ゆうき かな (プロローグ)
結城かな、十六歳。
誰にも呼ばれない、私の名前。
よく耳にするのは――
「化け物」、「母親を喰って生まれた女」、「縁起の悪い奴」、
そして……「感情のない女」。
時々、それが本当の名前なんじゃないかと思う。
母は私を産んで死んだらしい。
だから母の顔も、母への感情もない。
一度だけ、母のことを聞いたことがある。
「お母さんって、どんな人だったの?」
その一言が父を刺激したのかもしれない。
その夜は、いつもよりずっと酷く殴られた。
いつの頃からか、父は知らない女を家に連れ込むようになった。
最近では、ほとんど毎日のように。
ある日は「勝手に入ってくるな」と言われ、蹴られた。
表情のない私を見て、父は笑いながら言った。
「やっぱり化け物だな」って。
でも、本当の化け物は――目の前にいたのに。
「……」
「……ねぇ、君!」
「名前は? 迷子か?」
「かい……かな。結城かなです。」
「ああ……いい名前だね、はは……」
……この人もきっと、心の中で思ってる。
“化け物みたいな子だ”って。
「とにかく、早く家に帰りなさい。」
帰れるなら、とっくに帰ってる。
そう言いたかったけど、もういなかった。
見上げた空には、赤く沈む夕陽。
いつもの風景なのに、今日はやけに寂しく見えた。
その時、背中を蹴られた。
振り向くと、見慣れた顔。
いつも私をいじめる男の子たちだった。
「おい、なんで俺らの道塞いでんだ?」
「陰気なツラしやがって。」
「いっ……!」
一人が私の手首を踏みつけた。
焼けるような痛みに、思わず声が漏れた。
「リストカットでもしてんのか? 気持ちわりぃな。」
「他の子みたいに笑えよ。それができねぇからいじめられんだろ。」
……
「もういい。お前に何言ってもムダだな。」
「行くぞ、今日はつまんねぇ。」
二人は笑いながら去っていった。
――私だって、笑いたくないわけじゃないのに。
《 十年前 》
……こういう感じ、でいいのかな?
鏡の前で笑う練習をした。
そして学校で、初めてクラスメイトに笑いかけた日――
「ひっ……ひぃぃぃぃん!」
にこっと笑っただけなのに、
その子は泣きながら逃げ出した。
……違うのかな。
首を傾げて考えた。
その時、騒ぎを聞きつけた先生が入ってきて、
「いじめはやめなさい!」と怒鳴った。
もちろん、誰も私の味方なんてしなかった。
家に帰ると、それも父の耳に入っていたらしく、また殴られた。
「クソガキが……母親を喰っただけじゃ足りねぇのか?
今度は子供まで喰おうってのか!」
「化け物は、生まれちゃいけなかったんだよ!」
酒の臭い。
その夜の痛みは、不思議と体より胸が痛かった。
《 現在 》
思い出したくもない記憶を振り払い、
私は近くの公園でブランコに座り、ただ時間が過ぎるのを待った。
死のうと思ったこともある。
でも、母に会ったら何て言えばいいか分からなくて、やめた。
母への記憶も、感情もないけど――
愛情がなかったわけじゃない。
母もきっと、生きたかったのだろう。
でも、それだけ。
もう懸命に生きる気力なんて、残っていなかった。
だから私は、この哀れな命が消えるのを、ただ待っている。
今日も、明日も。
息が詰まりそうに苦しい夜には、自分を傷つける。
手首を切ると、焼けるような痛みとともに血が溢れ、
少しだけ呼吸ができるようになる。
“痛み”という名の逃げ場所。
私に残された、たった一つの抵抗。
そんなことを考えているうちに、夜は更けていた。
時計を見ると、午前一時。
そろそろ帰ろう。
家にいる“怪物”が、目を覚まさないうちに。
明日は――やっと、死ねますように。
いつもそう願って眠るけれど、神様なんていないらしい。
今日もまた、目が覚めてしまった。




