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短編小説 洗濯

作者: 水本爽涼

「この世じゃ、いいモノが残らない傾向にあるんだぜ、平川君」

「いいものって、なんなんでしょうか?」

「君、それは、つまるところ善だよ。と、いうことは、偽善者が勝利する仕掛けになってるんだな、実にこれが…」

 牧野真造は教授であることをいいことに、あたかも自らの思考が正当であるとでも言いたげに、自信のある表情でまくし立てた。

「……、そうなんですか?」と、助手の平川国夫が上目遣いに遠慮を吐き、いつの間にか牧野の論理に吸い寄せられていく。万事が万事この調子だから、彼は牧野心理学教室で“小判鮫”と渾名あだなされる羽目に陥っていた。

 そこへ俊子が現れた。広瀬俊子…国夫と同じ十一人いる牧野心理学教室の研究生である。

「国夫さん、話もいいけど、外の雪掻き手伝ってよ。このままじゃ、入口のスロープ、凍っちゃって明日、危ないもん」

 昼過ぎから本降りとなった雪は、外気の凍てもあってか、フワッと地に辿り着くと、融けもせず白のベールを辺りに敷きつめていた。それもいつもの緩慢さではなく、瞬く間に、そのかさを増していく。

 俊子だけは国夫の味方で、"小判鮫”と避けられがちな国夫の良き理解者なのだ。その彼女が、テンションを高め助けを求めたのだが、他に誰もいないからか…と、国夫は思い、そんなに急ぐ必要もないだろう…と、軽く考えていた。とりあえずは、「すぐ行くから…」と応じたものの、教授との遣り取りをもう少し続けたいと心が命じ、なかなか腰は上がらない。だが、相手の牧野教授は話の腰を折られたことに少なからず御冠おかんむりで、すでにテキストを畳んで帰り支度を始めている。

 仕方なく、「それじゃ先生、話の続きは次回に…」と細縄を投げた国夫だが、「…」とプッツンで、教授は無言に軽い会釈をして教室を去った。研究室の灯油ストーブだけが、白々と残された国夫を見つめていた。

 他の研究生が帰った後も、彼だけは牧野教授へ食い下がり、いつも残るようにしていた。

 「俊ちゃんの手助けでもするか…やれやれ」溜息混じりに愚痴を吐くと、国夫はようやく重い腰を上げた。室内の熱気が窓硝子を曇らせ、その細やかな水滴の粒が集まって流れる。窓硝子を撫でる指先の向こうには、サラサラと雪が同じリズムを刻んで落ちている。かなり気温が下がっているんだろう…と、国夫は雪の落ち具合を見てそう巡り、研究室を勢いよく飛び出した。

━牡丹雪なら融けやすいんだがなぁ…━

 スロープでは、すでに俊子が奮闘して雪を掻いていた。

「俊ちゃん、ホースで水を流した方がいいんじゃないか? この降りじゃ、切りがないよ」とは投げ掛けたが、俊子はそれには答えず、相変わらず懸命に精を出している。

 この世に息づくあらゆるものを浄化しようと、天はこの白い物質を上空から撒いておられるのだろうか…と、国夫はしばし上空を凝視して茫然と瞑想した。教授との遣り取りが甦っていた。

「国夫さん、蛇口、捻ってくれる!」

 とても手に負えないと思ったのか、俊子が突然、手を止めて国夫の方を振り返った。一応、聞こえはしていたんだ…と思いながら、国夫は蛇口を緩めた。ホース先から勢いよく水が広がり、白いベールを剥がしていく。

「融かすのはいいけど…。返って凍りついたら危なくない?」

「心配すれば、切りがないさ。すぐ上に積もるから大丈夫!」と国夫が放つと、俊子は「そうお?」と返した。

 国夫はホースの先を持ち、次第に蛇口からの距離を遠ざけていく。

「へへへ…、ちょろいもんだ」と得意満面で、瞬く間に溶解していく雪の光景に有頂天になっていく。頭部や肩に積もる雪のことも忘れて、子供に戻った無邪気さで戯れる。俊子はもう諦めて、入口の内部からその動作を傍観するのみだった。

 硝子ドアに樹脂製のスコップをもたれさせ、汗ばんだ首筋をタオルで拭う俊子である。彼女の体熱で、すでに肩の雪さえ水玉と化している。

 スロープ全体をホースで流し終えた国夫は少しテンションを上げ、「まあ、この辺にしておこう…」と呟きながら、小走りで駆け戻った。実は、自分がした行為の無益さを、すでに悟っている。

