始まりの地にて、少女はひとり
いつも此処にいる。薄暗く、何もかもが澱んだ場所。息を吸い込む度にやるせない気持ちになるのだ。その理由が何でかなんて知らない、もしかしたら忘れたのかもしれない。どっちでもいい。
いつから此処にいるのかはもう忘れてしまったけれど、でも確か……遠い、遠い昔に一番最初にこの世界が終わってしまったのだ。
だから今は、始まりの時なのだろう。
あたりは黒い棺が見渡す限り広がっている。中にはもちろんみんなが入っている。みんな胸の前で手を組んで、目をつむって眠っている。蓋がされていないから私はよく色んな棺を覗いていく。新しく入ったばかりのモノはとても綺麗な状態だけど、時間が経ったものは骨が見えてきて酷く中途半端な状態だ。この状態が私には一番かわいそうに見える。
だから、早く骨だけになるといいね、という思いを込めて頭を撫でてあげると大抵髪まで抜けてしまうから、とてもごめんなさいって思う。
とても綺麗な真っ白の骨だけになったモノは棺から出ていってしまう。これを見たとき私はとても嬉しく思う。だって、ずっと、ずっーと眠っていた状態からやっと動けるようになったのだ。やっと行くべきところに行けるのだ。
だからいつも私は大きく手を振って笑顔で見送る。
「ばいばーい。行ってらっしゃーい。」
でも、大抵みんな気づいてくれない。ちょっと悲しいけれど、仕方がない。目覚めたばかりのみんなはあまり意識がないみたいだから、それでもみんなは此処から離れていく。どこに行くのか私にはよく分からないけれど別にいい、此処を離れて行く時はみんなぼーっとしているけど、またいつかちゃんとしっかり意思を持つことを私は知っている。
空になった棺はそのまま誰も眠る事のない状態だけれど、いつのまにかまた新しいモノが入っていたりする。そしてまた此処で骨になるまで長い間眠るのだ。
私にはちゃんと体がある。昔と一緒の姿のままだ。でも、何でかわからない。みんなと違う……。みんなと一緒のように眠ればいいのかなと思って目を瞑ってみても眠れない。どうしてか分からない、忘れてしまった。確かに理由があった筈なのに……。
でも、これが役目だということは覚えている。みんなが眠る姿を見守り、そして骨になったみんなが此処を離れて行くのを見送ること、これが私の役目だ。
私がすることは決まっている。散歩に、棺を覗くこと、寝転がって灰色の濁った空を眺めること。
今は空を眺めている。ゆっくりと流れていく雲の様子を見ていると、やっぱり時間は流れてくれているのだと分かってとても安心する。
不意にざり、ざりっと砂を踏む音がかすかに聞こえた。今ここは風の吹く音以外での音は聞こえないはずだ。
私は地面から起き上がるとワンピースについてしまった砂を軽く叩いて落とす。もうずっと着ているため随分と汚れている。……あれっ? 最初から汚れていたかな?
……どっちでもいっか。
そんなことよりも私は音のなる方へと目を向ける。嬉しくて思わず口元にも笑みが浮かぶ。ずっと楽しみにしていた、やっと会える。視界に入った姿に待つこともできずに走り出す。そのまま私よりもずっと大きい体に飛びつく。
「また、来てくれたのね」
顔を上げて彼を見ればみんなと違い真っ白でなくなった骨のあいだに枝や小石などいろんなものが相変わらずぎっしりと詰まっていた。それは永い時の中、誰よりもこの道を歩いている事を表しているように思った。前にあった時よりも増えているようにも見えるし、やっぱり変わらないような気もした。
彼は一番最初にここから目覚め、一番最初に私が見送ったモノだ。彼以外ここから目覚めたモノがまた戻って来たことなんてない。それが当たり前なのだ。見送って行ったみんなが何をしているのかなんて事、とうの昔に忘れてしまった。私はただここでみんなの眠る姿を見守り、目覚めたみんなを見送るのだ。それでも彼だけは此処に戻って来てくれる。それは本当はいけないことだったと思うのだけれど、同時にとても嬉しくも思うのだ。
抱きついたままの私を彼はゆっくりとぎこちない動作で腕を動かして抱きしめ返してくれる。最初に戻って来た時はこんな事もなかったけれど、何回も戻って来てくれるあいだに徐々に反応を返してくれるようになった。
私は嬉しくて笑みを抑えることができなかった。触れているその身は硬く、とても冷たいけれど、遠い昔に感じた暖かさがそこにあるように思った。
