4話 夏祭り
夏の終わり、秋の気配が待ち受ける頃。薄桃色の浴衣を着た彼女は、器用に髪を結った姿でぼくの隣にいた。
「浴衣着てきてって言ったのに」
そう言われるけど、浴衣なんてぼくは持っていないから仕方がない。
慣れない下駄をカラコロいわせながら、彼女はあっちこっちと人の隙間を縫って屋台を渡り、ぼくはそれについて行くのに必死だった。
数えきれない数の屋台が道の両側に並ぶ。その中の一つで売っていたかき氷を、随分久方ぶりに食べた。頭がキンキンするという彼女の分も食べてあげた。当てもなく歩きながら、一等が入っているのか怪しいくじ引きをした。
「兄ちゃんには、はずれかもなあ」
出店のおじさんが苦笑しながら、三等を当てたぼくに凝ったデザインの髪飾りを渡す。白を基調とした紐で編みこまれ、鈴がついているそれを受け取った。はずれのストラップを摘んでいる彼女は店主の言葉に笑った。
人混みを外れた道端で、景品を交換した。目を輝かせる彼女の髪に髪飾りをつけてあげると、彼女はありがとうと屈託のない笑顔を見せる。編み込みについている鈴がチリンとなるとともに、頬がほんのり赤く見えたのは、きっと近くのクレープ屋から溢れる光を受けたからだろう。
彼女の通う高校が近くにあるというだけあり、道は少年少女で溢れかえっていた。彼女はやはり、男女問わず多くの友人に声をかけられ、笑顔で手を振っていた。
「あとね、たこ焼きと、ヨーヨー釣りと、綿菓子やさんと……」
「そんなに食べるの」
今手元にあるフランクフルトで、今日の晩飯はいらないなと考えていたぼくは、思わず彼女の台詞を遮った。
「目標、全部のお店制覇!」
「無理だって……」
子どもっぽく背伸びをする彼女に、呆れた声を返してしまう。
「えー。せっかくのお祭りだもん。めいっぱい楽しまないと!」
同意を求めるように首を傾げる彼女に、ぼくは逆らえなくなる。それでも、せめて一人分にしようということで妥協してもらった。
タコの欠片が辛うじて入っているたこ焼きをひとパック買い、ふーふーいって冷ましながら三つずつ食べる。猫舌の彼女は真面目な顔をして、随分冷ましたたこ焼きを美味しそうに頬張っていた。
ヨーヨー釣りは彼女の方が上手だった。もらった水風船をパシャパシャと叩く彼女は、まるで小さな子どものようだ。はしゃぎすぎて指からそれが抜けてしまうと、一層楽しそうに笑った。夜が空を包むにつれて人は増えていき、歩きにくさが増す中、ぼくたちはようやく綿菓子を手に入れて半分ずつ千切って食べた。
全ての匂いが、喧騒が、味が、子どもの頃を思い出させる懐かしいものだった。横にいる彼女は人いきれのせいか、柔らかな頬をほんのり赤くし、「お腹いっぱいだね」と先ほどの自分の台詞を忘れてそんなことを言った。ぼくは思わず、笑ってしまった。その瞬間、いろいろなことを、ぼくも忘れていた。
「あっ、自由じゃん、みゆー!」
人混みの中から、彼女の名前を呼ぶ高い声が聞こえてくる。
振り返る彼女は、あっという間に同級生らしき女の子数人に囲まれていた。その中でも髪をひと房茶色に染めた少女が、彼女に抱きついて一際はしゃいでいる。
「里香も来てたんだ!」
「当たり前じゃん! 自由いーなー、浴衣」
「お母さんのお下がりだけどね」
「ぴったりじゃん。かわいいー」
「ほんとだ! めっちゃかわいい!」
「写真撮ろ! ほら、早く並んで!」
はしゃぐ女の子たちって凄いな。およそ自分には無縁なテンションで跳ね回る彼女たちを見ながら、ぼくは蚊帳の外で思った。輪の中で彼女はいつもの通り、にこにこしている。里香というらしい仲の良さそうな女の子が髪飾りをいじるのに、やめてよーと言いながらも笑っている。
「めっちゃ似合ってるよー、それ」
別の女の子が髪飾りを指さすと、彼女はつっ立ってその様子を眺めていたぼくの腕をぎゅっと両手でつかんで身を寄せた。
「貰ったんだ!」
ぼくは目を見開いて彼女を見た。この五年間で、彼女がここまでぼくとの距離を詰めたことはなかったから。
