時の砂
佳津男は、昔からの時計職人であった。いつでも、片目にレンズをはめて時計の歯車を睨んでは日々を送っていた。彼の妻は、もう十年以上前から亡くなっていたが、最愛の妻であった。それで、彼の住む団地の自宅の部屋には、壁に立てかけた大きな振り子時計があったのだが、その時計の針は、妻の亡くなった時刻で止まったままにしてあるのであった。それは、彼が意識的にしたことであった。そして、彼は、飽きもせずに、何度も、その振り子時計を分解して、修理し、また復元するという訳の分からない作業に、妻への愛着の念を込めて、専念するのであった。彼は、孤独であったが、孤独ではなかった。いつもそばに、あの振り子時計がいた。そして、そこには亡き妻がいたのだ。昼間は、都内にある小さな街角の時計店で商いをしていたが、団地に帰宅すると、いつも振り子時計をいじっているのであった。
そんなある日のことである。佳津男は、団地の自室で、時計のネジを回していた。すると、誰もいないはずの隣室から話し声がする。不思議に思って、耳を澄ませていたが、やはりそうだ。聞こえるのである。男女のようだ。声高に話している。最初は空耳かとも感じたが、どうもそうでもないらしい。それで、好奇心に負けて、とうとう彼は、隣室との壁に耳をつけて、話し声を伺った。
「だからさ、俺は、その客に言ってやったのさ、こんな時計、質屋に持って行きな、って」
「そいじゃ、あんた、その客、返したのかい?それじゃ、儲けになんないじゃないか」
聴いて、驚いた。その会話は、ずっと以前に、まだこの団地で、妻が生きていた頃の自分と妻の会話ではないか。こんな馬鹿な話はない。そんなことは、現実にあり得るはずがない。
まるで、夢の中にいて、必死になって現実に戻ろうとするかのように、彼は焦った。何とかしなくては、と言う強い思いで、彼は、部屋を出ると、隣室の扉を開けようと懸命になった。しかし、頑として、扉は開かない。いったい誰なんだ。この中にいるのは誰だ。
そこで、彼は、急ぎ足で、階段を駈け降りると、管理人室へ向かった。
「管理人さん?」
誰もいない。しかし、ここにあるはずなのだ。住居人名簿が。それで、誰もいないのをいいことに、彼は土足で上がり込むと、管理人室の戸棚から、一冊の名簿を抜き出すのに成功した。
ページを繰る。あった。306号室だ。そして、また驚いた。そこは、空白であった。いないのである。隣室は、空室のままに記録されている。そんな馬鹿な話があるか。俺は、確かに、この耳で聞いたんだ。そんなわけがない。
彼はまた階段を駆け上がった。そして、再び、隣室の扉を開いた。するとである。扉が開いた。何の抵抗もなく、スッと扉が開いた。彼は躊躇せずに、中に入った。そして、驚愕した。
そこは、空室であった。何もない。家具ひとつなく、白い壁が続いている。そして、ただひとつだけ、大きな壁掛け時計が壁際に置かれてある。それは、彼の部屋にあるものと、まったく同じであった。彼は、その前に座った。そして、そっと、その時計に触れた。
その瞬間に、時計は、ササッと崩れて落ちていく。すべてが砂で出来たかのように、崩れ落ちていき、床の上に砂の山が出来上がった。驚いた。これは、砂なのか、それとも、俺の夢か?
次の瞬間に、前の壁に、鏡が写った。そこには、若き日の自分の姿が映し出されていた。そして、あっという間に、鏡も、砂の山も、消え失せていた。すべてが幻だというのか?これは、俺の妻と時計に対する行き過ぎた愛着への神の戒めだとでもいうのだろうか。でも、本当のことは分からないままであった。彼は、壁際で、壁に向かって首をうなだれて、ただ黙っているしかなかったのである.....................。




