胎動
昼休み、シンムは人だかりの中で弁当を開こうとするイヨの腕を掴む。そして、人気の少ない体育館の裏側へと強引に連れ出す。周囲に誰もいないかを確認した後、すぐに疑問を口にした。
シンム「何で転校して来たんだ?」
妖鬼に負わされた怪我はさいわいにも軽傷で、イヨが昨日退院した事は電話で聞いていた。しかし、転校して来る事までは知らされておらず、イヨを一目見た瞬間にシンムは動揺した。その上、挨拶の直後、美少女のイヨの転校で色めき立っているクラスを無視した様に、手を振って来るは、大声で名前を叫んでくるはで、そのおかげで余計な詮索をされて、仕方なく従妹だと嘘付くはめになるはで落ち着かない日を過ごしていた。
イヨ「元々、そのつもりでしたから」
あっさりと、当然といった感じで、驚きの色さえ見せながら、イヨは答えた。
シンム「電話では何も言ってなかっただろ?」
イヨ「言わない方が面白いからって……言われたので」
シンム「誰がそんな事言ったんだ?」
もじもじと指をいじり出してイヨは答えない。その表情は教えられないというよりも、教えたくてたまらないのを我慢しているような感じだった。そんな仕草を見ていると、シンムの脳裏に緑色の髪をした女性が満遍の笑みを浮かべているのがよぎって、すぐに泡のように消える。直後、なぜか理由はわからないが、疲れたような気がして、ため息が出た。
シンム「もう……誰かはいいから、この間の事、聞いていいか?」
一番聞きたかったシンムの問いに、指いじりを止めたイヨの眼差しが真剣なものになる。
イヨ「ここではお教え出来ません。ですから、今日の帰りに付いて来て欲しいのですが、良いですか?」
シンム「それは別にかまわねぇけどよ」
イヨ「でしたら、その時にお話しします」
そう言い残すと、イヨは急いでいる様子でその場を後にした。
港の近くにある十五階建のホテルの玄関が見える。この島はマリンレジャーが盛んなため夏には観光で賑わい、連休には予約で満室になるらしいが、今は秋である事もあり、空き室が多いらしい。
シンム「ここに泊ってんのか?」
目の前のホテルを見上げているシンムに、玄関に入ろうとしていたイヨが足取りを止めてこくリと頷く。外から見かけることはよくあったが、中に入るのは初めてだった。
上昇を続けたエレベーターが十五階で停止する。自動扉が開く。赤い絨毯が敷き詰められた廊下を、奥の部屋へと向かうイヨの後ろに続いた。
イヨ「この部屋で待っていてください」
1407と書かれた部屋の前で、イヨからカードキーを渡される。
シンム「待っててくれって……この部屋に泊っているんじゃねぇのか?」
イヨ「わたしは隣の1408号室に泊っています。この部屋は来客用に借りた部屋です」
シンム「二部屋も借りてんのか?」
イヨ「借りているのは、この階全部です」
その話を聞いてシンムは唖然とした。このホテルは高級ホテルという程ではないが、決して安くはないはずだった。それを一階全部貸し切りと言われたから。いくらぐらいかかるか考えて指を折っているシンムを余所に、イヨは自分の部屋へ入っていく。
まったく落ち着かないが、他にする事もないため、シンムはソファーに腰掛けておとなしく待っていた。30分ほどして、イヨが執事風の男を連れて入って来た。
イヨ「お待たせしました」
対面するソファーにイヨが腰掛ける。その隣に男は立っていた。その事に不思議な違和感をシンムは覚えた。立っている位置が違うような気がして。
男「はじめましてと言った方がよろしいですね。フツヌシ タケヒコと申します」
深々と頭を下げる。その仕草にもデジャヴを覚える。不思議な感覚だった。まるで自分の半身に出会ったような気にさえなった。
タケヒコ「記憶を戻してよろしいでしょうか、イヨ様?」
