1話 ぼくと彼女
桜の花びらが舞う中で、彼女が笑う。開く蕾から輝きが零れ落ちるような、そう形容できる眩しく可憐な笑顔。いつも通り校門の前で、ぼくの姿を見つけて笑う。
「帰ろう、佑樹くん」
そして毎日同じ台詞を口にする。俯きかげんで返事もしないぼくの腕を取り、今日学校で会ったことを嬉しそうに話す。
彼女、真白自由がこうして迎えに来るようになって、もう何年だろう。初めて会った時に肩まで伸ばしていた黒髪は、今は肩を少し越えるセミロングで、歩く度に柔らかく揺れている。隣にある、いつもの光景。
だけど、そう、これは間違っている。
クラスメイトかは覚えていない、近くを通りかかる同学年の誰か。彼らは忌々しそうにこっちを見て、あからさまに嫌味な笑いを投げかける。いつもの光景。しかし彼女は、そんなものは見えていない様子で、ぼくの袖を引く。
爽やかな春の風が、高校生活最後の年だと告げていく。
もう、こんなこと、終わりにしなければ。何年、そう思い続けただろう。ぼくは軽く息を吸った。
「もう、やめようよ」
歩きながら、まっすぐに彼女を見つめているのに。頭一つ分背の低い彼女は、この台詞の続きを知っているくせに、首を傾げる。「なにを?」と口ずさむ。
「こんなの、おかしいんだよ」
これまで幾度も重ねたぼくの訴えは、何年経っても彼女に届かない。けれどぼくは、この関係を正しいものだとは、いつになっても認められない。
「おかしいことなんか、なんにもないよ」
それなのに、くすくすと彼女は笑う。彼女にとってぼくのいつもの台詞は、おかしい冗談なのだ。
「だって、私は佑樹くんが好きだもん」
「その好きは、好きじゃないんだよ」
「意味わかんないよ」
もう数えきれないほど口にした言葉を、ぼくは繰り返す。
「吊り橋効果」
彼女はきょとんと目を開く。だけどそれはほんの短い時間で、すぐに明るい笑い声を喉から零す。
「なーにそれ。関係ないよ、もう」
あはは、と桜の花びらが舞うような温かい笑い声。制服の袖を掴む指に、力が入る。
「変なこと言ってないで、行こ!」
駅までの道のりを、ぼくと彼女は一緒に歩く。ぼくは毎度人知れずため息をつき、二人だけの世界を、一人で歩く。そう、ぼくと彼女が結ばれることなんて、決してあってはならないのだ。
五年前、中学生の時に告白をされた。信じられなかった。真白自由が再度ぼくの目の前に現れたことも、あまりに予想外の出来事だった。
彼女は電車を乗り継いでやって来ると、ぼくに好きだと言った。ぼくは、何も言えなかった。
ぼくと彼女が初めてであったのは、まだ互いに小学校低学年の頃。長く美しい黒髪を背に垂らした彼女の泣き顔を、ぼくは一生、忘れることはないだろう。
彼女は、ぼくの兄の部屋で、泣いていた。
ぼくの兄は、彼女を誘拐し、自室に軟禁していた。何も知らなかったぼくは、見知らぬ女の子が七つ年上の兄の部屋にいたことに、数日間気が付かなかった。
小学二年生のぼくにとって、年の離れた兄は尊敬すべき存在で、両親はいつも兄を褒めていた。いつも外で日暮れまで遊びまわっているぼくと違い、兄は頭が良かった。ぼくの記憶の中にある兄の姿のほとんどは、机に向かって何かを書いているか、本を読んでいるものだ。ぼくは頭のいい兄を尊敬していたし、両親にはいつも、お兄ちゃんのようにちゃんと勉強をしなさいと叱られていた。
しかしあの時の空気は、尊敬よりもぼくに畏怖を覚えさせた。彼があれほど鋭い眼光を持っているのだとは、知らなかった。偶然隙間の空いていた兄の部屋を覗き込み、女の子のすすり泣きが現実のものと知り、その横に立っている兄を見上げた時、ぼくは何でも言うことを聞くと頷いていた。両親には告げ口しないと誓った。今考えれば、賢い彼がうっかり部屋の戸を開けているはずがない。あれはぼくに気づかせるためだったのだと思い返したのは、随分後になってからだ。