明るくて綺麗なのに優しい色をした、そんな暖かさ……。今のこのくすんだ世界じゃあ想像すらできないものが確かに遠い遠い昔にあった。
生ぬるい風が私たちを包む。思い出したいと願う過去の暖かさとは程遠いものだ。
どうして忘れていってしまうのだろう。覚えていたいことも、覚えていなければならなかったこともたくさんあった筈なのに、どんどん知らないことになっていってしまう。みんなが眠る理由も、彼と過ごした日々も、この世界がなんなのかも、私たちが何をしてしまったのかも、もう知らないことになってしまった。
なんて愚かで浅ましいことだろうか。
「でも、だめだよ。ちゃんと貴方が行くべき場所があるでしょう」
今だ抱きしめてくれている彼にそうは言ったものの、声に寂しさを隠すことが出来なかった。こうして彼が来てくれたことが何よりも安心して嬉しいから。
まるで嫌だとでもいうようにギュッと抱きしめている力が強くなった。瞳の代わりに枝や硬く固まった砂などいろんなものが詰まっているその場所からは彼がどう思っているのか感じることなんて出来ない。そして話すことのできない彼がなぜみんなと違い此処に戻ってくるのか、もちろん聞くことなんてできる訳が無い。
手を伸ばして彼の顔に触れようとしたけど、高さが足りず届くことがなかった。彼はただ私の様子をじっと見ている。確かずっと昔は触れることができたように思うのに今じゃそれができない。どうしてだろう、わからない。わからないよ。
――思い出したい。
伸ばした手をゆっくりと下ろすと私は彼から離れるためにそっと彼の体を押した。私とは違ってとっても硬い体……。
「さぁ、いってらっしゃい……」
そう、言葉をかけると彼はまるで操られているかのように私から離れると、背を向けて歩き出す。私は自分の腕をそっとおろした。
そして、いつもみんなを見送るより何故か上手くいかないけれど、ちゃんと笑顔で見送るのだ。
「いってらっしゃい……」
彼は他のみんなと同じように振り返ることなく歩いて行ってくれる。それでも何故か彼はまた此処に戻ってきてしまう。いけないことなのだ、知っている。みんなと同じで彼にはしなければならないことがあるのだ。それが何かなんてもう私は忘れてしまったけれど、彼のすべきことは此処に戻ってくることじゃないことだけは知っている。
けれども、何故なのか彼が戻てくることがとても嬉しいと思ってしまう……。
空だった棺が埋まっている。今にもその閉じられた瞳を開いてくれそうに思えるけれど、そんなことが絶対に起きないことは知っている。私は苦笑をこぼすと覗きこんでいた棺から顔をあげる。そしてそのままその場に座り込んでじっと空を見つめた。
酷くゆっくりと流れる雲の動きがもっと早かったなら、よかったのに、どうしてかそんなことを思った。
そうだ、散歩をしようか、ふと思い立つ。よいしょと立ち上がり棺の道を歩き出す。この見渡す限りに広がっている棺にもちゃんと終わりがある。その端から端までを歩いて移動するのが私にとって永い時間を過ごすやり方だ。
気まぐれに棺を覗いては微笑み掛け、そっと触れていく。歩んでいくモノと出逢えば見送る。
ばいばい、行ってらっしゃい
今にも転びそうなその不器用な歩みはそれでも迷いなく進んでいく。
いってらっしゃい
振り返らずに進んで行くのだ。
悲しいとは思わない。これが私の選んだ道だったのだと思うから。ただ、まるで気持ちのひとつから何かが剥がれ落ちていくような、そんな感覚がするのだ。
歩いては棺の中を覗いていく。込み上げる気持ちは優しいものだと思う、自然と笑顔が浮かぶから。だから大丈夫、私は大丈夫。
永い時間がたったと思う。
ひとつの棺の中のモノが真っ白な骨になり見送る、ということを何度かした。変わっているようでまるで変わらない、そんな日々。
棺にもたれて座っているとザクザクっ、と砂を踏む音がする。私ではないモノの足音が、相手なんて決まってる。顔を向ければやっぱり彼がこちらに向かって来てくれていた。
私も立ち上がると歩いて彼のそばに向かい、大きな体に抱きつく。硬い感触に包まれると砂の匂いがした。
顔を上げれば、前よりもいろんなものが詰まっただろう姿が視界に入る。どことなく色もどんどんくすんでいっているようにも思えた。
みんなが振り返ることなくあるべき場所に向かい、義務を果たしに行くのだろう。そして私は此処にいて、みんなを見守り見送って、これが義務だ。それは仕方のないことで私の選んだ選択だけれど、それでもやっぱり浅ましくも――寂しいと思ってしまうのだ。
