2話 変化
「ただいま」
アパートのドアを開けると、おかえり、と細い声が聞こえた気がした。
四畳半の自室にこもり、宿題を終わらせ、台所の流しの前に立つ。炊飯器のボタンを押して蓋を開けると、炊きあがったほかほかの白いご飯。今日の母は調子が良かったようだ。ぼくは鍋に入っていた冷たい肉じゃがを温めて皿によそった。ついでに味噌汁を作り、一昨日買っておいた冷凍エビフライをレンジで解凍していると、奥の部屋から母がやって来た。おかずをテーブルに置き、静かに食事をする。父はまだ帰ってこない。いつも日付が変わる頃に、疲れ切った表情をして帰ってくるのだ。その頃、ぼくは眠りにつく。
母は料理が好きで、特にお菓子作りが学生の頃からの趣味だったらしい。誕生日には手作りのケーキを焼き、板チョコに名前を書いてくれた。年々増えていくロウソクを吹き消すのが、ぼくは好きだった。時折焼いてくれるクッキーも遊びに来る友人たちに好評で、その話をすると母はとてもうれしそうだった。普段の料理も凝ったものが多く、どこの母親も料理が得意なのだと勝手に思い込んでいたほどだ。
夕食を終えると、よく父とゲームを下。負けず嫌いの父はなかなか勝たせてくれなかったけど、様々なルールやコツを教えてくれた。おかげでぼくは、将棋にチェス、花札にバックギャモンと、様々なゲームに詳しくなった。
クッキーを焼く母や、ゲームで遊ぶ父のそばにいるのは、常にぼくだった。そこに兄の姿を見た記憶は欠落しているのか、封じてしまったのか、そもそも存在していないのか。ぼくは覚えていない。
それも全て、ぼくが小学生までのことだ。
少年法で守られているとはいえ、いわゆる誘拐で兄が警察に連れていかれてから、かつての両親はいなくなってしまった。母がクッキーの材料を買うことはなくなり、遅くまで会社で仕事をするようになった父は、ぼくとゲームをして遊ぶ時間など持たなくなった。
当然の如く、罪を犯した少年の弟ということで、ぼくは学校に行っても話しかける相手がいなくなった。日が暮れるまで鬼ごっこをして遊んだ友だちは一人残らず、ぼくと遊ぶどころか近づくことすら禁じられた。何度席替えをしても、ぼくの席の前後左右には物理的な距離が奇妙に作られ、違うクラスや学年の知らない人が、わざわざ教室までぼくを眺めにやって来た。可愛がってくれた近所の人たちは、挨拶すらしてくれなくなった。
そして唐突に投げ込まれた石で家の窓ガラスが割られた頃から、目に見えて犯罪的な悪意が周囲に芽生え始めた。塀は心臓が縮むような落書きで埋め尽くされ、庭に猫の死骸が投げ入れられた時、ぼくは恐怖のあまり泣いてしまった。郵便受けは悪口を書き殴られた差出人不明の手紙で溢れかえり、チャイムが壊れるまで鳴らされている時分、ぼくはベッドの中で耳を塞いで蹲っていた。
追い出されるようにその家を出て、知らない街へ引っ越した。それでも噂は影のようについて来て、事実を辺りに触れ回る。そんな現象が幾度となく繰り返された。
たくさんのものが、滅茶苦茶になった。兄のせいだ。おかしくなる家族を前にして、ぼくは兄に抗議をすべきだったのかもしれない。だけどぼくには、それさえも出来なかった。
「どうしたの」
不思議そうな声に我に返る。肘に当たった筆箱が床に落ちて大きな音を立て、驚いて背筋を伸ばした。
「なんでもないよ」
隣に座る彼女に告げて、筆箱を拾い上げる。
「顔色悪いよ」
頭を上げると、彼女は心配そうな表情でぼくの顔を覗き込み囁いた。
「夕べ、ちょっと悪い夢見たから……寝不足かも」
「休憩しよう」
