我慢させられ続けた伯爵令嬢、魔界に追放されて甘えん坊将軍になりました~よもや、帰ってこいとは言いませんよね!?~
目を開けると、私の三倍はある緑色の顔がこちらを覗き込んでいた。
牙。濁った黄色の瞳。丸太のような腕。
オークだ。魔界の門をくぐらされてから、まだ半日も経っていない。
(ああ、ここで終わるのね)
不思議と怖くはなかった。怖がる暇があるなら、やるべきことを考える。八年間そうやって生きてきたせいで、私の頭は最期の瞬間まで実務的だった。
「あの。食べるのでしたら、できれば一息にお願いします」
「誰が食うか!」
オークが吠えた。森の鳥が一斉に飛び立つ。
「人間の娘が門の前で倒れてるって聞いて来てみりゃ……なんだそのボロ布は。靴はどうした。足、血だらけじゃねえか」
「歩けますので、お構いなく」
「歩けてねえから倒れてたんだろうが!」
次の瞬間、私の体はふわりと浮いた。担がれたのだと気づいたのは、分厚いマントでぐるぐる巻きにされた後だった。
「砦に戻る。暴れるなよ」
「あの、私、対価になるようなものを何も持っていなくて」
「黙って運ばれろ」
オークの隊長――ガルド様は、それきり何も言わなかった。
けれど、私が揺れないように歩いてくれているのは分かった。
◇
砦の食堂で、目の前に湯気の立つ皿が置かれた。
肉と芋がごろごろ入ったシチュー。黒パンが二つ。
「食え」
「……それで、何をすればよろしいでしょうか」
「は?」
「お皿洗いでしょうか。それとも薪割り? 帳簿付けでしたら得意です」
ガルド様は、牙の生えた口をぽかんと開けた。
「……飯を食うのに、なんで先に働くんだ」
「働かない者は、食べてはいけないので」
「誰がそんなこと言った」
誰が。
考えたこともなかった。
――エミリアはしっかりしているから、大丈夫だな。
母が亡くなった日、十歳の私に父はそう言った。
その日から、屋敷の家政も、領地の帳簿も、妹コレットの世話も、全部私の仕事になった。熱を出しても「しっかりしているから大丈夫」。誕生日を忘れられても「しっかりしているから大丈夫」。
そして半月前。
「コレット、ハロルド様のことを好きになっちゃったの。お姉様は譲ってくれるわよね? だって、しっかりしているもの」
私は生まれて初めて「嫌です」と言った。
その三日後、コレットは階段から落ちた。かすり傷だった。けれど彼女は泣きながら、私に突き落とされたと訴えた。
ハロルド様は、私との婚約をその場で破棄し、泣きじゃくるコレットの肩を抱いた。
父は、私の言い分を一言も聞かなかった。
「お前はしっかりしているから、魔界でもやっていけるだろう」
それが、父から最後にかけられた言葉だった。
「おい。冷めるぞ」
ガルド様の声で我に返る。
「……いただいても、よろしいのですか」
「さっきからそう言ってる」
一口すすった。
温かかった。
たったそれだけのことで、喉が詰まりそうになった。
◇
翌日から、私は砦の中を見て回った。じっとしていると、どうにも落ち着かないのだ。
そして食糧倉庫で、首を傾げた。
「ガルド様。この砦には、兵が何名いらっしゃいますか」
「八十だ」
「でしたら、帳簿の数字がおかしいです。帳簿の上では、兵が実際に食べる量の一・五倍の麦が出ていっています。このままでは冬を越す前に、倉庫が空になります」
ガルド様の顔色が変わった。
「……配分は、俺が全部やってる。各班が申告してきた分を、そのまま渡してるだけだ」
「全部、お一人で?」
「隊長だからな。部下に面倒を押しつけるわけにはいかねえ」
その横顔に、見覚えがあった。
鏡の中の、私だ。
その夜から、私は砦じゅうの在庫を一つずつ数えて回った。
原因はすぐに分かった。各班の寝床の下や物置に、麦袋がこっそり溜め込まれていたのだ。
「隊長が倉庫の残りを教えてくれねえから、足りなくなるのが怖くて……」
「多めに言っときゃ安心だと思って……」