「もしかして、彼氏?」
「マジでー! 自由って彼氏いたの?」
好奇心いっぱいで身を乗り出す友人たちの視線を受け、彼女はぼくを見上げた。ぼくの腕を握る手に、少しだけ力がこもった。
ぼくは、頷いた。
えー、とか、聞いてないー、という声が聞こえる。
明日には詳しく話すことを約束させられ、彼女はようやくそこから解放された。友人グループは変わらずに大騒ぎをしながら人混みに紛れていく。
ぼくらはそれと反対方向に足を向けた。ついさっきまではしゃいでいた彼女は、黙って目を伏せている。それなのにぼくの腕を両手で握って離さないまま、無言で人混みを外れた道を指さした。
一歩歩くごとに、喧騒の中では聞こえなかった髪飾りの鈴の音が、チリンと鳴ってぼくらの鼓膜を震わせる。こうして歩いてやっとわかった。彼女の歩幅は、ぼくのよりだいぶ小さい。
ほどなくして校舎が見えてきた。三棟の校舎と体育館、プール、グラウンドが、出店から漏れる光に影を伸ばす。チリン、チリンと鈴を鳴らしながら、彼女は縋るようにぼくの腕を握り締めて、小さな歩幅で学校へ歩いていく。ぼくは誰かと歩幅を合わせるという初めてのことに戸惑いながら、出来る限り彼女と同じペースで歩く。
門をくぐった途端、腹に響く轟音が空気を震わせた。後ろで花火が上がりだした。歓声が聞こえる。それでもぼくらは振り返らず、グラウンドを突っ切った。校舎の入り口は浅い段になっていて、そこまで辿り着くと、彼女はようやく足を止めた。ここからでは一際高く上がった一部の花火しか見えず、ぼくら以外の影はなかった。
黙って、段に腰を掛けた。彼女はようやくぼくの腕から手を解き、目を伏せたまま、いつもの良く通る声で呟いた。
「ごめんね」
ぼくは、なんのことと聞き返していた。
「嘘、つかせちゃって」
彼女の声は罪悪感と後悔に満ちていて、いつもの明るい姿はそこにはなかった。少々強引にぼくを引っ張る普段の彼女とは違う、落ち込んだ声。
短い言葉はぼくの中に染み込み、悲痛に響いた。胸が苦しくなった。そして、もう彼女がぼくの腕を掴むことはないんだと気が付いた。
「みんなには、なんとか、上手く言っておくから……」
「いいよ」
それは自然と出た言葉だった。その言葉の意味を問うために上げられた彼女の目は、潤んでいる。ああ、ぼくは馬鹿だ。今になってようやく気が付いた。
この娘に、泣いてほしくない。
だから腰を上げて、彼女の正面に立った。いつもどこか余裕を滲ませてぼくをからかう彼女が、今にも泣きそうな顔をしている。
「いいよ」
心臓がうるさい。うるさい。うるさいのは、それだけじゃない。
「ぼくも、同じだから」
ぼくは本当に間が悪い。花火の大きなうるさい音と被り、自分でも自分の言葉が上手く聞き取れなかった。それは彼女にとっては当然で、濡れた目を見開いたまま、何も言わずにぼくを見つめている。
次の花火が上がる前。迷っている時間なんてない。思っていることを言うだけ。それだけでいい。
「好きなんだ」
今度は、彼女の驚いた声が花火にかき消えた。彼女の瞳から溢れる涙が線を引いて零れ落ちるのが、瞬く光の中ではっきりと見えた。
負けるな。花火の音なんかに。彼女は、この返事を、何年も待っていてくれたんだ。
「ぼくは、真白自由が、好きなんだ!」
大声で叫んだ。
その声は届いた。彼女の口が、かすかに動いた。ほんとう、と聞き返していた。
ぼくは緊張からしっかり握りしめた手を身体の横で固めたまま、深く頭を下げた。
「……あははっ」
唐突に聞こえた笑い声。チリンと鳴る、鈴の音。
頭を上げたぼくの目に、泣きながら笑う彼女の姿が映る。
「やっぱり、佑樹くんは佑樹くんだね」
ぼくは意味を聞き返したけれど、彼女は笑いながら首を横に振って教えてくれなかった。けれどそれを見ているうちに、なんだかぼくもおかしくなって、笑えて来た。
彼女の横に座り、花火を眺めながら二人で笑った。胸の苦しみが、凍っていた部分が、ゆっくりと溶けていくようだった。