3 悲しい夜風
「路銀がないのは知っているな?」
龍は宿場町の宿屋の角で、足を止めた。
「これから王の近くに上がろうというのに、これ以上野宿をさせるわけにはいかん。先ほど伝書鳩をヤントンに送った。間もなく資金が送られてくる。——だが、『今の』手持ちは『皆無』なのだ」
貴はすぐに察した。
「無賃泊をするのか」
「うそ!」
明鈴が声を上げる。その口を押さえて、龍はしいっと息を白い歯の間から漏らした。
「しかし、焦らなくても良いだろう。あんた、官吏の証を持っていないのか」
「持っているとも」
貴の問いに、龍は鼻高々に、懐より赤い玉を差し出す。
「これは赤玉と言って、内宮付きのものに配られた身分証だ。これほど輝くまでに磨かれ、丸く削られたものは王につながるものしか持てぬ」
「ならばそれを見せれば、身分も知れよう。賃も払わずともよいではないか」
「いや。それはおれがもっとも怖れる事だ。王の名の下にすべてのものは搾取されてよいはずがない。ましてや、おれは王ではないのだ。なぜ不正が出来よう」
「え、でもあんた、あたいの舟を奪おうとしたじゃないの」
「あれは、おれの出世の為にもくろんだ事。見栄の為の無賃宿泊とは話が違う。そうじゃないか?」
「——しかたない。では、野宿をしよう。それが一番ではないのか」
貴があきれて宿に背を向ける。——その時。
「黒都のごろつきがきたぞ!」
「街門を閉めろー」
急にあたりがざわめきだした。
夕暮れ時だからではない。人々は急に、ばたばたと自分の家に駆けていき、大急ぎで戸を閉めていく。
いつの間にか三人ぼっちである。
「そこの! そこのお三人さん! お入り!」
宿屋の女将が、二階の窓から手招きをしている。
番頭が駆け出して来て、三人の手を引いて宿に連れ込むと、戸を閉めた。
中には、多くの者が同じように招き入れられたようで、戦々恐々と震えている。
宿の中の明かりが、ふうっと女将に吹き消される。
隣の者の顔も見えない中で、遠くで馬がいななく声が聞こえた。それはドッドッドッドと蹄の音とともに近づいて来、心臓の音が爆発そうなのか、地響きなのか分からなくなっていく。
ひいん、と宿屋の前で、馬がまたいななく。
貴はその間、右手で右目を覆っていた。扉が何者かによって蹴り開けられたとき、貴はその手を離した。
「女はいないか」
そう言って入って来た男は、赤く長い髪で、髭の大男。次に入って来たのは、すらりと長身の、青白い顔をした色男。最後の一人は、黒い髪を頭の上に結って、厳つい中肉中背の中年男。
誰かが、「赤金、白銀、黒鉄だ」と口走る。
(噂に名高い黒都の三将軍だ)
貴は隣の龍にぼそりと告げる。
魔槍を操る赤金。鎚使いの白銀。当代一の名剣士黒鉄。
「女はおります」
「知事様がお探しの娘は、ここにおらぬか」
「さあ……」
「おい、女将! 隠すとためにならんぞ!」
がなり立てるのは、赤金。
「表に全員出させればよい」
静かに告げるのは、白銀。
「そら、そら、一人ずつ並んで。そこのお嬢ちゃんは、いいから。おっかさんだけ出て来て。そこ! 並んで!」
せっせと整理をするのは、黒鉄。
「あ、いた! おまえだ、お前が貴だな!」
「なんのことでしょう」
赤金が貴を見つけて走り寄ってくる。それを、少しも怖れないで貴は鼻であしらう。
「こんな美少女は他で見た事がない。きっとお前だ。さ、帰るぞ。知事様がお待ちなのだ」
「人違いでしょう」
「いや、おれには分かる。この美貌は、まぎれもなく——」
言いかけて、赤金は目を丸くした。貴が赤金の手を握り、自らの胸元に導いたのだ。
「え」
「これでもか!」
貴子はその手を使い、一気に胸元をはだけさせた。
「あ!」
「ない!」
「胸が!」
胸が、ない!
人々は驚愕し、呆然とする。
呆然とするのは龍もである。
「男!?」
龍はふらふらと表に出て、月光にさらしだされる貴の白い胸板に、指を這わせる。
「なんと言う事だ……。おれの野望は」
「おれは、一度も女だと言った覚えはない」
訳が分からない、と言った顔つきで、三将軍は引き返していく。
「このおれにも野望があるのだ。その為に、女の振りをしてるだけの事」
「お前の野望はどうでもいい。俺の野望はどうしたらいい。後宮に息のかかった女官を入れて、王を操るという、俺の野望は」
がっくりとうなだれる龍の横で、貴は身仕舞をし、
「その夢、かなえてやろう」
と吐き捨てるように言った。
龍が顔を上げる。
「俺は女官になりたい。うまくやってやる。必ずだ」
月に雲がかかり、風が吹く。闇が一瞬目の前を通り過ぎる。次に光が差したとき、貴は美しい乙女のように、たおやかに、妖しく笑っていた。
龍は、それを呆然と見つめていた。
その晩、宿に好意で泊めてもらった三人であったが、誰も口を聞こうとしなかった。明鈴は一人窓際で、考えにふけっている。
龍は酒にありついて、黙々と杯をあける。
貴は眠っている。
「ねえ、龍」
「なんだ、明鈴?」
「男だとばれた瞬間、あいつはもとより、あんたもあたいも、命が亡くなるよ。それでもいいの?」
龍は、クイッと酒を飲み干すと、明鈴に向き直った。
「いい」
明鈴は、龍の貴への恋心が、龍にそういわせている事を知っていた。
「わかった。じゃあ、あたいもそれなりに頑張る。あんたを守る為に、鬼にも蛇にもなるよ」
「俺の為に?」
「うん。——あんたを守るよ。そう誓ったから」
明鈴はそれだけ言うと、寝台の布団に潜り込んだ。
夜の風がふわりと入りこむ。
「俺も、守るよ」
龍の横を風が抜け、貴子の前髪を揺らす。
「貴」
そのつぶやきを、寝台で明鈴は聞いていた。