3話 約束
彼女の弁当には、手作りの卵焼きやアスパラガスのベーコン巻き、野菜炒め等が詰まっていた。白米もただの白ではなく三色に染められている様子から、手間をかけて作ったものだと窺われた。対してぼくは腹を満たすことしか考えていないから、冷食の春巻きやほうれん草の和え物なんかを無造作に詰めただけで、白飯にはふりかけすらかかっていない。
「あっ、卵焼き!」
それでも共通点は見つかった。
「ね、食べっこしよ。どっちが美味しいか」
卵焼きはぼくが自分で焼いた。それを知った彼女は瞳をきらきらさせ、実に良い提案をしたとばかりに明るい声を上げる。
まずぼくが、彼女の弁当箱の卵焼きをつついた。
「……おいしい……けど、ちょっとしょっぱい」
真剣なまなざしで見つめる彼女の横で、ぼくはそんなことを口走ってしまった。
「あ、いや、美味しいよ、うん」
余計な一言を慌てて誤魔化す。彼女ががっかりするか文句をいうか想像がつかなかったけど、傷つけまいと、箸を持つ手を行儀悪く振った。
しかし彼女は落ち込むことも、口を尖らせることもなかった。
「あはは。佑樹くんらしいね」
そう言って、笑ったのだ。
呆気にとられるぼくの様子が余計におかしいのか、ぼくが首をひねるとお腹を抱えて笑う。
「そんな正直なのが、きみだよ」
まだ口の端をひくひくさせながら、楽しそうに彼女は言った。なんだか気恥ずかしくなり、ぼくは目を逸らしてしまう。
「じゃあ次は、私の番だね」
いただきますと手を合わせ、彼女はぼくの地味な弁当箱に箸をつけた。
「……美味しい!」
卵焼きをつまみ、もぐもぐと口を動かす彼女は、ころころと変わる表情を驚きに染めた。
「ふわっとしてて、ほんのり甘くって。この卵焼き、ほんとに佑樹くんが作ったの」
「……そうだけど」
「すごーい!」
彼女の言葉はお世辞ではなかったのか、ぼくの弁当にある卵焼きは全て食べられてしまった。
「お料理も、教えてもらおっかな」
笑う彼女は、周囲をも明るくする向日葵のよう。爽やかな風が揺らす髪が、それを縁取っている。
互いに弁当を食べ終え、屈託のない話をする。空腹が満たされたことと、睡眠を欲するからだと、心地よい夏の空気に、ぼくは僅かな眠気に揺られていた。無邪気に笑う彼女がすぐ隣に居ることが、それを助長していた。いつも張り詰めている何かが少しだけ緩みを見せるような、安堵に似た感情がぼくを支配していた。
「今度ね、私の学校の近くで、夏祭りがあるんだ。毎年、花火も上がるんだよ」
彼女が得意げな顔をする。
「屋台もいっぱい出てて。ね、一緒に行こう」
「いいけど……。ぼくより、学校の友だちといった方が、楽しいんじゃないの」
「卑屈なこと言わないでよ。高三の夏休みだよ。しかも来年どうなるかわかんないなら、彼氏と行ってみたいって思うのは、おかしくないでしょ」
針のような鋭い何かが、ちくりとぼくの胸を刺す。
「ぼくは……きみの彼氏じゃないよ」
「……」
「自由の彼氏じゃない」
「そっかあ。まだ駄目かあ」
僅かに目を伏せるその表情を見ると、胸が苦しくなる。だって、仕方ないんだ。ぼくなんかが、呑気に真白自由と付き合うだなんて、そんなこときっと許されない。
「佑樹くんにとって、私はどんな存在?」
「……友だち、かな……」
呟いて、ぼくは心中で自問した。彼女はぼくが有する人間関係で、一体どの位置にいるんだ。二度と会うべきではなかった彼女が隣にいるのは、どういうことなんだ。
「じゃあ、宿題!」楽しそうに笑って、彼女は人差し指を立てる。「夏祭りまでに、決めてきて!」
いたずらっぽい彼女の顔に、ぼくは焦る。
「いや、そういうんじゃ……」