難しい表情を一瞬だけ見せた後、イヨが頷く。その仕草を確認すると、タケヒコが勾玉を懐から取り出した。
タケヒコ「失礼します、シンム様」
シンム「いきなり何すんだ?」
額にいきなり勾玉を当てられた。勾玉の輝きが終わると異様な感覚を味わった後、忘れていた記憶を思い出す様に、シンムの封じられていた記憶が蘇えった。
シンム「おまえ……あの時の……」
タケヒコ「先日は失礼しました」
本当に申し訳なさそうに、タケヒコは頭を下げた。そのままの姿勢で頭を起こす気配をなかなかタケヒコは見せない。その姿を見ながら、シンムはどうしていいかわからず、話を進める事を選んだ。
シンム「記憶を封印とか……だいたい、どうやったらそんな事出来るんだ?」
頭をタケヒコが上げる。そして、イヨとめくばせしてから語りだした。
タケヒコ「呪の力です。呪は創り出した者次第ですが、色々と応用が利きますから」
シンム「創り出した者次第って……誰が創ったんだ?」
何気なく聞いたシンムの質問に対して、二人が頭を横に振る。
シンム「まさか……教えてくれないのか?」
一回言葉を飲み込むような仕草を見せた後、言いにくそうな表情でタケヒコガ答える。
タケヒコ「その件に関しましては、答える許しをいただいていませんから」
シンム「許しって……誰から?」
そのシンムの問いにも誰も答えない。帰ってきたのは気まずい雰囲気だけだった。わずかの間だったがそんな雰囲気に耐え切れなくなってシンム口を開いた。
シンム「イヨ達は妖鬼とかいう化け物を退治するために、この島に来たのか?」
イヨ「わたし達は別に妖鬼を退治しに……」
何か答えかけたイヨの口を、タケヒコが慌てた様子で塞ぐ。その様子を見て、疑念の色を見せたシンムに、タケヒコが答える。
タケヒコ「聞かない方が良いですし……申し訳ありませんが、話す事は出来ません」
そう言ったタケヒコの表情は真剣そのものだった。だから、それ以上は聞かなかった。再び気まずき沈黙が部屋を包み込む。今度、沈黙を破ったのはタケヒコだった。
タケヒコ「今日来ていただいたのは、お願いがあるからです」
シンム「願い?」
聞き返したシンムの目を見据えながら、タケヒコが一呼吸置いてから口にした。
タケヒコ「この島から出ていただけませんか? 当然、その際の費用、手続きなどはすべてこちらで持ちます」
シンム「何で突然?」
予想もしなかった願いの理由をシンムが聞いても、答えは帰って来ない。答えの代わりにタケヒコが口にしたのは……
タケヒコ「結論は明日までにお願いします。明日、もう一度ここにいらしてください」
答えを問い詰めたが、何も教えてはくれなかった。だから、退出を促されると、シンムはしぶしぶではあったが従った。その際、イヨの表情も見た。心痛な表情をしていた。
まったく訳が分からなかった。妖鬼とかいう化け物、呪とかいう妖しい勾玉だけでも訳が分からないのに、突然、島から出て行って欲しいと言われたから。そして、その理由は話せないと。
一階のロビーからホテルを出た頃には、不条理な怒りをシンムは覚えていた。
シンム「結論も何も、知った事か!」
十五階建てのホテルを見上げながら、シンムは怒り任せに大声で叫んだ。
二人だけになったホテルの1407号室で出入り口のドアに向かい、タケヒコは全身を震わせながら頭を下げ続けている。その姿は泣いているようでさえあった。そんなタケヒコにイヨが言葉をかける。
イヨ「シンムさんはこの島を出て行かれるでしょうか?」
頭を起こして、目を赤くしているタケヒコが辛そうに答える。
タケヒコ「自分からは無理だと思われます。ですから……」
イヨ「力づくで?」
問いにタケヒコは答えない。ただ辛そうに口元を緩めて言った。
