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10話 なくしたもの

「馬鹿!」

 彼女はぼくにしがみついて、こぶしでぼくの胸を叩いて叫んだ。

「ばかばかばか! 佑樹くんのばか!」

 瞼を開くと、泣きながらぼくを叩く彼女と、渡したはずのナイフが地面に転がっているのが見えた。シャツに彼女の涙が染み込んでいく。熱いそれは、彼女の想いを静かに代弁していた。

「どうして、佑樹くんはそうなの……なんでそんなに優しいの! 私は、殺す気でいたんだよ! わからなかったの!」

「わかってるよ……」

 答えると、彼女は泣き腫らした目でぼくを見上げた。ぼくは彼女の涙を見たくない。だから、笑いかける。彼女が思い出させてくれた笑顔で。

「ぼくは、自由に、犯罪者になってほしくない」

 彼女に、自由に、その覚悟はあった。ぼくに好きだと言った中学生の頃、既に自分がひと一人の命を奪い、その罪を一人で背負う覚悟をしていたのだ。

 けれどもぼくは、犯罪者がその後どんな道をたどるのか。その家族がどんな仕打ちを受けるのか、身をもって知っている。だから、自由にそんな思いをさせたくないと、心から思える。

「だからって……こんなこと、こんなの……佑樹くんが……!」

「兄さんが自由を傷つけて、その後一人で逃げてしまった原因は、ぼくにもあるんだ。それに自由は十分に傷ついたんだから、こんなこと、しちゃだめだよ」

 彼女はぼくを刺して、殺すことも厭わない覚悟でぼくを呼び出した。その後、法に従って捕まる覚悟も、きちんと決めていた。それが彼女の、しなければならないことだった。

 だけどぼくは、彼女が捕まるのなんて、嫌だ。そうなるぐらいなら、ぼくが代わりに罪を負う方がいい。上手くいけば、包丁についている利き手の指紋から、ぼくが彼女を殺そうとし、彼女は護身用の小型ナイフで抵抗しただと取られるだろう。護身のために包丁を持っているとは考えにくい。この包丁はぼくが持ってきたものだと考えるはずだ。過剰防衛だと言われれば悔しいけど、運良く正当防衛が成り立てば、彼女はこれ以上何も失わずに、すべきことを成し遂げられる。動機なんてなんでもいい。兄の自殺は彼女のせいだと、頭のおかしなぼくが逆恨みしただとか。適当に彼女に作ってもらえばいいし、もしぼくに息があって言葉を口にできるなら、その場でぼくがでっち上げたっていいんだ。

 彼女はその全てを、ぼくがナイフを渡し、代わりに包丁の柄を握った時に理解してくれた。

 だけど今、ぼくの身体から血は流れていない。ナイフは役目を果たさないまま、地面に転がっている。

 そして彼女は、ぼくの胸にしがみついて、嗚咽を零している。

「ずるいよ……ずるいよお……!」

 そう、ぼくはずるい。

「こんなことされたら、私、なにもできないよ……」

 彼女の手が、ぼくのシャツを強く握る。何かがおかしい。ぼくの思っている「ずるい」と彼女の言う「ずるい」に齟齬がある。

「ぼくは、ずるいよ」

「違うよ……! そう言ってるのがずるいんだよ、優しいのが、優しくしてくれるのが、ずるいんだよ……! 佑樹くんは、優しすぎるんだよ!」

 彼女はそう言い、声をあげて泣く。冷たい身体が、ぼくに縋りつく。ぼくは彼女に泣いてほしくない。

 腕が回っていたのは、自然なことだった。彼女の身体が冷え切っていることに気が付き、ぼくは彼女を温めるために抱きしめる。

 そしてぼくは、また一つ、自分の気持ちに気が付いた。彼女を、復讐の塊にしたくない。自由に、復讐なんて恐ろしい言葉は似合わない。こんなに儚く、優しく、笑顔の美しい彼女が返り血を浴びている姿なんて。たとえ見られなくても、この世に存在してほしくない。

 そっと、濡れた頬に触れた。指ですくっても、あとからあとから涙は溢れてくる。

「泣かないで」

 笑っていてほしい。復讐に駆られて、自分の未来を壊してほしくない。

 彼女は小刻みに身体を震わせ、ぼくを見上げて言った。

「佑樹くんも」

 冷えた手が頬に触れる。ぼくがいつの間にか零していた涙をぬぐう。また、知らないうちに涙を流していたらしい。

 彼女といると、たくさんのことを思い出せる。笑い方も、泣き方も。忘れていた感情が溢れてくる。

「佑樹くん」

 彼女が、涙をいっぱいに湛えた瞳で、ぼくを見つめる。

「私、どうしたらいい」

 ひどく困っているみたいだけど、それはそこまで悩むことではないと思った。少なくとも、ぼくはすぐに答えを見つけられた。

「幸せになったらいいと思う。……今まで傷ついた分、たくさん、心から生きたらいいと思う」

 彼女は大きく何度も頷き、ぼくの背に腕を回すと抱き着いた。その間も、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。胸に顔をうずめて、しゃくりあげている。その彼女が、真白自由が、愛おしい。ぼくは、彼女が、大好きだ。

