ノミュアン :約2000文字
とある会社。そのオフィスの一角で、電話のベルが鋭く鳴り響いた。新入社員の男はびくりと肩を跳ねさせ、反射的に背筋を伸ばした。喉をごくりと鳴らし、少し遅れて受話器を取った。
「お電話ありがとうございます。 株式会社――の――でございます」
――よし。
受話器に触れる直前までは、喉の奥が引きつるような緊張と忌避感があった。だが、いざ声を出してしまえば、喉元過ぎればなんとやらだ。社名と自分の名前を淀みなく言い切った瞬間、胸の奥にふっと小さな灯りがともったように安堵が広がり、彼は自信を取り戻した。
しかし――。
『どうも、株式会社ニャミョンのノミュアンですけど』
「えっ」
『先日注文したものを八つに増やしておいてください。私の名前を言えば伝わるはずですので。では』
「えっ、いや、え……?」
『はい?』
「あ、すみません。もう一度お名前をお伺いしても……」
『ノミュアンです。では、よろしく』
「あ、ちょっと!」
ぷつりと通話は切れた。受話器を握ったまま、彼はその場で固まった。ままるで砂漠の真ん中に一人取り残されたような感覚が、背中を這い上がってきた。
しばらく呆然とした後、静かに受話器を置き、彼は重い足取りで上司の席へ向かった。
「あの、課長……」
「ん? どうした」
「先ほどお電話がありまして……」
「おう、誰からだ?」
「えっと、株式会社ニャミョンのノミュアンさんからです」
「おん? 誰だって?」
「ニャミョンのノミュアンさんです」
「は?」
「先日注文したものを、八つに増やしてほしいとのことでした。では」
「いや、ちょっと待て。行くな行くな。先日の注文って何のことだ?」
「いえ、詳細は……名前を言えばわかる、とおっしゃって……」
「ああ。で、その名前は?」
「ノミュアンさんです」
「だから誰!?」
「いや、僕もはっきり聞き取れなくて……」
課長はギシッと椅子を軋ませて机に片肘をつくと、大きく息を吐いた。
「あのなあ、だったらちゃんと聞き返せよ。研修で習っただろ? まったく、最近の新人は『電話が苦手です』とか言うけどな、それ、甘えだからな? 苦手なら苦手なりに集中するとか、メモ取れよ!」
「すみません……」
「もういい。あとでそれっぽい記録を探すから、戻って仕事しろ」
「はい……」
彼は肩を落とし、自席に戻った。
どうにも釈然としない思いが胸に残ったままだったが、しぶしぶパソコンに向かった。だがそれから数分後、再び電話が鳴った。
心臓が跳ね上がり、反射的に伸ばした手が宙で止まった。逡巡の末、彼はおそるおそる受話器を取った。
『おー、さっきと同じ人ね。ノミュアンだけど、伝え忘れたことがあって。ンプボノの件なんだけどさ』
「ンプボノ……?」
『そう。そっちはヌハヌンしておいて』
「ヌハヌン!?」
『はい、じゃあよろしくー』
「あ、いや、ちょっと!」
『ん?』
「あの、度々すみません。お名前ですが、漢字ではどのように書かれるのでしょうか……?」
『ああ、普通のノミュアンだよ』
「普通の……」
『そう、普通のノミュアン』
「ノミュ……ノミュア……野村さん、ですか?」
『いや、ハムハフンだってば』
「か、変わった……!」
『だから普通のンフククトゥだよ。モンフのヒに、ファンタウアのピと書いて、フホンヌンね』
「あー……なるほど……」
『じゃあ、よろしくー』
「あの! ……先ほどの件なんですが」
『ん?』
「オーダーをアジャストしてコミットする、ということでよろしいですね? 必要であればフォローアップし、ボトルネックはこちらでブラッシュアップいたしますが、もちろんディシジョンメイキングはそちらにございますのでご安心を。エビデンスッ、オポチュニティッ」
『ああ、そうそう! ハナマアンをオフォットしてツ、フルクススとパジェンデだから、ホイトイタイタイトとソポにしてニンポアライオンをトゥントゥメンでアッセンブアだよ』
「……返された」
『ん? じゃあ、よろしくね』
「あ、あの!」
『ん? なに?』
「正直に申し上げますと……あなたのかつへ、かつ、かつぜふが悪くて、その……」
『ん? ごめん、よく聞こえなかった。なんて?』
「あ、いえ……ご用件、確かに承りました」
『はーい、ありがとねー』
通話が切れた。彼は受話器をそっと置き、大きく息を吐いた。
両手で頭を抱え、髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。しばらくして、パソコンでいくつかのサイトを閲覧すると、彼は静かに受話器を取り上げた。
非通知設定にして、番号を入力した。呼び出し音が鳴る――。
「……あ、どうもー! こちらンハータ株式会社のヒヤハンムラでございますがねえ――」