どの班も、悪気なく少しずつ多く申告していた。倉庫の麦は減っていたのではない。砦じゅうに散らばっていただけだった。
三日目の夜、帳簿はほとんど整った。
残るは、各班から集めた麦袋を倉庫に戻して数え直す作業だけ。けれど一袋が私の体ほどもあって、何度押してもびくともしない。
(大丈夫。私はしっかりしているから。一人で、なんとか――)
「何してる」
振り返ると、ガルド様が戸口に立っていた。
「い、いえ。もう少しで終わりますので」
「その袋、お前に動かせるのか」
「……工夫すれば」
「動かせねえんだな」
ガルド様は大股で歩いてきて、私の前にしゃがみ込んだ。それでもまだ、目線は私より高い。
「いいか。できないことは、できないと言え。俺たちは仲間だ」
仲間。
その言葉が、胸の奥の硬いところに、じわりと染みていく。
私は唇を震わせながら、生まれて初めての言葉を口にした。
「……手伝って、いただけますか」
「おう」
ガルド様は、麦袋を片手でひょいと持ち上げた。
翌朝、ガルド様は部下を全員集めた。
「倉庫の残りは、今日から毎日ここに貼り出す。配分の記録は班ごとにつけろ。……俺一人じゃ、見落とすからな」
オークたちがどよめいた。隊長が弱みを口にしたのは、初めてのことらしい。
「隊長が、俺らを頼ってくれた!」
「任せてくだせえ! もう隠しません!」
いかつい魔族たちが目を潤ませているのを見て、私は少しだけ笑ってしまった。
◇
その夜。
「お前のおかげで助かった。礼がしたい。何が欲しい」
欲しいもの。
それもまた、考えたことのない質問だった。
何でもいいと言われると、本当に何も浮かばない。でも、一つだけ。ずっと昔に置いてきたものが、ふと頭をよぎった。
「あの……頭を、撫でていただけますか」
ガルド様が固まった。
たっぷり十秒は固まっていた。
「……頭を」
「はい。……駄目、でしょうか」
「駄目じゃねえ」
巨大な手が、おそるおそる持ち上がる。私の頭の上で、迷うように止まる。指一本で私の頭を覆えてしまいそうなその手が、ようやく、そっと降りてきた。
ぎこちなく、二度、三度。
「……こうか?」
「はい」
答えた声が、震えた。
母が亡くなってから、誰にも頭を撫でてもらったことがなかった。しっかりしている子に、そんなものは必要ないから。
ぽたり、と膝に何かが落ちた。
「お、おい! 痛かったか!? 力加減が――」
「いいえ」
涙が、止まらなかった。
「甘えても……いいんですね」
ガルド様は何も言わなかった。ただ、私が泣き止むまで、ずっと撫で続けてくれた。
◇
翌朝。
すっかり味をしめた私は、廊下ですれ違った若いオークに頭を差し出した。
「おはようございます。撫でていただけますか?」
「えっ、俺っすか!? い、いいんすか!?」
若いオークが嬉しそうに手を伸ばした、その瞬間。
「おい!」
地響きのような声が廊下に轟いた。
「誰彼構わず頭を差し出すんじゃねえ!」
「……駄目なのですか?」
「駄目じゃねえが! ……いや、駄目だ!」
「どうしてでしょう?」
「知らん!」
若いオークは、そそくさと逃げていった。
ガルド様は耳まで赤くして、そっぽを向いている。
「……撫でてほしけりゃ、俺に言え」
「はい、ガルド様」
くすりと笑うと、遠巻きに見ていたオークたちがひそひそと囁き合った。
「……隊長、完全に親父の顔してるな」
「聞こえてんぞ!」
◇
その日の午後、砦の空気が凍りついた。
門の前に、漆黒の馬車が止まっている。
降り立ったのは、銀の髪に黒い角を持つ男だった。整いすぎた顔には、何の表情も浮かんでいない。
ガルド様をはじめ、オークたちが一斉に膝をついた。
「ま、魔王様……!」
魔王様は砦をぐるりと見回し、整然と積み直された麦袋と、新しい帳簿に目を留めた。
「ガルド。先ほど届いた報告書が、以前よりずいぶん読みやすくなっていた。誰の仕事だ」
「は。……人間の娘です」
赤い瞳が、まっすぐ私を射抜いた。
背筋が冷える。それなのに、なぜか目を逸らせなかった。