そんな中でも……
「あなただけが、私の存在を認めてくれる」
そう言えばまるで言葉の代わりとでもいうように抱きしめてくれている腕の力が強くなった。伝わっているのだろうか、私のこの気持ちが……そうだと嬉しいのにね。
「でも、どうしてかな、嬉しいのにとても、そう……とても、苦しいの……」
手をそっと彼の頭部に伸ばす。私の身長では届かないそこはとても遠く感じた。だから前みたいにそのまま手をひこうとした。けれどもそれよりも早く私の手に硬い感触が伝わったから思わず動きを止める。
驚いて思わず目を見開けば私の頬にも同じように硬い感触が優しく触れた。
あぁそうだ、確か……遠い昔もこうやって触れることができていた。それは今のように彼が私との距離を縮めてくれていたからだ。懐かしい、ほんの小さな記憶の一部だけれども、とても大切なものだ。
よかった、思い出せたよ……。
そっと手を動かし触れることが出来ている彼の頬を撫でればザラリとした指触りが伝わってくる。おそらく砂なのだろう。何度も撫でてみたけれどとれることもなく、彼のくすんだ骨の色も変わることがなかった。
ずっとこうしていたい。永遠の(ながい)時の中のほんの片端でもいいからこの瞬間にわけてほしい。そう思うけれど、そういうわけにもいかないから……仕方がない。うん、仕方がないの。
私ができる精一杯の笑顔を彼に向ける。何かを察するように私の頬に触れている手がかすかに動いた。
あぁ、うん。この気持ちだけは忘れてないよ。この胸を満たす昔感じた穏やかな風のような気持ちと呼吸が止まるような痛みと苦しさ、どこか甘いこの気持ち。
みんなと違うそのくすんだ色も、遠い昔とは違うその姿も、この世界で唯一私を見つけてくれる変わることのないその優しさも――何もかもが愛おしいのです。
けれども、これじゃいけない。与えられた役目が私も彼もあるから。
「あなたはあなたの成すべきことをするのです
――さぁ、いってらっしゃい」
離れていく頬と手の感触にまた胸が苦しくなるが笑顔だけは浮かべる。彼が動いたことで起こった風が一度私を通り過ぎていった。
遠くなっていく彼の姿を見送る。うん、悲しくなんてない。これでいい、これが私の決めたことだからこれでいい。悲しくなんてない……悲しくなんてない。
彼の姿が見えなくなると私はくるりと体の向きを変える。広がる棺とすさんだ空を視界に収めて私はニコリと笑う。
さて、またお散歩でもしようかな。
愚かなその身に染み付きし汚れや、穢れを清めるためにも深い眠りにつく必要がある。
しかし忌まわしきその身の全てを無に戻してはならない。己で歩むための器が必要なのです。
だからこそ深く永く眠らなければならない。
汚れや穢れが清められ、ただ純粋な白い存在になれたならお別れです。
――どうか、いきなさい。
†
始まりがあった。そこは世界だった。
美しい世界だ、みんなが笑い、豊かな食べ物、自然に恵まれた世界。みんなが慈悲の心に生き、全てのことを静かに愛しく想っていた。みんなが幸せを感じていた。けれども、永遠の時を生きる中で新しいことを望んだ。
歪んだ思いと感情をみんなが抱いた。誰かを思うのではなくただ自分のためにと望んでいく。そこから世界が歪んでしまった。歪みは崩壊へと繋がる。世界は徐々に、しかし確実に壊れていった。だからどうにかしなければならなかった。
優しい少女がいた。世界で一番優しい少女だ。誰よりも世界を美しく思い、誰よりも世界で過ごすモノたちを愛しく想っていた。だからこそ誰よりも愛しいモノたちが住む世界が壊れることを悲しんだ。そして、世界で一番優しい少女は救うことにした。
そんな少女を止めるモノがいた。少女のしようとしていることは少女だけが辛く苦しくなることを知っていたからだ。それでも少女は止めることはなかった。
どんなことになろうともただみんなを救いたかったのだ。
何もかもが崩れた世界で少女はみんなの罪が浄化されるのを見守る。たとえ、誰も少女のことを知らなくなっても、誰も少女に見向きもせずとも少女は最後までみんなの罪を見守ると決めたのだ。
ただ、もうこの事実を知るものはいないのかもしれない。少女ですら永遠の(ながい)時の中で忘れてしまったのだ。
ただ、義務と想いだけが少女をこの地に縛っていた。