「早めに帰った方がよさそう…、積もるね」

「ああ…たぶんな」

━雪の群動は風景を白一色に洗い清めて降り続けている…━という心象風景が国夫の中にはある。

━それを今、自分が行った振る舞いは破壊したのだ。人間の行いには、何か得体の知れないところがある。雪が天から撒かれた洗浄剤ならば、人は何もせず、ただ自然のなすがままでいいのではないか…。それはそれで不便だし、危険なんだろうが、それでもいいんじゃないのか。天が与えた文明社会への警鐘かも知れんのに…。━

 妙な雑念を巡らせ、国夫はただ雪に見入る。

「風邪ひくわよ。研究室であったまって帰りましょ」と、俊子が国夫を我に帰らせた。

「そうだな…」と頷き、国夫も俊子に続き研究室へ戻った。

 次の朝は、やはり積雪となった。二十センチは積もっただろう。研究室の誰もが防寒服に長靴の出で立ちで入室した。案に相違して、スロープの凍てつきによる滑りは、心配したほどでもなかった。

 ━何のことはない。昨日やった水撒きは無駄だったか…。ということは、天が俺のやった些細な行動を嘲笑していることになる。天が行う壮大な浄化作業の邪魔をするなと…。━

 牧野教授の講義中も、国夫の脳裏には、何故かそんな雑念が過ぎっていた。

 その日も、他の研究生が帰った後、国夫は例の“小判鮫”らしい動きで教授に訊く。

「先生、昨日の続きなんですが、いいモノが残らないこの世は、悪いモノだけになるってことですか?」

「…、いや、そうは云ってない。傾向を云ったまでだよ。善者が偽善者に淘汰されちまって、悪人ばかりの世になりゃ、それはもう人間世界じゃなく全くの地獄だよ、君」

 国夫は、なんとか牧野教授の論理を理解しようと聴き入る。これは、教授独特の深層心理なのか…とも思える。

「人間は死ぬまで、それと戦い続けるのさ。それ…、そうさ悪とだよ。悪というのは自分の心に存在する悪だよ。犯罪悪とは、また違う。例えばだよ、…君が電車に乗っていたとしてだ。お婆さんが立っていて君が座っていれば、どうする? 恐らく席を譲るだろ? …それだよ。別に譲らなくたって悪とはいえない。しかし、そのとき君が疲れていたとしてだ、君はそうするかい? 私が云いたいのは、全人類の誰もが、もしその立場になったとき、…割合は別としてもだ、立たない者の方が多いのが、この世だってことさ。『お年寄りを大事にしよう!』とか表立って云ってる奴ほど、眠ったフリをしたりする。偽善者だわな。こういうやからが勝利するんだ」

 国夫は、なんとなく理解できた気がした。

━そうだ…、教授が云う“眠ったフリ”というのが、ホワイトに浸入したブラックなんだな…、混ざればグレーになる。ホワイトに近いグレー、ブラックに近いグレー…自在に変化する。詰まるところ、教授が云う論理は人間がグレーだってことか…。━

 そんな想いが巡りつつあった。

━白くも黒くもないグレー…、そして、雪の浄化は、人間のそうした眼に見えないブラックの浄化、早い話、洗濯なんだ…。━

 国夫は、なおも巡っていた。

  沸々とストーブ上の薬缶が白い蒸気を吐く。

「平川君、もういいかね? 今日は学会の準備で、ちょっと忙しいんだが…」

「あっ! すみません。お引き留めしてしまいまして」

 国夫は我に帰り、慌てて頭を下げた。

「それじゃぁ、また何かあれば話をしよう。それにしても、君は研究熱心で感心だ」

 そう云って牧野教授は研究室を後にした。

 外は、冬の太陽が青空を友として、雪面にまばゆさを付与している。国夫は、なんとなく気高い感じがした。

 不意に、俊子が現れた。

「国夫さん、よかったらお昼、一緒にどお?」

 予期せぬ突然のモーションに、国夫は一瞬、唖然として、言葉を失った。俊子がこのような誘いをしたことは今までなかった、ということもある。

━こりゃ、黒じゃなく赤に染められそうだ…━

 瞬間、ニタリとした国夫を横目に見て、「別に、都合が悪ければ、いいわよ」と、少し旋毛つむじを曲げたような顔で俊子は加えた。

「いや、そんなことはないんだ…。じゃあ、帰ろうか」

 雪解けの水達が、ピチャ・・ピチャリ、ピピチャ・・ピチャと、といから流れ出て音楽を奏でている。

 もう、昼近い十一時四十分である。

                                       完

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