魔王様は、低く告げた。
「――その娘を、王城へ連れてこい」
◆
ガルド様に付き添われて辿り着いた魔王城は、黒い山をそのまま削り出したような城だった。
玉座の間で、魔王様は頬杖をついて私を見下ろしていた。
「ガルドの砦の帳簿を直したのは、そなたか」
「はい」
「なぜ直した」
「……間違っていたので」
魔王様は、しばらく黙っていた。
「軍政局のヴェロニカの下につけ。人手が足りん」
「かしこまりました」
「部屋を用意させた。……寒くはないようにしてある。それだけだ」
案内された部屋には暖炉が赤々と燃えていて、寝台には毛布が三枚も重ねてあった。
机の上には、焼き菓子が山盛り。添えられた紙には、角ばった字で一言だけ。
『厨房の余りだ』
◇
翌朝、食堂で焼き菓子の話をすると、ガルド様の眉間に皺が寄った。
そこへ、なぜか魔王様が通りかかった。
「……菓子は、口に合ったか」
「はい。とても美味しかったです」
「そうか。余りものだがな」
ガルド様が、がたんと立ち上がった。
「陛下! その娘はまだ甘え方を覚えたばかりなんです! 急に甘やかしすぎないでくだせえ!」
「甘やかしてなどいない。余りだと言っている」
「厨房の連中が言ってましたぜ。陛下が夜中に叩き起こして焼かせたって」
魔王様は無言で踵を返した。
耳の先が、ほんの少しだけ赤かった。
「ったく……」
ガルド様は砦へ戻る前に、私の頭をがしがしと撫でた。
「何かあったら呼べ。いいな」
「はい」
◇
軍政局の執務室は、紙の山でできていた。
その奥で、紫の瞳の美しい女性が、凄まじい速さでペンを走らせている。
「ヴェロニカ公爵閣下。本日からお世話になります、エミリアです」
「人間に何ができるの。そこに座って、邪魔をしないで」
顔も上げずにそう言われた。
私は言われたとおり隅に座り、手の届く書類を黙って仕分けはじめた。
そして、すぐに気づいた。
辺境の各砦から届いている補給申請が、どれも少しずつ多すぎる。
(ガルド様の砦と、同じ……)
倉庫の残りを知らされない兵たちが、不安から多めに申告する。その申告を積み上げた結果、王城の備蓄が足りないように見えている。
その「足りない」穴を、ヴェロニカ様はたった一人で、寝る間を惜しんで埋めていた。
三日後、伝令が駆け込んできた。
「北のヴォルグ砦、雪崩で街道が埋まりました! 補給が途絶え、食糧は残り七日分です!」
ヴェロニカ様の顔から、血の気が引いた。
「……分かったわ。私がなんとかする」
その日から、ヴェロニカ様は執務室を一歩も出なくなった。
目の下には濃い隈。ペンを持つ手が震えている。部下たちが声をかけても、「下がっていなさい」の一点張りだった。
「閣下。少しお休みになってください」
「休めるわけがないでしょう」
ヴェロニカ様は、乾いた声で笑った。
「魔界ではね、強い者ほど他人に頼ってはいけないの。公爵が隙を見せれば、他の公爵たちに喰われる。……あなたには分からないでしょうけど」
分かります、と言いかけて、やめた。
代わりに、ガルド様からもらった言葉を思い出した。
「閣下。できないことは、できないと言ってください。私たちは仲間でしょう?」
ペンが、止まった。
長い沈黙のあと、ヴェロニカ様はかすれた声で呟いた。
「……できない。七日では、私一人では、間に合わない」
初めて聞く、公爵閣下の弱音だった。
「では、一緒にやってください。私だけでは無理なので」
私は仕分けた書類を広げた。
「各砦の申請には余りがあります。ヴォルグ砦の近くにある二つの砦は、実際には麦が余っているはずです。そこから回せます」
「でも、街道は雪で埋まっているのよ」
「山道を、荷を担いで越えられる部隊を知っています」
ヴェロニカ様は目を見開いた。そして、執務室の外で心配そうに待っていた部下たちを振り返った。
「……あなたたち。各砦に、実際の在庫を報告させて。今すぐ」
「は、はい! 閣下が、私たちに……!」