タケヒコ「イヨ様、出来ればあなた様にも戦いから身を引いて……」
首をイヨは横に振る。何度も同じ事を言われたが、イヨの答えは変わらないから。だから、答えの代わりに言った。
イヨ「タケヒコさんもコーヒーを飲まれますか?」
にこりとしながら、イヨはコーヒーカップを手に取った。
訳の分からない事を言われて、怒っていたシンムは頭を冷やすために海の方へと向かった。海岸には普段からは考えられないほど人が少なかった。
シンム「今日は誰もいねぇな? ま、丁度いいけどよ」
海に向かってシンムはおもいっきり叫んだ。その時に、鈍い音が聞こえた。
不思議に思いながら、シンムは音の方向へと向かった。そこは崖だった。下の方を見ると、血を流して倒れている20代ぐらいの女性がいた。
シンム「まさか……飛び降りたのか!」
崖の高さは10メートルほど、即死だろうとは思う。それでも、万に一つでも助かる可能性があるならと思い、慌てて携帯電話で救急車を呼ぼうとした。だがそれを中断する。にわかには信じられないような事が起こって。
女性「また、足をすべらせちゃった。しかし、何度やっても痛いは変わらないのよねぇ」
崖の上までひとっ飛びで女性が上がってくる。本来、その時点で異常なはずだった。でもこの時のシンムはそれに気付かない。全身傷だらけで、至る所から血を流しながら、まるで転んで擦りむいたような感じで女性はそう言ったから。そして、不思議なことに血が止まりかけていたから。
女性「服が血まみれ……着替え取りに戻らないと……めんどくさいなぁ」
袖についた血を恨めしそうにみながら女性が近づいて来る。携帯電話を取り出したまま、シンムは石のように固まっていた。
女性「電話はかけなくていいから。それから、今見たのは全部幻覚ということで……わかった?」
携帯電話を女性に取り上げられた。そして、シンムが携帯電話に打ち込みかけていた番号をキャンセルすると、女性は携帯電話を返してくれた。その一連の動作が、ふさがり始めている傷口と共に、呆然としたままのシンムの目に映っていた。目に映る女性が背中を見せて離れていく。
シンム「妖鬼ってやつか?」
呆然としていたシンムは、自分でもわからないまま呟いた。その呟きの声は大きかったのか小さかったのかさえ自分では分からなかった。とはいえ、呟きに反応したのだろう、女性の足が止まる。そして、踵を返すと険しい表情で女性が近づいて来る。一歩、思わずシンムは後ずさりする。影が動くのが目に映った。次の瞬間シンムは息をするのも苦しくなっていた。いつの間にかみぞおちに女性の膝が入っていたために。
女性「なんで、妖鬼を知っているのか知らないけど……余計な一言は死をまねく」
その女性は楽しそうに笑いながら、何とか息を整えたシンムの髪を冷たい手で掻きむしる。
女性「よく覚えていたら、長生き出来る……ためになったでしょ?」
額を弾かれた。わずかに痛みがあり、シンムは手で押さえた。その姿が面白かったのか、女性は更に楽しそうに笑う。
女性「じゃあね。二度と会わないといいね」
そう言い残して女性はいなくなった。
翌日、ホテルの1407号室を重苦しい空気が埋め尽くしている。難しい表情のタケヒコ。静かだが、感情を堪えるように目を閉じているイヨ。丸いテーブルを挟んだ向こう側に二人は座っている。そんな二人をシンムは怒りを堪えながら見据えていた。
タケヒコ「やはり、答えは変わりませんか?」
訴えるようなタケヒコの真剣な目がシンムを貫く。その表情には何処か苦痛にも似た色があることにシンムは気付くが、正直、だからと言って答えを変える気にはなれなかった。
シンム「理由も語らずに……転校なんか出来るかよ!」
顔を真っ赤にしながらシンムは叫んだ。一日経とうが、答えが変わるはずもない。その上、理由を聞いても答えは同じ。
