった。きっとそれに戸惑ったのだろう。一人で思い返して、一人でなんだか恥ずかしくなる。だから彼女は、困ったような顔をしていたのだ。

 そう思うことにして一人で納得し、ようやくぼくも雑踏へ足を向けた。

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