部下たちが目を輝かせて走り出す。
その夜のうちに、各砦とガルド様のもとへ伝令が飛んだ。私とヴェロニカ様も、転移陣で北の補給拠点へ向かった。
翌朝には在庫の報告が揃い、周辺の二つの砦から余剰の麦が、北の補給拠点へ次々と運び込まれてきた。
「呼ばれたから来たぞ」
積み上がった麦袋の山の前に、ガルド様が五十名のオークを率いて現れた。
「ガルド隊長。この山道を越えて、ヴォルグ砦まで麦を運んでいただけますか」
ヴェロニカ様が、一介の隊長に頭を下げた。
ガルド様はにやりと笑った。
「公爵閣下に頼まれちゃ、断れねえな。――野郎ども、出るぞ!」
それから五日後。
ヴォルグ砦から、全員無事との報せが届いた。
◇
王城へ戻ったその夜、私は執務室の机で、最後の報告書をまとめていた。
いつの間にか、うとうとしていたらしい。気がつくと、肩に黒いマントが掛けられていた。
顔を上げると、向かいの椅子に魔王様が座っていた。
「……陛下?」
「ヴェロニカから聞いた。この五日、ほとんど眠っていないそうだな」
魔王様は、私が書きかけていた報告書を取り上げて脇に置いた。
「そなたは、皆を頼ることを覚えた。ガルドも、ヴェロニカも、そなたに頼られて変わった。……だが」
赤い瞳が、静かに私を見つめる。
「そなた自身が疲れたときは、誰を頼る?」
答えられなかった。
ガルド様は砦に戻った。ヴェロニカ様も、今夜ようやく眠れたはずだ。疲れた自分を誰かに預けるなんて、考えたこともなかった。
でも、目の前のこの人になら。
そう思った自分に、少し驚いた。
「……魔王様に、お願いしてもよろしいですか?」
魔王様は、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
それから、ふいと視線を逸らした。
「……余でよければな」
ガルド様に撫でてもらったときとは、違う。
胸の奥が、とくんと小さく跳ねた。
◇
数日後、軍議の間に、魔王様と各軍の長が集められた。救援の功労者として、ガルド様も砦から呼び出されている。
「此度の補給危機、立案はエミリアだと聞いた」
「いえ。ヴェロニカ閣下と、軍政局の皆さんと、ガルド隊長のおかげです。私は……お願いしただけです」
魔王様は、ほんの少しだけ目を細めた。
「ガルドの砦で始まった改革を、ヴェロニカは全軍へ広げようとしている。此度の救援は、その価値を証明した。お願いされた者たちが、皆、自分から動いた。それができる者を、余は将と呼ぶ」
玉座から立ち上がった魔王様は、静かに告げた。
「エミリア。本日をもって、そなたを補給と軍政を束ねる将軍に任ずる」
ざわめきが広がる。
「人間が将軍に……?」
「魔界始まって以来だぞ」
私は慌てて一歩前に出た。
「あの、陛下。一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「申せ」
「将軍になっても……甘えて、いいんですか?」
魔王様は、迷いなく答えた。
「当然だ」
「……では、お膝に座ってもよろしいでしょうか?」
「…………は?」
軍議の間が、静まり返った。
魔王様の顔が、見る見るうちに真っ赤になっていく。
「陛下、膝はまだ早えです!」
「ガルド、黙れ!」
ヴェロニカ様が、ぷっと吹き出した。
「ふふっ……あなたの負けよ、陛下。当然だ、とおっしゃったでしょう?」
魔王様はしばらく石像のように固まっていた。
やがて、ものすごく小さな声で言った。
「……落ちるなよ」
座ってみると、魔王様の膝は思っていたよりずっと温かかった。腰に添えられた手が、壊れ物に触れるようにぎこちない。
「えへへ」
「笑うな」
その日から、魔王軍の兵たちは私のことをこう呼ぶようになった。
――甘えん坊将軍、と。
ついでに、ガルド様は私の護衛隊長として、王城に赴任することになった。
「陛下の膝から落ちねえよう、見張っとけってことだろ」
「ガルド、黙れ」
◇