イヨ「理由は教えられません。ですが……悪い様にはしませんから」
何度も聞いた、答えになっていない答えを、今すぐにでも泣き出しそうな表情で、すがりつくような目をしながらイヨは言った。もう限界だった。だからシンムは立ち上がる。
シンム「訳分からねぇ! とにかく、おれは島を出ねぇ!」
大声で怒鳴るように言ってから、シンムはドアを怒り任せに開く。そして、ドアを閉じる際は「ドン」という大きな音を出した。
シンム「そういや、昨日会った女性の事を聞くの……忘れてたな」
上昇するエレベーターを待っている最中にシンムは思い出した。前日の女性をひょっとしたら知っているかとも思って、今日聞いてみるつもりだった。気になって部屋に戻ろうかとも思ったが、苛立ちが疑問を遥かに上回り、シンムはそのままホテルを出た。その足で、血だらけの女性と会った場所へとシンムは向かった。
崖には人影一つない。小一時間ほどシンムはその場で夜の海を眺めながら待っていたが、誰も来なかった。内心「当り前か」と思いつつ、シンムは帰路へと着くことにした。
シンム「そういや、今日も道場へ行ってねぇな。そろそろ、伯父さんも帰って来てるだろうし……明日は行くか」
尊敬する伯父に会えるかもしれないと思った瞬間、シンムの表情が緩んだ。
シンム「もし帰って来ていたら、真っ先に試合を申し込むか」
どうしたら伯父から一本とれるかを考え始める。そうなったら、無我夢中になり、他のすべてをシンムは忘れていた。
現在、シンムは目隠しをされ、全身をロープで縛られ、車のトランクの中にいる。
シンム「これで二度目か……連れ去られるの。だいたい、ドラマとかだとヒロインの役目だよな? こういうの」
現状、本来ならおびえたりするのだろうが、あまりにも色々とあったのが原因か、他人事のように考えていた。
車が止まる。何者かに抱えられてシンムは運ばれる。そして、何かに縛り付けられてから目隠しを取られた。最初に目に映ったのは不機嫌そうな老人の顔だった。次に映ったのは周囲の光景。またも、何処かの倉庫だろう。室内には所狭しと並べられたコンテナがあり、高所には窓ガラスが敷き詰められている。さすがに前回捕えられた時の倉庫とは別の場所みたいだった。
顔中がしわだらけで白いあご髭を蓄えた老人が、シンムをじろじろと見ている。
老人「小僧、わしの妖鬼を葬ってくれたらしいな」
しわがれ声に明らかな敵意の色を老人は見せている。
老人「小僧、あの女の使いだな?」
あさっての方向に目線をやりながら老人は言った。
シンム「あの女って誰だよ」
そうシンムが聞き返した瞬間、老人が持っていた杖で頬をはたかれた。ひりひりと頬が痛む。とはいえ、痛がる様子を見せるのも癪に障るので、睨みつけてやった。
老人「粋だけはいいな。まぁいい。小僧が何者だろうともわしには関係ない」
そう言うと老人は後ろを振り返って、すぐ近くに立っていた男へ声をかける。
老人「殺せ。それから、死体は見つからない様に始末しておけ」
目線をシンムは老人から男へと移す。その男は、人ではなく妖鬼だった。
爪を振りかぶる妖鬼。死が目前に迫りながらも、シンムには不思議と恐怖がない。それどころか、危機感もなかった。その理由は後になって理解出来た。恐怖が麻痺してなければ生きていられないほどの殺気が、すでに充満していたからだった。
爪を振りかぶった妖鬼の首が床に転がる。首を失った妖鬼が倒れ込む。何が起こったのか、シンムには把握出来ず周りをきょろきょろと見回した。
老人「た、助けてくれ」
その声でシンムが気付いた時には、頭を床にこすりつけながら老人は必死に懇願していた。その方向に目を向けると、誰か女性らしい人物が立っていた。その女性の顔をシンムは見ようとしたが、角度の関係からか、よく見えない。
