くまのぬいぐるみ
――昼休みが終わり、教室に戻った。
隣には、なぜだか決意を宿した顔の黒田幸恵が座っていた。
胸の奥がざわつく。……覚悟を決めた人の顔だ。
ほどなくして、また男子の一団がやってくる。
「飯、うまかったか?」
「また吐かせてやるよ。」
薄笑いのまま距離を詰めてきたその瞬間、幸恵が彼らの前にすっと立ちはだかった。
両腕を広げ、私の前を完全に塞ぐ。
……震えてる。
膝も、肩も、指先までも。怖くてたまらないのに、それでも退かなかった。
「……や、やめて!」
「なんだよ、こいつ。」
「お前も殴られたいのか?」
肩をいからせる声。空気は十分に危険だ。
それでも幸恵は俯かなかった。少し身をすくめながら、もっと大きな声で言う。
「そ、そんなこと続けるなら、先生に言うから!」
そのとき、リーダー格の彼女らしい女子が割って入った。
「もういい。――正義の味方ごっこ、したいんでしょ。」
転校初日を殴るのは分が悪い。
しかも男子受けのいい顔と物腰。なおさらだ。
彼女は最後に私を一瞥して言い捨てた。
「あんた。あの子庇って同じ目に遭いたくなかったら、ほどほどにしなよ。」
――“いつでもお前も殴る”。そういう通告。
チャイムが鳴り、彼らはいったん散った。
席に戻るや否や、幸恵がノートを開き、さらさらと何かを書いて私に差し出す。
【もう、見て見ぬふりはしない。】
意味が分からない、という顔をしてしまったのだと思う。
――どうして? どうしてそこまで?
私の表情を読んだのか、幸恵はまたペンを走らせた。
今度は慎重に、少し笑みまで添えて。
【本当は、私も君に似てる。】
【小さい頃、似たことたくさんあった。】
【だから、君と友達になりたかった。】
少し迷って、私はペンを取る。
【……意味ないよ。】
【私を助けたら、君も標的になる。】
読み終えた幸恵の眉間が、わずかに寄る。
怒りというより、悔しそうな顔。彼女は急いで書いた。
【“意味なくしない”。】
【いじめは怖い。でも――】
【それでも、私は“自分で選んで”やってる。】
私はぼんやり見つめ、それから一行を足す。
【……さっきも言ったけど、偽善。】
可哀想に見える誰かに手を差し伸べて、
少しの間“良い人”をやって、
飽きたらいなくなる人を、私はあまりにも多く見た。
だから、信じない。
けれど幸恵は、はっきりと首を横に振った。
そして、短く。
【偽善に見えてもいい。】
【さっきの一分だけは、痛くなかったでしょ。】
【私は、君が痛くない方がいい。】
その文字を見て、私はそっと顔をそむけた。
――期待できなかった。
いや、正しくは“期待するのが怖かった”。
心を閉ざして生きるって、“期待しない”ってことだ。
期待しなければ、失望しない。
好意は長居しない。いつだってそうだった。
どうせ数日様子を見て、去っていく。
最後は、私も捨てられる。
それが、私――ゆうき かなの結論。
だけど――
次の日も。
「おはよう。」
その次の日も。
「おはよ、かな。」
黒田幸恵は、毎日同じように挨拶した。
まるでそれが自分の役目かのように。
そして休み時間のたび、男子が近づく気配がすれば、いつの間にか私の前に立っていた。
数日後。二人きりになれた隙に、幸恵が小さなメモ帳に書く。
【最初の友達は誰?】
身体が固まる。
誰にも聞かれたことのない問いだった。
私はゆっくり、ゆっくり、ためらってから書く。
【くまのぬいぐるみ】
幸恵の目が丸くなる。
馬鹿にされると思った。鼻で笑われるのだと。
……けれど、そうはならなかった。すぐに次の質問が滑り込む。
【名前は?】
息を一つ飲んで、私はその名を書く。
【舞雪】
雪が舞う。
白く、静かに。
私が付けた名前だ。
十二歳のとき、ゴミ袋の中に捨てられていた、破れて汚れたくまのぬいぐるみ。
片耳はちぎれ、毛は湿って黒ずんでいた。
それを見て、私は思った。
――あ、私と同じだ。
だから連れて帰った。
そして言った。
――舞雪。今日から、友達ね。
それが、最初の友達。
幸恵はこくりとうなずき、真剣に書く。
【いい名前。私も会ってみたい。】
私は、ごく短く返す。
【死んだよ】
幸恵のペンが止まった。
私は続けた。
今まで誰にも言わなかったことを。
【家の“化け物”が燃やした。】
【ライターで火をつけて、外に放り投げた。】
【『そんなゴミ抱いて寝てるから、お前は母親に似ないんだ』って。】
化け物、と書いたけれど、意味は“父親”。
あの人はいつも言う。
「母親を殺したのはお前だ」
「生まれてくるべきじゃなかった」
「人間じゃない、感情のない化け物だ」
だから怖かった。
そして同時に、少しだけ安心した。
少なくとも“母さんに似てる所は一つもない”って言われたから。
その日だけは、なぜかそれが慰めになった。
そこまで書くと、幸恵が小さく息を呑み、「ひゃっ」と変な声を出した。
大きな目をさらに見開き、おろおろしながら慌てて走り書きする。
【ごめん……】
その顔が、あまりにも真剣で。
私は、思わず笑ってしまった。
ぷっ。
唇の端が上がる。
喉が少し軽くなる。
胸のつかえが、ほんの少しだけほどけた。
理由は分からない。
たかがぬいぐるみの話に、本気で驚いて、本気で謝るその表情が可笑しかったのか。
“気持ち悪い”とか“変だ”とか、ひと言も言わないのが不思議だったのか。
ただ、笑えた。
「――あ、笑った。」
その一言に、私は反射的に顔をそむけた。
「笑ってない。」
「うそ。めっちゃ笑ってたよ?」
「見間違い。」
「はいはい、見間違いってことにしておきまーす。」
軽くて、あたたかい調子。
その声色があまりに心地よくて、無意識にもう一度、口角が上がる。
笑うって、嬉しいってこと。
嬉しいって、いいことがあったってこと。
そんな感情、私には一生縁がないと思っていたのに。
その感覚は、頭の中でいつまでも反芻され、消えなかった。
そして、放課後。
廊下で二人きりになったとき。
家まで一緒に帰ろうと無邪気に笑う黒田幸恵に、
私は、とても小さな声で口を開いた。
「……私、ゆうき かな。」
「……友達になって、くれる?」
初めて、人に心の扉を開いた瞬間。
心臓が痛いくらい鳴って、息が詰まりそうだった。
生きていて、愛なんて受け取ったことがない。
優しい言葉はすぐ非難に変わり、興味はたちまち冷めて去っていく。
だから怖かった。
断られたら、もう立ち直れない気がして。
けれど――
「……うん、いいよ。」
床を見ていた私は、思わず顔を上げた。
差し出された手。まっすぐな瞳。
「私は、黒田幸恵。」
「友達になろう、ゆうき かな。」
――ゆうき かなの、二人目の友達だった。