「私も、もう待ちくたびれたもん。もう……五年くらい経つのかなあ。見込みがないのか、そうじゃないのかぐらい、教えて欲しいな」
責める口調ではなく、あくまでいたずらっ子のような口ぶりだ。にっこりと笑ってぼくの方に身を乗り出す。細く心もとない女の子の肩に、真っ直ぐな黒髪がさらりとかかっている。
心臓の鼓動が聞こえてしまうのではと思った。本当の気持ちを抑える理性など、いつ切れてもおかしくなかった。それを必死でのみ込んで、ぼくは頷くことしかできなかった。
兄の部屋に居たその子は目を真っ赤に泣き腫らし、呆然と立ちすくむぼくを、床にへたり込んだまま見上げていた。そして、自分の横で仁王立ちになっている兄と、その鋭い眼光に何も言えないぼくへ、交互に視線をやっていた。
「佑樹」
兄がぼくの名を呼んだ。だけどぼくは、目の前の光景に頭がいっぱいで返事ができなかった。
そんなぼくの胸ぐらを掴み、兄は低い声で、誰にも喋るなと言った。兄が暴力的なことをするのも見るのも、体感するのも初めてで、ぼくはただ恐怖にしたがって頷いた。
それから兄のいない時間は、ぼくが部屋で見張りとしてその子の相手をすることになった。彼女は言われた通り、大声をあげることなど決してせず、床で膝を抱えていた。ぼくも同じように横に並んで静かな時間を過ごした。
学校は、ぼくか兄のどちらかが家を出て登校するふりをし、共働きの両親が出かけた時間を見計らってこっそり家に帰った。食事は、兄が勉強中で席を外していることは多々あったので、ぼくがお盆に乗せたそれを運んだ。兄はまずそれを彼女に食べさせたけど、彼女はほとんど口にしなかった。椅子に座り、腕と足を組み、まるで動物を眺めるような視線でその様子を監視する兄の姿が、ぼくには怖くてたまらなかった。
ぼくが隣にいて、兄がいない時、彼女はぽつりぽつりと囁いた。それは家に帰りたいとか、助けてとか、そんな言葉ではなかった。彼女は、真白自由は、変わらない真っ黒な瞳でぼくのことを尋ねた。兄が怖いとも言った。ぼくがそれに同意すると驚いた顔をして、何度も頷いていた。
「なにか、ほしいもの、ある?」
彼女との沈黙の中で、ぼくは尋ねた。
沈黙は、重くなかった。友人と話していて、うっかり空気を読めない下手な言葉を口走った時の沈黙の方が、よほど重たく、冷たかった。
ぼくの隣には、彼女だけがいて。彼女の隣には、ぼくだけがいて。兄の部屋にふたりで籠っていると、世界にはそれだけしかないような錯覚を覚えた。
その錯覚の世界で、彼女は掠れた声で呟いた。
「……外が、わかるもの」
次の日、ぼくは道端に咲いている花、確かシロツメクサという花を見つけて、一輪だけ摘んで帰った。これだけなら、きっと兄も許してくれるだろう。気に入らなければ窓からでも投げ捨てるだろう。そう思ったのだ。
その晩も、兄の部屋に夕食を運んだ。シロツメクサを両手で握る少女と、椅子に座っている兄。しかし机にお盆を置いても、兄はぼくの方を向いていた。不思議に思っていると、唐突に立ち上がった兄に、左頬をこれでもかというほど殴られた。兄弟喧嘩もしたことのないぼくにとって、初めてのことだった。怯えた顔をした少女は、茎が折れてしまうほど、花を強く握りしめていた。
その頃には、流石に両親もあまりに食事時に出てこない兄に不審感を抱き始めていた。
それから彼女が発見されるのは、すぐだった。
兄の犯行は、二週間に満たなかった。逆にいえば、二週間近くも知らない少女が同じ屋根の下にいるのに、両親は気づかなかった。
玄関先で泣き崩れる母の横で、ぼくは黙ったまま、警察に保護される彼女の後姿を見ていた。ふと振り返った彼女と目が合った。俯く母のすすり泣きが、ぼくらの間に響いていた。