第四話
七月も終わりに近づいたある日の事だった。
スグルがフィーと出会ってから、2週間が過ぎていた。
フィーとの出会いは、スグルにとって明らかに悪い影響を与えていた。
あの日ーーフィーと出会った日以来、スグルはますますふさぎ込むようになり、自分の殻に閉じこもり、学校にもいかなくなった。
どちらにせよ時間の問題だった。学校に行ったところで、友人もいない。退屈な授業も大方は理解できる。行く意味が理解出来なかった。自分の未来なんてどうなってもよかった。
学校に行かなくなって数日は担任から連絡が来たが、いつの日かそれも無くなった。
学校は夏休みにはいったのだろうが、もう学校には通う気もなくなったスグルの生活が変わることはない。
今日もスグルは聖域ーー廃虚のホテルでじっとしていた。毎日フィーがアイロンがけをしてくれて糊が効いた皺ひとつないシャツが、更なる虚しさを掻き立てる。
「すう……すう……」
隣で寝息を立てるhIEの姿を、スグルは眺めていた。
一人の機械じみた少年と、一体の人間じみた機械。フィーは、まだここにいる。どこに行ってもつきまとってきて鬱陶しかったが、これは人形なんだと思い込んで、無視をし続けていた。
フィーは、多くの生体hIEがそうであるように、水を飲み、飯を食べ、睡眠をとった。
生体hIEは、水を飲まなければ、体液が不足して脱水症状になるし、口から食物を食べないと栄養失調になってしまう。
脳が無い事以外は、殆どヒトの身体の構造と同じ作りをしているといってもいい。
hIEは他律型だ。行動クラウドからの指示系統は、すべて頭部に設置してあるwi-fiから疑似的なニューロンを通じて肉体のいたるところーー眼鼻口から生殖器、足の指の先までつながっている。肉体の構造はヒトと同じように複雑でも、行動を司る部位は非常にシンプルだ。
「……スグル……むにゃ……」
不意にスグルの名前が呼ばれる。心臓の鼓動が高鳴る。寝ている間は、アナログハックされないと、心が囚われないと、そう思っていたのに。
「……このまま、時間が止まってしまえばいいのに」
時間が止まって、そして自分も、そのまま動かなくなって、ただこの機械を永遠に見つめていたかった。
少女はいつまで経っても目覚めないし、自分は石のように動かない。
そうすればこの少女に妙な気を起こさなくていい。自分は何も考えなくていい。
完璧だった。
だがーーこんな毎日が一生続くわけがない。
世界に一人と一体しかいなければ、それも可能だったかもしれない。しかし聖域の外側ーー社会という場所は、繋がりを求めるヒトであふれかえっている。
だから聖域はいつか、侵略される。悪意の有無は関係なく。
光が漏れて、光が苦手な土壌動物のようにスグルは手で目を遮った。
エントランスからの陽光だった。その光で、立ち入ってきたヒトの影が化け物のように大きく写る。
「やーーあぁ! スグル!」
妙にねっとりした声がエントランスに響く。ふにゃふにゃと、まるで軟体動物のようにだらしなくこちらへ歩いてくる。
叔父の栄一だった。思わずソファから身を起こしたスグルは、その男に対して身構えた。
「……なにをしに、来たんですか」
いかにもガラの悪そうなアロハシャツとステテコパンツを身に包んでいる叔父は、スグルの質問に対して何も答えようとはしない。
もういちど、はっきりと質問を繰り返す。
「……なんで、ここを知っているんですか」
冷静に言ったつもりだったが、スグルの声はいつもよりも昂ぶっていた。叔父は目を見開いて「やれやれ」と肩をすくめた
「だってそりゃあ、そこの娘はhIEなんだよオ……クラウドに誤情報を送信しているケド、場所に関してフィーが稼働している限り筒抜けに決まっているじゃないかア」
コンピューターと同じように、hIEがクラウドに接続されている限り、その位置情報は絶えず更新されている。
「それより、そのおもちゃの具合はどうかなア?」
『具合』という言葉遣いにスグルは悪意を感じとった。質問には答えない。
「……帰ってください」
ここは、お前が足を踏み入れていい場所じゃない……口にこそ出さなかったが、心の中でスグルはそうつぶやいた。
この場所に立ち入ることは、体液の中に悪性のウイルスが入り込まれるのと同じようなものだ。たとえ、血縁である叔父でも。
聖域に触れていいのは、かつてこの場所を見つけ出した少女と、その少女のカタチをした機械だけだった。
「ふーん。そこのhIEはここにいて構わないのに……ねエ。だーーい好きなぁお姉ちゃんの身代わりhIEだからなのかなア?」
「ちっ……違います。僕は、こんな機械に心を惑わされたりしない」
昂ぶって精一杯口からはき出した言葉は何の説得力もなかった。『こんな機械』と自分で言ってしまった事が、スグル自身の心を抉った。
隣からもぞもぞと、服とソファが擦れる音がした。
「……ん……ごめんなさい。寝ちゃった」
寝ぼけ眼をしたhIEが、こちらの緊張感をよそに、「ふあ……」大きく伸びをした。寝ぐせで少し乱れた長い髪が、ぱさり、とソファから地面へと垂れる。
フィーはこの状況に対しても、特に気にしない素振りで、自然体だった。
ーー違和感を感じた。同じような事が外国人街の路地でもあった。フィーは栄一がデザイナーであるはずなのに、栄一をまるで無視するかのように振る舞ったのだ。
どんな理由があるかはわからないが、フィーは栄一をそもそも生体として認識していないかのような素振りだった。