それから数日後の夕方。
すっかり恒例になった魔王様の膝の上で、私は焼き菓子をかじっていた。
「……そなた、いつまで座っている」
「陛下が下ろさないので」
「下ろしていないのではない。立てと言っていないだけだ」
そこへ、伝令が駆け込んできた。
「失礼いたします! 人間の王国より、エミリア将軍宛ての書簡です!」
差し出された封筒の封蝋を見て、手が止まった。
見慣れた紋章。私の実家の紋章だった。
震える指で封を切る。
懐かしい父の筆跡で、たった一行。
『家族のために、帰ってこい』
腰に添えられた魔王様の手に、ほんの少しだけ力がこもった。
◆
その一行を、私は一晩中見つめていた。
夜が明けるころには、体が勝手に動いていた。寝台の上に、少ない荷物を並べている。
(帰らなきゃ。私がいないと、屋敷が回らない。私はしっかりしているから――)
「何してる」
戸口に、ガルド様が立っていた。将軍付きの護衛隊長として王城に残ってくれた彼の後ろには、ヴェロニカ様もいる。
「荷造り、ですか」
「……父が、帰ってこいと」
「で、お前はどうしたいんだ」
手が止まった。
どうしたいか。
帰らなければならない理由なら、いくらでも浮かぶ。けれど、帰りたい理由は一つも浮かばなかった。
「……分かりません。そんなこと、考えたことがなくて」
ヴェロニカ様が、静かに私の隣に腰を下ろした。
「なら、今考えなさい。時間ならあるわ。あなたが私にくれたみたいに」
長い沈黙のあと、私は膝の上で手を握りしめた。
「……帰りたく、ないです」
声に出した瞬間、涙がこぼれた。
ガルド様が、大きな手で私の頭を撫でた。
「よく言えたな」
◇
その日、魔王様は一度も私を膝に乗せてくれなかった。
廊下ですれ違っても、目を合わせてくれない。
「陛下。あの、お手紙のことで――」
「帰るのなら、止めはせぬ。そなたの家族だ」
それだけ言って、魔王様は去っていった。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
疲れたときは頼っていいと、言ってくださったのに。
◇
三日後、人間の王国から使節が来た。
玉座の間に通されたのは、父と妹のコレットだった。
二人とも、ひどくやつれていた。父の上着の袖口はほつれ、コレットの髪には艶がない。
「エミリア。迎えに来てやったぞ」
父は、魔王様には目もくれずに言った。
「お前がいなくなってから、屋敷はめちゃくちゃだ。帳簿は誰にも読めん。税の申告が遅れて、王家から監査が入った。ハロルド殿の家からは、婚約を白紙にすると言われた」
「……コレットとの婚約を、ですか」
コレットが、びくりと肩を揺らした。
「だって……ハロルド様が、階段のことを調べたの。使用人が見てたって。お姉様は、あのときそばにいなかったって」
つまり、冤罪だったと知られたのだ。
私は父を見た。
「お父様は、ご存じなのですね。私が、コレットを突き落としていないこと」
「ああ。ハロルド殿から聞いた」
それだけだった。
「……謝罪の言葉は、ないのですね」
「何を言っている。家族の間で、いちいち謝罪など必要あるまい」
父は苛立たしげに眉を寄せ、そして、いつもの言葉を口にした。
「お前はしっかりしているから、大丈夫だろう? 帰ってきて、家を立て直せ」
八年間、私を縛ってきた言葉。
けれど、今はもう、怖くなかった。
「いいえ」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「ここでは、しっかりしていなくても大丈夫なんです」
父が目を見開く。
「できないことは、できないと言っていいんです。困ったら、助けてと言っていいんです。頭を撫でてほしいと言えば、撫でてもらえるんです」
玉座の間の隅で、ガルド様が鼻をすする音がした。
「私は、帰りません。ここにいたいのです。――これは、私が自分で決めたことです」
父の顔が、怒りで赤く染まった。