「佑樹くんは……」

 彼女は濡れた瞳で見上げた。チリン、と髪飾りの澄んだ音色。

「これから、どうするの」

 綺麗なガラス玉のような透き通った瞳が、ぼくを見つめる。ぼくは困ってしまい、すぐさま答えられない。

「……遠くに、行くよ」

 なんとか振り絞った。その行為のずるさに、今頃になって気が付く。これは、逃げだ。兄が逃げたことをあれほど憎んでいたのに、これはただ、自分の罪から目を逸らす逃亡だ。

「ぼくのことを、誰も知らない場所で、一人で生きようと思う。……もう、何も失くさないでいいように。傷つかないで済むように」

 彼女は黙ったまま、こくりと頷いた。きっと、何かを期待してくれていたなら、幻滅しただろう。逃げを繰り返すぼくに、呆れてしまっただろう。

 誰かに嫌われることには慣れているはずなのに、ぼくにはまだ、それを拒む心が残っていたらしい。くだらないプライドだろうか。少なくとも、彼女に知られたくないという感情があったのだ。

 だけど彼女は、そんなぼくに微笑んでくれた。

「私、佑樹くんが大好き」

 抱き着いている彼女の腕に、少し力がこもった。

「一緒にいたい。ずっと、一緒に生きたい」

 そんな願いを、教えてくれた。

「でも、ぼくは……兄さんの、弟だよ」

 彼女は、ぼくの胸に額を押し当て、ゆっくりと頷く。

「それに、こんなの本当は……許されるはずないのに。ぼくは、兄さんの犯罪の共犯者なんだ。自由を逃がそうと思えばいくらでもできたし、その時間もあったんだ。だけどぼくはそれもせずに、何もしないで、後になっても知ろうとさえしなかった。ただ強いものに従って、黙って、今になって兄さんみたいに逃げるんだ。本当は、兄さんよりぼくのほうが、ずっと……」

 ずるい人間だ。そう続けようとするのを、彼女の小さな声が押しとどめた。

「佑樹くんも、辛かったんだね」

 その一言で、喉元まで出かけていた声が、すっと姿を消した。

「私はあの時、佑樹くんがいてくれるだけでよかった。どれだけきみが怯えていたかも覚えてるし、私の頼みを聞いて、殴られてるのも、見たよ」

「でもあれは、自由には関係ない……」

「ううん。怖かったけど、嬉しかった。だから、耐えられた。隣にいてくれたから、私はあの時、私でいられた」

 彼女は、ぼくを許そうとしてくれている。共犯者のくせに、のこのこと生きてきたぼくを。

「だけど……それでも助けるべきだったんだ。ぼくはまだ罰を受けていない。だから兄さんは、ぼくを責めるんだよ。ずるいぞ、佑樹って、今も」

「それは本当に、きみのお兄さんなの」

 彼女の言葉に、ぼくは唖然としてしまった。あの目は、あの声は、確かに兄のものだと思っていた。

「きみも、たくさん失ってきたでしょう。だから、罰なんていらないよ。もう自分を責める必要なんて、ないんだよ」

 彼女の言葉で、ようやく自分がいつも見る夢へまともに向き合うことができた。あれはずっと、目を逸らし続けたぼくを責める兄の恨みごとだと思っていた。

「きみは本当に、優しいから……」

 彼女はぼくの胸に埋めていた顔をあげて、笑った。いつもと変わらない。あどけない笑顔で。

「お願い」

 彼女が言う。その声は涙で濡れている。

「一人でなんて、悲しいこと、言わないで」

 瞳から、再びぽろぽろと涙が溢れる。

「もう十分、失くしたよ。だから佑樹くん、一人でなんて言わないでよ。寂しすぎるよ。悲しすぎるよ……!」

 彼女の小さな体が震える。ぼくは、彼女の背に回していた手で、その髪に触れる。さらさらと指が滑っていく。

「選べるのなら、私は、本当は……佑樹くんと、また一緒にいたい。一緒に、幸せになりたい」

 そんな台詞、ぼくは一生聞くことなど出来ないと思っていた。そんな資格があるわけないと目を瞑っていた。

 彼女は凄い。本当にたくさんのものを、ぼくに与えてくれる。

 ありがとう。ぼくは声に出して頷いた。胸が苦しくなるのは、辛く悲しいものを感じた時だけだと思っていた。だけど今の苦しさは、それとは全く異なる。触れられないと思っていた優しさを抱きしめられている幸せが、ぼくの心を握りしめていた。

「一緒に、取り戻そう」

 自然と出た言葉に、彼女は、自由は、大きく頷いた。チリンと、髪飾りの鈴が透き通った音を鳴らした。

 ぼくたちには、辛いことが多すぎた。普通の生活にあこがれたまま、たくさんの時間を失ってきた。みんなが笑っている時間、冷めた心でそれを見据え、また疲れた心で笑顔を作っていた。悪夢にうなされ、眠れない夜を過ごした。本心を隠し、誰かの声に怯えて生きてきた。儚い蛍の光のように、見失いそうな自分自身を、崩れそうな足取りで懸命に追いかけて過ごしてきた。

 だけど全ては、これから取り戻せばいい。きっとできる。ひとりなら諦めてしまいそうな道でも、ふたりなら、きっと。

 春を告げる空気が彼女の髪飾りに触れ、透明な音がぼくらを包み込む。柔らかな風の中、ぼくらは泣き顔を見合わせて、言葉もなく笑い合った。

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