ぼくと同じ年の少女、真白自由。彼女は片手片足をひもで結ばれ、それをベッドに繋いで逃げられないようにされたまま、泣き伏していた。
「佑樹くんは、進学するんでしょ」
ぼくは真っ直ぐ帰りたかったけれど、寄り道したいと言った彼女に、強引に駅中のドーナツ屋に押し込まれていた。
「まあ、できればしたいけどさ」
「できればって、どういうこと」
明るい彼女は可愛らしい。鈴の音を転がすような笑い声とは、こういうものかと思う。
「まあ、いろいろ……」
「いろいろかあ」
一日ぶりにまともに出したぼくの声は少しかすれていたけど、彼女に気にする様子はなかった。
「そっちは、どうなの」
「……」
「……自由は、どうするの」
「私? 私はね」
名前で呼ばないと返事をしないと言った通り、わざと逸らした視線をたちまちぼくの方に向けて話し出す。このルールは知っているのに、ぼくはいつまでたっても彼女を名前で呼ぶことに慣れない。
「どうしよっかなあ」
首を傾げて、女の子らしい繊細な指先でストローをつまみ、イチゴミルクを美味しそうに飲む。彼女の細い喉がこくこくと動いている。
来年の今頃、ぼくたちはどこにいるんだろう。少なくとも、この関係に終止符は打たれていなければならない。ぼくは自分自身に改めて言い聞かせる。
「佑樹くんが進学するなら、する」
「そんな決め方、おかしいよ」
「あははっ」
よく通る可愛らしい笑い声。夕方の喧騒の中で、それは一際映える。
「迷ってるなら、ぼくが自由の進学先決めるよ」
「え、アドバイスくれるの?」
瞳を輝かせ、顔を覗き込んでくる彼女の煌めき。ぼくには鬱陶しくて、眩しくて。直視するが苦しい。
「長良大」
「えー。あそこ偏差値高いよー。それに女子大じゃん!」
「頑張れば行けるよ」
「そーゆーことじゃない! 絶対佑樹くんと通えないじゃんかー」
そして表情がころころと変わる。今はぷくっと頬を膨らませ、唇を尖らせている。
「あっ、そうだ! いいこと考えた!」
たちまち晴れやかな表情で、ぱちんと手を打つ。
「佑樹くんが女装すればいいんだ!」
「なんでそうなるんだよ!」
「えー。いい考えでしょ」
思わず身を乗り出すぼくを見て、今度は楽しそうに微笑んでいる。化粧っけなどまるでないし髪も染めていないのに、その表情はこの店にいる誰よりも愛くるしい。そう、彼女は友人もたくさんいる、魅力的な可愛い女の子なのだ。
「あ、ちょっと待ってよ!」
立ち上がってぼくにつられて腰を上げ、文句を言いながらついてくる。店を出てすぐそこに、別れる地点である駅の改札が控えている。
そうだ。彼女は、ぼくと一緒にいるべきではない。
ぼくは何度言い聞かせたかわからない言葉を、再度頭の中で自分に繰り返した。
「じゃあね、佑樹くん」
彼女は別れ際、ぼくの右手をいつものように両手で一度握りしめた。小さくて柔らかくて、ぼくのより少し低い体温が伝わってくる。そうしてぼくの心臓が高鳴ると同時に、彼女は手を離し、「またね」と改札を抜けていった。
彼女の姿が完全に視界から消えてから、ぼくはまだ柔らかな感触の残っている右手を見つめた。彼女は被害者。加害者は、ぼくの兄。彼女の好意は、きっとあの時生まれた歪んだ愛情。ぼくらの恐怖の中で芽生えた、いわゆる吊り橋効果。そうでないといけない。彼女は、ぼくなどよりずっと優れた人間といるのが一番いい。
早くそれに気づいてくれないかな。ぼくは、大きく息を吸って吐いた。帰ってするべきことを意識的に思い出し、頭に思い浮かぶ彼女の笑顔を懸命に消す。それでも一度高鳴った心臓が落ち着くには、少しの時間が必要だった。
早く気付いてくれないと、ぼくも好きになってしまう。こんなこと、あってはならないのに。好きだと認めれば、彼女の歪な愛情を諭すことができなくなる。そして一度兄がつけてしまった深い傷を、きっといつか、ぼくが更に深いものにしてしまう気がする。