女性「裏切って、勝手に行動を始めた時に、こうなることは分かっていたはずよねぇ。それが、いまさら命乞いされてもね……困るのよねぇ」
肩を落としながら女性は言った。
老人「た、助けてくれたら何でも言う事を聞くから」
頭を床にこすり付けたまま老人は懇願している。
女性「やだ。助けたら、わたしが怒られるだけだし。宮仕えはたいへんなのよねぇ」
肩を落としたまま、めんどくさそうにため息をつきながら、女性がゆっくりと老人に近づく。次の瞬間、老人は杖に仕込んであった剣を女性の胸へと突き刺した。
女性「これ狙っていたんだ。相手がわたしでなかったら、うまくいっていたのにね……でも、わたしには痛いだけで意味がないから、止めて」
胸から流れる血を手で拭いながら、疲れたように女性は言った。心臓が一突きされているとは思えない、異常すぎる態度だった。
必死になって老人は剣を抜くと、もう一度女性の胸へと突き刺した。状況は何も変わらない。再び剣を突き刺されながら、今後は気に止める様子も見せずない。そして、手の届く範囲まで女性は近づくと、老人の首を掴んだ。
女性「こんな剣で死ねるなら……苦労しないの」
白眼をむいて、首が変な方向に曲がった老人に女性はそう告げた後、シンムの方へと顔を向けて来た。
黒い短髪に透き通る様な肌、信じられないほどの美人だった。だからこそ、シンムには忘れられるはずもなかった。その女性は前日に会ったばかりの、崖から落ちた女性だったから。
女性「昨日の……また会っちゃった。会わなければ、もう少し生きながらえられたのに」
ゆっくりと女性が近づいて来る。恐怖は不思議とない。助かりようがないという諦めが、シンムから抵抗する気さえ奪い取っている。
女性「覚悟出来ているんだ。それが気に入ったわけじゃないけど、痛みは感じさせない。それに……考えようによっては、今死ねる事は幸せかもねぇ」
首元へ女性の両手が伸びて来る。首を絞めようとしているのは明らかで、万事休すのはずだった。
声「この男に手を出すな、アヤコ」
勝手に口が動いた。声もシンムの声色と違う。その自分とは思えない声に反応して、首へと伸びていた両手が止まり、女性が自らの背後の空間へと飛び退く。体を縛り付けていた縄を力ずくで引き千切る。
正直、シンムには何が起こっているのか理解できない。声は間違いなく自分の口から出た。縄を引きちぎったのも自分。なのに、どれも自分の意志ではなかったから。
シンム「何がどうして、どうなってんだ? そういや、この間も……」
つい先日にイヨが殺されかかった時のことを思い出した。いろいろありすぎたせいか、自分とは思えない力を出したことを、シンムはすっかり忘れてしまっていた。
声「考えるだけ時間の無駄だ。制限時間5分では、アヤコと戦うのは自殺行為だからな。逃げるぞ。幸いにも、タケヒコが気付いて近くまで来ている」
何者かの声が頭の中に直接響いていた。誰の声かわからなかったが、奇妙にも、その声に懐かしさを覚えた。
シンム「どこかおかしくなってるのか? おれ?」
気が狂っているのかとシンムは自分で思った。初めてイヨと会ったときも、タケヒコと会った時も、この声も、まるで心当たりなどあるはずもないのに、不思議と懐かしさを感じていたから。
声「くだらない事を考えるな。相手はリクジョウ アヤコだ」
頭の中に響く男の声が、命令するようにそう言った。妙に、癇に障る声と口調だった。それが、原因かはわからないが、困惑など何処かへと突然消えてしまい、シンムはイライラしてきた。
シンム「だいたいおまえも、目の前のアヤコって女も、誰なんだよ!」
大きい声でシンムはそう叫んだ。それが合図だった。