「親に向かって、何を――」
「そこまでだ」
玉座から、低い声が響いた。
魔王様が立ち上がっていた。赤い瞳が、凍えるような光を宿している。
「エミリアは、我が魔王軍の将軍である。本人が帰らぬと言った以上、話は終わりだ。……使節殿を、門までお送りしろ」
衛兵に両脇を抱えられ、父とコレットは玉座の間を出ていった。
扉が閉まる直前、コレットが小さく「ごめんなさい」と言ったような気がした。
◇
その夜。
私は露台にいる魔王様を見つけた。銀の髪が、月明かりの中で揺れている。
「陛下」
魔王様は振り返らなかった。けれど、その背中から力が抜けていくのが分かった。
大きく、長い息を吐く音がした。
「……そうか。余は、安堵しているのか」
ぽつりと、独り言のように呟く。
それから、ゆっくりと私を振り返った。
「エミリア。余は、そなたが帰ってしまうのが怖かった」
初めて聞く声だった。
魔界最強の王の声が、かすかに震えていた。
「王が怖いと口にすれば、魔界が揺らぐ。だから余は、誰にも何も言えなかった。民を甘やかすことはできても、誰かに甘えることはできなかった。……手紙が届いた日も、引き止める言葉が言えなかった」
だから、目を合わせてくれなかったのだ。
私は一歩、魔王様に近づいた。
「魔王様。怖いときは、怖いと言ってください。私たちは、もう他人ではないでしょう?」
ガルド様からもらった言葉。
ヴェロニカ様に渡した言葉。
それが今、ようやく、一番渡したかった人に届いた。
魔王様は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ぎこちなく私の手を取った。
「……エミリア。余のそばにいてほしい」
それは命令ではなかった。
初めて聞く、魔王様のお願いだった。
「将軍としてだけではなく。……余の、妃として」
頬が、熱くなる。
でも、もう遠慮はしない。私は甘えん坊将軍なのだから。
「はい。喜んで。……その代わり」
「その代わり?」
「魔王様も、私に甘えてください」
魔王様は真っ赤になって、それから観念したように、小さく笑った。
「……善処する」
◇
その後、ヴェロニカ様の調べで分かったことがある。
実家の領地は、監査で父が隠していた不正支出が発覚し、王家の預かりとなった。私に触らせなかった父個人の出納帳から、見つかったのだという。父は爵位を返上した。
コレットは遠縁の家に引き取られ、一から家政を学んでいるそうだ。
その報せを聞いても、不思議と胸は痛まなかった。
今の私には、帰る場所がちゃんとあるのだから。
◇
ひと月後。
執務室の長椅子で、私は書類をめくっていた。
膝の上には、銀色の頭が乗っている。
「……言っておくが」
目を閉じたまま、魔王様が言った。
「これは、余が疲れているからだ。甘えているわけではない」
「はいはい。分かっていますよ、魔王様」
私はそっと、銀の髪を撫でた。
かつてガルド様が、私にそうしてくれたように。
魔王様の眉間から、ふっと力が抜けていく。
扉の隙間から、ひそひそ声が聞こえた。
「……今度は逆かよ」
「ふふ。陛下、ずいぶん素直になったわね」
「聞こえているぞ」
目を閉じたまま魔王様が言い、私は声を殺して笑った。
しばらくすると、膝の上から穏やかな寝息が聞こえてきた。
魔界最強の魔王様は、どうやら私より甘えん坊らしい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
甘えん坊将軍エミリアと、甘えるのが下手な魔王様のお話でした。
少しでも「甘いな〜」「エミリア、よかったね!」と思っていただけましたら、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると嬉しいです。
ブックマークも、今後の執筆の励みになります。
好評でしたら、ガルド隊長やヴェロニカ閣下の活躍も描いてみたいと思っています!




