草枕
都心を走る電車から、奥へ奥へと進んでいく電車へと乗り換える。あれだけ激しくうねっていた人波も、今ではすっかり穏やかになっていた。空席だらけの車両を見回して、彼は隅っこの席に座る。すると、扉が閉まってゆっくりと動き出した。ガタンとレールを踏むたびに、彼の心に不安が芽生える。そしてゴトンと音が鳴ると、すぐに不安は消える。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
どこへ向かうのかも分からない電車に揺られながら、彼はふと、足元に置いたボストンバッグを見た。大きさに対して、中身があまり詰まっていない。しかし、それは当然のことだった。朝起きて、思い付きで家を出てきたのだ。財布、衣服類、そして一枚の写真。彼の所有物はたったのそれだけである。携帯電話はもちろん、置いてきた。電波のしがらみに囚われたくはなかったのだ。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
行先不明の電車は、出発してから初めての停車を試みている。彼は窓の外へと視線を外し、これから向かう先について想像してみる。もしかしたら山奥か、それとも廃れた田舎なのか。いずれにせよ、身を隠しにはちょうど良いと彼は思った。
「まもなく、×××駅です。×××駅です。お忘れ物にご注意ください」
アナウンスが流れる。機械的な女の声だ。まったく感情が分からないのに、どこか嬉し気に聞こえる不思議な音。そんなことを考えていると、電車は止まる。扉が開いた。乗ってくる人は誰もいない。すぐに、扉は閉まる。彼は試しに、隣の車両を覗いてみるが、乗客はパラパラとしかいない。朝の九時に、この静けさ。それが何だか面白くて、彼はクスッと笑ってみた。すると電車が動き出して、またしても彼をどこか遠くへ連れていく。絶えず踏まれるレールは、鈍い悲鳴をあげている。けれど、それに気づく者は誰もいない。彼もやはり、気づかない。
「次は、○○○駅です。○○○駅です。本日も△△△鉄道をご利用いただき、ありがとうございます」
アナウンスを聞きながら、彼は目を閉じる。どうせ、すぐには着かないから。だからひと眠りをしよう。真っ黒な視界に、チカチカとした光が射しこむ。瞼の向こうでは、今日も太陽が輝いているのだ。やがて、瞳は光を拒絶し、彼を深い眠りへと誘うのであった。
微睡みの意識のなか、彼は自分の身体に触れられていることに気がついた。トントンと、優しく肩を叩かれている。
「お客さん、終点です」
目を開けてみれば、そこには愛想笑いにさらに愛想を加えた男が立っていた。彼は静かに頷くと、腰を持ち上げる。そのまま降車しようと歩き出すと。
「お客さん、忘れ物ですよ」
車掌は、彼のボストンバッグを指さしている。
「ああ、どうもすみません」
「いえ、いえ。それにしても……」
と、車掌は笑顔のまま彼のことを見つめて言う。
「こんな辺鄙な場所に、どんな御用なんでしょうか」
表情の裏に垣間見える、疑い。彼はそれをすぐに察知した。
「大した用事ではありません。ただ、綺麗な空気を吸いたくて」
「はあ、そうですか。なにぶんここは、自殺の名所でして。私たちとしても、少し心配なのですよ。特に、あなたのようなお若い人を見かけた時は」
「それなら、心配はいりません。だって、自殺する人が、こんな大きなバッグを持っているはずがないですから。どうせなら、手ぶらで来ますよ」
「それもそうですね。いや、すみません」
頬を掻きながら、車掌は立ち去って行く。とんだ勘違いをされたものだと、彼は苦笑しながら電車を降りる。
見知らぬ土地に降り立つと、彼の目に飛び込んできたのは長いホームだった。海岸線のように果てしなく続いているようにすら、思える。人が歩いていないせいで、長く感じるのかもしれない。自動販売機だってないし、何より静か過ぎる。
とりあえず彼は歩きだした。自分の足音が、やけに大きく聞こえる。ありとあらゆる生き物が息を潜めている。もっと、自然を間近に感じられると思っただけに、少し拍子抜けしてしまった。彼は歩みを進めながら、何ともなしに地面を見つめる。真っ白だ。いや、本当は灰色をしているのだが、どういうわけか白に思えたのだ。まるで天国へ続く階段のように、どこまでも白い。まさか、と彼は考える。自分は死ぬことを望んでいるのだろうか。このまま、この道を突き進めば死が出迎えるような気がしてならない。
「自殺の名所、か」
なるほど確かにと、彼は妙な納得をする。この場所は、何一つないこの場所は、全てを終わらせるにはちょうどいい。山もなければ、田んぼもない。風も、匂いも、生き物も、ひっそりとどこかに隠れている。だから、たとえ死んだとしても、静寂に抱かれて誰も気づかない。だとしたらやはり、死に場所には適している。思えば思うほど、彼は自らの死を望んでいるような気がしてならなかった。
生きるか、死ぬか。それを考えているうちに、彼の足は止まっていた。電車がゆっくりと動きだす。ガタン、ゴトンというリズムに乗って走りだした。ホームに残るは彼一人。これで本当に、彼は孤独になった。無性にそれがさみしくて、同時に電車ですら愛おしく思えてきた。佇んだまま、彼は顔を顰める。何をしているのだろうと、後悔する。本来なら、今頃、授業を受けているだろう。退屈な授業にあくびをこぼして、ペンをクルクルと回しているのだろう。けれど今は、そうじゃない。静かなる世界で、見えない何かと闘っているのだ。
いやいや――と被りを振って、彼は一歩前に踏み出した。このまま立ち止まっていては、地面と足裏がくっついて、そのまま溶けてしまいそうである。
一歩、また一歩と歩いていくうちに、彼の心には平穏が訪れる。なんてことはない。歩いてみれば、嫌な想いも薄れていくのだ。歩むことで目的が生まれ、進むことで道ができる。それに気がついた時には、彼は改札口を抜けていた。
彼は、後ろに振り返る――。
都会暮らしが嫌になって、ふっと消えた。そうしてたどり着いた場所には、なにもなかった。けれど、振り返ればそこには確かに世界があった。青空が冴えわたり、雲は流れて時は進む。人知れず吹いた風は、ほのかに甘い香りがして。微笑んでみれば、雲間から光が射す。
世界は、明るい。
闇を知っている者ほど、世界が輝いてみえることがある。
世界は、優しい。
憎み、憎まれた者だからこそ優しさが染み渡るのだ。
「………」
彼は前に向き直ると、何かに誘われるようにして歩きだすのであった。