人間とは思えない、否、この世界の生物とは思えない速度でアヤコが突っ込んで来る。重く、鋭い拳がシンムの腹へと襲いかかる。その不可避と思える一撃を、シンムは、否、シンムの頭に響く声の主が片手で払いのける。そして、逆襲の蹴りを頭部めがけて繰り出すが、アヤコにかがみ込まれて避けられる。
アヤコ「スクネか!」
体を起こしながらアヤコが何者かの名を叫ぶ。そして、アヤコという名の女性が後転で飛び退く。そして、再び奇妙なことが起こる。
アヤコ「めんどくさいけど、本気で戦うしか……ないか」
そう言ったアヤコの左手には、黄金に輝く大きな鈴の付いた、長さ180cm程の杖が握られていた。肌を焦がすような殺気が充満する。先程まで、何処かのんびりとしていた雰囲気がアヤコから消え、あからさまな臨戦態勢に入っている。
突如、ガラスの割れる音が聞こえた。何が起こったのかと思い、シンムは周りを見回しす。よくよく見ると、高所にある窓ガラスが割れていた。
男「させません、アヤコ!」
聞き覚えのある声が聞こえて、目線をシンムは戻した。杖を持つアヤコの身体が宙を舞っている。
宙を舞うアヤコがくるりと身体を捻らせて着地する。そして、目を細めて刺す様な視線をしていた。その視線の先には確かにシンムもいたが、対象が違う事は明らかだった。肌を焦がす殺気は、シンムの目の前に立つ人物へと当てられていた。
タケヒコ「やはり、この島へ来ていましたか……リクジョウ アヤコ」
目の前に立つ男はイヨに紹介されたフツヌシ タケヒコという名の男。そのタケヒコは、右手に握った七つの枝を持つ剣の先を、牽制するようにリクジョウ アヤコと呼んだ女性へと突き出していた。
アヤコ「タケヒコまで来たの? 2対1って……かよわい女性相手に卑怯よ」
言葉とは似ても似つかない刺すような視線をアヤコがシンムへと向けてくる。瞬間、すべての汗が引くような感じがした。一瞬の出来事のはずだったが、シンムには永遠にさえ感じられた。気付いた時には、アヤコはタケヒコへと視線を戻していた。安堵感からか、汗が一滴流れる。その汗が床へ落ちるよりも早く、二人は動き出した。
右手に握った剣でタケヒコが斬りつける。その一撃をアヤコは横に動いて避けると、タケヒコの眉間へと回し蹴りを放った。その蹴りをタケヒコが左手で掴むと放り投げた。放り投げられたアヤコは身体をくるりと回転させて着地する。
額から流れ落ちた汗が床を濡らす間にそれだけの事が行われたが、シンムにはアヤコが一人で後ろへ飛びのいた様にしか見えなかった。
アヤコ「やっぱ終わり。こんなの無理」
割れたガラス窓へとアヤコが飛び上がる。杖を消すと最後に一言アヤコは言い残してからいなくなった。
アヤコ「追ってこないでね」
割れたガラス窓へと目線を向けているシンムとタケヒコの2人は気付かない。亡骸となった老人が、一瞬だけ不気味な笑みを浮かべたことに。
夜の暗がりを走るリムジンの後部座席に、シンムは無言で座っていた。運転席にはタケヒコ。助けられてから、ずっと無言だった。助けられた直後に全身から溢れて来た疲れが、シンムの口を重くしていたためだが、例えそうでなくても、無言だっただろう。助けてくれたタケヒコは、シンムと目線を合わせようとはしなかったから。
車から降りると、そこはシンムの暮らすアパートだった。
タケヒコ「今日は取り敢えず寝て下さい。明日の夕方5時に迎えに来ます。それまでに、簡単でいいですから、引越しの準備を終えられていてください」
運転席からタケヒコは顔も向けずにそう告げた。何かシンムは言い返そうとしたが、次のタケヒコの言葉がそれを奪い去る。
タケヒコ「死にたくなければ……」
突然の言葉に呆然とするシンムを置いて、リムジンは走り去っていった。