彼女の言葉でぼくらは立ち上がり、図書館の自習室を出た。勉強を教えてくれと初夏に彼女から頼まれ、それから時間のある放課後や土曜日は、一緒に市営図書館で勉強をすることになっていた。ぼくの成績はもともと芳しくない方だったけれど、友人を失ってからはただ勉強をするために学校に通うようになった。すると自然と成績は良くなった。けれどその結果に対して、誇らしさなどを抱いたことはなかった。
外に出ると、冷房の効きすぎた館内が嘘のように、強い日差しが照り付けた。蝉の声がうるさいほど響いている。
ぼくらは散歩がてら図書館のそばにある自然公園を歩き、日陰を求めて東屋のベンチに座った。彼女は鞄から水筒を取り出して水分補給をしている。ぼくもペットボトルを取り出し、温い水で喉を湿らせた。時折涼しい風が通り過ぎ、日陰に居れば夏の始まりを感じる余裕を持てるような気候だった。
「お腹空いたね」
横に座る彼女が、なぜか嬉しそうに笑いかける。ぼくの腕時計は、ちょうど昼の一時を示していた。
「そういえば、そう……」
「みてみて!」
ぼくの返事を待たず、彼女は子どものように楽しげに笑いながら、自分の鞄に両手を入れる。
「じゃーん!」
もったいぶった様子で出したのは、二段式の弁当箱だった。
「お昼、作ったんだ! えへへ」
太陽に負けない、眩しい笑顔。それをぼくに向けたまま、ベンチの前にあるテーブルにそれを置いた。
「自分で作ったんだ」
「そうだよー。保冷材も、ほら」
「準備がいいね」
弁当袋を見せてくれる。そこには、夏の暑さに食材が傷まないようにするための小さな保冷剤が、いくつか入っている。
「すごいでしょー」
「あー……。うん、すごい」
歯切れの悪いぼくの返事に、彼女は怪訝な顔をする。なんとなく居心地の悪い思いで、ぼくは自分の弁当を鞄から取り出した。彼女のものとよく似た、二段式の弁当。それをしげしげと眺め。彼女は不思議そうな声を蝉の合唱の合間に響かせる。
「佑樹くん、もしかして、自分で作ったの?」
「えっと、まあ……。いや、晩飯の残りもん詰めただけだけど」
「えー」彼女は口を尖らせた。「ご飯、つくれるの」
「ほとんど冷食だよ」
「でも、お弁当つくれるんだ」
なんとなくがっかりした様子の彼女に、少し悪いことをした気がする。けれど残り物を捨てるのはもったいないと思い、持ってきてしまったのだ。
あの日から母さんは、ご飯だけを炊くようになった。ぼくの家には、いつも母さんの炊いた白飯だけはある。けれど料理が得意だった人は、時折思い出したように何かを作っても、それが冷めて残ってしまえば躊躇わず捨ててしまうようになった。お世辞にも裕福だといえない家庭だとは知っているから、母さんがおかずを捨ててしまう前に、白飯と一緒に弁当箱に詰めたのだ。
「ねえ、佑樹くん。あのさ」
「なに」
「もし、私がお弁当持ってきてなかったら……」
彼女の真っ黒な瞳が、ぼくの目を見つめる。陽の光を浴びて輝く透き通ったそれで、じっとぼくを見上げて言葉を濁す。視線を合わせているのが辛く、ぼくは慌てて答えた。
「大丈夫だよ、一緒に食べようと思ってたし」
「ほんとに?」
「本当だって。ほら、ぼく小食だろ」
「確かに。男の子なのにね」
くすくすと笑うのに少しだけムッとしたけど、悪気のない笑顔を目にすると、その間所は単純に霧散してしまった。
「じゃあ、分けてくれるの?」
「そのつもりだったけど……。足りなかったら、コンビニでなにか足せばいいし」
「じゃあこれ、私のためでもあるんだ! やったー」
「そんな大げさな……」
それでも、そういって喜んでくれる相手がいるのは、素直に嬉しい。自分の単純さに呆れつつも、ぼくは彼女の無垢な笑顔に見とれてしまう。
「じゃあ、おかず、交換してこ」
「でもこれ、ほんとに冷食と残り物ばっかだけど」
「いいのいいの」
そう言って彼女は自分の弁当箱の蓋を開ける。ぼくも自分の弁当を開き、箸を手に取った。