このhIEが何故作られたのか、改めてスグルは疑問に思った。しかし、単刀直入に聞いただけでは答えてくれないであろうことも、外国人街に行ったときの様子から理解していた。
「……どうしたのかな?」
フィーは、柔和な表情で、こちらを様子をうかがっている。
こういう時に、この人形は意見を持っていないはずなのにーーなのになんで、こんな表情で僕を見るのだろうーー
乱れた髪を解きほぐしながら、首を傾げる姿に、叔父がにたぁ……と、下品に笑う。
「んーー! 言葉では素直じゃないけど、なかなか大事にしているみたいじゃないか! ボクぁ嬉しいよオ!」
考えろ。考えろーースグルは、叔父の目的を必死に考える。
始めからフィーの事をセクサロイドにする気だったのなら、わざわざ自分に預ける理由もない。だからといって、この叔父が、スグルのためだけにこんな精巧な生体hIEを作るだろうか。
何かをたくらんでいるーー栄一の今までの悪行を考えると、やはりそうとしか考えられなくなる。
「こちらの腹を探っているつもりなのかなア……流石、成績優秀者だねエ……」
にやにや、ケタケタ。下品な笑い方だけで何種類あるんだろうか。叔父はべたつくような表情にスグルはいらだつ。
「デモ、君のそういうところも僕は好きさア……」
やはり叔父とは殆ど会話が成り立たない。だからといって、相手のペースに飲み込まれてはいけないと、スグルは感じた。
慎重に言葉を放つ。
「僕は、叔父さんに養われている身です」
スグルは自分の立ち位置をまずはっきりさせたかった。
「貴方以外の家族は、みんな、ぼくの元を去りました」
事実だけを淡々と話す。
ーー僕は恐ろしく複雑な構造をした機械だ。だから、心なんてものははじめからなかった。
ーーそう、自分に言い聞かせる。言葉に感情が乗ってしまわないように。
「でも、僕が家族を思い出すときの思い出は凄く曖昧です。父さんも母さんもーーそして姉さんのことも」
ちら、とhIEのほうを見る。フィーはこちらの表情を感知して、先ほどの穏やかな表情は身をひそめている。どこか不安げな様子に見える。
この姿形と全く同じヒトが、二年前には確かに生きていたはずだ。
それなのに現実感がまったく無いのは、記憶が曖昧なのは何故なのか。スグルはその理由が知りたいと思った。
そして、それをこの叔父はきっと知っているーーそう感じていた。
「僕の記憶が曖昧なのと、このhIEを僕に預けたのには、なにか関係があるんじゃないですか」
「ほほう……君は、まだなアーーんにも気づいていない。そういうことだねエ?」
気づいていない? 何に対して? スグルは叔父の質問の意味がわからない。
動揺して顔に出ないようにしていたが、既にスグルの表情は酷く歪んで、冷静さに欠いている。額から大量の汗がこぼれ落ちる。
叔父は笑い声がエントランスの高い天井まで響く。それが、この場所を更なる異様な空間へと変容している。
会話の主導権は既に逆転し、叔父のもとにあった。
「この間も言ったじゃないかア! 君は僕の同類だと」」
どれだけの業を重ねればこんな顔になるのだろうかーー卑しさと浅ましさと傲慢さが入り混じった猥雑な表情を浮かべた叔父が、手を仰ぎながら言った。
「これは、救いだよ」
これはすくいだよーースグルは心の中で、叔父の言葉を繰り返す。
「僕は君に救いの手を差し伸べているんだ。それも、とびっきりの絢爛な、偽物の救いさア!」
意味がわからなかった。自分のことの救う? 何かの間違いだと、スグルは思った。
「僕に……何をさせる気なんですか……?」
「僕はなアーーーーんにも、しやしないよオ! この間言ったじゃないか。君は僕の同類で、家族なんだア!」
「悩みがあるなら、一緒に解決策を探すのが家族の務めさア!」
「僕は、叔父さんを家族だとっ……えっ……?」
ぷしゅ、と何かを刺されたような音が、スグルの耳元にかけている感覚強化機器から聞こえた。
「君の本質を、思い出させてあげよう」叔父は、いつのまにそこにいたのか、隣で気配を消していた自身のhIEに、何かを伝えていた。
スグルの膝が、両腕が、痙攣し始める。
「ーー君が感覚強化機器だと思っているものが、何のためのものだったのかアアーー!!! 君の偏頭痛が何故引き起こされていたのかアアーー!!!」
そんなことを叔父は説明していたような気がしたが、スグルの意識は既にぼんやりとしていてうまく聞き取れなかった。
そして叔父は、役目を終えたと感じたのか、この場を立ち去った。
立っていられなくて膝をついた。顔は青ざめ、冷や汗は垂れ続けてスグルの体温を奪っていく。
「スグルッッ!!!」
心配そうな表情で、フィーがスグルに近寄ってくる。霞んだ視界の中で、フィーの姉そのももの顔が、スグルを死の淵へと迎えに来た死神のように見える。
「ぅぅぅぅああああああああああああ!!!!!」
スグルは、脳の中で今まで機能していなかった部位が急に覚醒したような、そんな感覚を味わっていた。
明らかに自分の許容量を超えている。それは自分の記憶なのか、それともただの妄想なのかもわかない。それらは頭の中で並列再生されている。
焼けるような頭の痛みで、悲鳴と嗚咽が一緒くたになった、もはやヒトとは呼べない声がスグルの喉元から聞こえる。
白濁した意識の中で、家族の笑顔と陰惨な顔が同時にこちらに向けられていて、そのひとつひとつに、明瞭な死の影を見た。
治まることのないスグルの咆哮に、治療の手段を持たないフィーは、生体hIE特有の体温のある身体で抱きしめることしかできなかった。
そして、大量の情報の海の底へと、スグルの意識は埋没していくのだったーー。