2 焚き火のあと
明鈴の勘が外れた事はない。十年以上前にもなるが、彼女の父の城が陥落しても生き延びたのは、この勘のおかげと明鈴は思っている。以後たびたび襲われそうになった時も、必ず助かっている。
その勘が、龍が自分と何か近しい者であると叫んでいた。それが血縁か、何かは分からない。そして同時に、この男が手に入らない事もわかっていた。実際、龍は貴に気があるようであったし、女を大切にするような風でもないのに、彼女をとても大切に扱う。それが明鈴には歯がゆかった。
(あたいはこれでも、ソジャンの姫だったのに)
暗闇の中に浮かび上がるたき火を見つめていたが、明鈴は火の向こうで番をする龍に視線を向けて、そっと胸に手を当てた。
トクン、トクンと胸がなる。
「どうした、眠れないのか」
炎の向こうから、龍の目がこちらを覗き込む。
「寝た方がいい。これから先、ずっと毎日、ヤントンに向けて歩く事になるのだ」
龍の切れ長の瞳が、珍しく笑んでいる。明鈴は心の底からうれしく思い、身を起こした。
「ヤントンまでは、どういう風に行くのですか」
「黒都から北東の方角に都はある。今は東に向かい、クルラカという大きな街が海近くあるので、そこまでいけばあとは船に乗り、北上して、都を目指す。といっても、都近くにある「春待ちの宮」にまずは立ち寄る事になるだろう」
「春待ちの宮?」
「正妃さまがいらっしゃるところだ。といっても、位のみの正妃さまだが」
龍は火の勢いを調節しながら、ぽつぽつとしゃべる。
「正妃様は楽章の長女で、星とおっしゃる。生まれた時よりの正統なる后がねで、すでに妃として上宮なさっていらっしゃらないが、きちんと書には名前が記されていらっしゃるのだ。後宮が整備されればすぐにでも宮に上がられる事だろう」
風が吹き、春をまつ枝が揺れる。
「春待ち……宮で正妃としてときめくのを待つ、そういう場所なのですね」
火が揺れ、火の粉がはぜる。ゆらりと龍の顔色に、影が揺れる。
「俺は、もしかしたら大変な事をしようとしているのかもしれない。宮中はこれから春が訪れたように華やぐ。同時にたくさんの女たちの争いが起きるだろう。そのなかに、あの貴を放り込もうというのだ。——あの少女を」
龍が唇をゆがめるので、思わず明鈴は叫んだ。
「あたいが守るよ。貴を必ず、守る」
「え、なに」
貴子が寝ぼけて声を上げる。そして、ぱたりとまた眠りにつく。すーすーと寝息が規則正しく上がるのを聞きながら、明鈴は恥ずかしそうにうつむいた。
「何を言ってるんだろう。あたいに、出来るはずないのに」
「いや、そうしてくれ」
龍の目がきらりと光る。「そうしてくれ」
呟く彼の顔が、明鈴の頬の横を過ぎて、髪に触れる。明鈴は抱きしめられていた。
再び火がはぜる。
「龍」
「しい」
「龍は、ソジャンの訛りがあるね」
困って、明鈴はうわごとのように呟いた。
「あたいの父や兄の事を思い出すな」
明鈴はふうっとため息をつく。急に暗い気持ちに落ち込んでいく。
「あの日——ソジャンが陥落した日、兄さんも父さんも、母さんもみんな死んでしまった。あたいは七歳でひとりぼっちになった」
「あれから何年だ?」
「十年」
「長いな」
「長かったよ。でももう、一人じゃないから」
明鈴は龍を引き離すと、健気ににっこり笑い、そして眠る貴の柔らかい手を握った。
(この人を守る限り、あたいは一人にならない。龍の側にいられる……)
明鈴は心の中で、本当に守りたいものの存在に気づく。
(あたいが守りたいのは、龍なんだ)
いつの間にか眠っていたらしい。明鈴が目を覚ますと、龍の姿はなく、貴の姿もなかった。火は消されて灰だけが残り、わずかにくすぶっているので、人が離れて間もない事が分かる。
遠くから、馬のいななきが聞こえる。それはやがて近づいてくる。
「どう、どう」
乗っているのは、貴だった。その後ろに、龍が乗っている。
「貴は筋がいい。というより、乗りこなしている」
「そうかな」
仲良く笑う二人を見て、明鈴は全身から湯気が出る思いだった。
「あったまにきた、二人で朝からいちゃついてさ!」
(結局あたいは一人なんだ!!)
明鈴は反対方向に駆け出そうとして、足首をひどくひねった。
「痛い!」
「明鈴!!」
「どうして、あたいはいつもこうなの」
明鈴はわあっと泣き出す。
「陥落の時も転んで、それをかばった家族が死んでしまったのに」
足首を押さえて、明鈴はうずくまる。
その背中を、貴がなでる。
「君が一人なのは、君のせいじゃないよ」
「え?」
「君が間違えたから誰かが死んだ訳じゃないよ。それは、楽章のせいだ」
「摂政様のせいだというのか」
「だって龍さん、楽章がソジャンを陥落させたのでしょう」
「それは、ソジャンが反乱都市だからだ。国の平和の為に、陥落させたのだ」
「大義名分でしょう? おれは、王を操る摂政が嫌いだ」
「どういうことなの?」
「わからん、しかし貴は、反乱分子だ」
「反乱なんかじゃないさ。悪いのは、みんな摂政と王なんだ」
「その発言を取り消すのだ、貴。さもなくば、お前をここで殺さねばならなくなる」
龍が、苦痛に満ちた表情で、剣を握る。その目に、貴の挑戦的な顔が映り込む。
(なんて美しいのかしら)
明鈴はその姿をうっとりと見つめる。棘のある赤い花のようにあでやかで、おぞましく明鈴には感じられた。
「おれは宮中に上がりたいと思って来たんだ。その夢は本当だよ。だから、忘れてほしい。すまなかった」
「——わかった」
ほっとして、龍が柄から手を離す。
「さあ、食事をとったら出発しよう」
三人は、奇妙な関係を築こうとしていた。