第六章・文化祭準備〜2〜
第六章・文化祭準備〜2〜
二日後
この日も秀次と御影は屋上にいた。御影の顔がアスルに知られたとして、その対策を練ることにしていた。
「最近は半崎をまったく見ないんだよな。またお前の方か?」
「いや、こっちにも来てないと思うけど」
正体がわかったから監視を緩めたとは考えにくかった。秀次から見てもアスルにとって御影は危険人物だ。強硬策を使ってもいいほどの相手にすら思える。
なんにせよ半崎や一年生の二人が監視についていないことはかなり楽になると御影は言った。
「本部とも連絡取りやすいからな」
カペラとの連絡だ。この連絡は傍受されないように特殊な電波を使って行われている。ただしその電波の届く範囲がかなり短いらしく、御影は本部と連絡を取るためだけに島の最北端にまで移動しなければならなかった。
御影が楽だと言ったのは、そこまでの移動中に尾行を気にしなくてよいという点だった。
屋上に上がってくる足音が聞こえてきたので、会話はそこで打ち切りとなった。念の為屋上に来る人物を確認しておこうと思っていると、妙に足音が慌ただしいことに気がついた。
「なんか急いでるな」
御影が言った直後にその人物の顔が見えた。生駒健吾だった。秀次を見るなり、健吾は大股で詰め寄り、普段は絶対に見せないような剣幕で怒鳴るように言った。
「お前、月見になにしたんだ」
「……は?」
健吾が秀次の胸ぐらをつかんだ。
「おいどうした。穏やかじゃないな」
御影の言葉は健吾には届かない。
「さっき、月見が星雲高校を退学するって言ったんだ。あの生徒会長の月見がだ。なんでも海外の大学に行くんだとさ」
「まてまて、状況が突拍子もなさすぎるだろ」
「それで理由を聞いたんだ。そしたら代わりに、こんなものを聞かせてくれたよ。このメモリに入っていたものだ。録音してきた」
月見は健吾に、私がここにいる必要はないの。と言ってからこの音声を聞かせた。健吾はその音声を聞いたとき、すべて幻聴なのかと思った。あまりにも信じられなくて、聞きたくもない言葉がたくさん出てきたから。
「月見は最後に笑ってこう言った。ほら、私はこの学校には必要ないの、って」
健吾は携帯に録音したその音声を秀次と御影に聞かせた。御影はこんなことを思う人間はどこにでもいるのだなと、冷静な感想を抱いた。だが、秀次は冷静ではいられなかった。
「ちょっと待て! 俺はこんなこと一言も言っていない! 会長は友達だぞ!」
「なら、こうして音声があるのはどうしてだよ」
健吾はとても友に向ける顔をしてはいなかった。今すぐに殴りかかられても、それが普通に思えるほど異常な表情をしていた。
「知らないって! 俺によく似た声なんじゃないのか?」
録音された秀次の声を聞いても取り乱さなかった御影が健吾の熱を冷まそうと思い、二人の始まりかけた喧嘩に割って入った。
「こいつがそんなこと言うとは思えないけどな。これインタビュー形式だよな。されてたら身に覚えあるんじゃないか?」
健吾が胸ぐらを揺らして問い詰めた。「どうなんだ?」と。
「だからないって」
誓ってそんな記憶はない。されそうになってもインタビューなんて断ることだろう。御影はもう一度音声を聞かせてくれと健吾に言った。何か、違和感があったようだ。
「……お前、苗代さん、何て呼ぶっけ」
そう言われて秀次は記憶を探った。秀次は苗代月見のことを……
「あ、最近は会長か苗代会長としか呼んでないな」
三人は改めて音声に聞き入った。すると録音音声は秀次の声でたしかに「苗代さん」と言っていた。秀次は健吾の手を振り払って自信満々に言った。
「これでわかっただろ。俺じゃないよ。会長の悪口なんて考えても浮かばない、これは誰かが真似して作ったんだよ」
会長と仲のいい友達が裏では会長を悪く言っていると知ったら、それは傷つくだろうな。健吾はまだ秀次の声が偽物のことに半信半疑ではあるようだったが、次に考えなくてはならないことがある。なぜこんな音声を作ったのかということだ。
「それはおそらく、海外の大学に引き抜くためだろうな」
御影が言った。星雲高校を退学する後ろめたさをなくすために、と。
「スカウトされても、最初は断ったんじゃないのか。それでこんな音声を作った」
あなたのことを正当に評価しない出来損ないの生徒たちに囲まれていてはいけない。最適な場所で君の才能を開花させよう。
そんな具合に。
(九月に大学の授業を始めることが多いよな。もう九月の中旬だ。随分と強引なことをする)
それだけアスルにとって苗代月見は重要な能力者なのだと予測できる。そしてなぜこのタイミングなのか。このことについても御影には予測できることだった。悲しいが、生駒健吾の影響なのだろう、と。
考え込んでいる御影の横で、健吾が頭を下げた。
「ごめん。疑って悪かった。まったく冷静じゃなかった」
秀次は陰口を言うような無責任な人間じゃない。この学校に来て最初にできた友達を疑ってしまった。
「気にしてないよ。彼女が退学するとか言ったら冷静じゃいられないって。それよりも、どうするんだ?」
このまま月見が海外に飛び立つのを見守っているのか? この問いに対する健吾の答えは決まっていた。
「そんなわけない! なんとか引き止めてやる!」
星雲高校に恨みを持ったまま海外に送り出すなんて、そんなことは絶対にさせない。
秀次は御影にだけ聞こえるように小声で言った。
「これって、まさかアスルと関係しているのか?」
「さあな。だが可能性は高いな。会長も重要な被験体だからな」
アスルが関わっている可能性が高いとしたら、到底黙認できることではない。四季に関する情報が転がり込んでくる可能性もある。
月見と直接話をしたいところではあったが、海外に飛ぶ準備という名目で本島に戻っており、しばらく会えないとのこと。
「会長も本気か。説得は骨が折れるかもな。これまでに、そんな素振りはなかったのか?」
御影が言うと、健吾はすぐに言った。
「まったくない……あ、でも一つ気になっているのが、一年の飛鳥さんが俺に会いに来たんだよ。そこで、会長と別れてくれって言われた」
そのときの話を詳しく話してもらった。飛鳥は月見のことをこう言っていた。
「世界に変革を与える人間」
健吾は月見の価値をまったくわかっていない。少しの冗談もはさむ暇なく飛鳥はそう力説したのだ。
秀次と御影は、この情報で確信した。アスルが関わっていると。
「御影、どうする?」
「ん? そうだな」
正直なところ、月見が海外に渡ったところで御影と月見はそこまで親しい間柄でもないので、海外進出おめでとうという具合に送り出してもいいぐらいだ。しかし……。
(アスルが一枚かんでいるのであれば見過ごすわけにもいかない。それにやつらの、薄汚い手段は、どんな目的があるにしても単純に叩き潰したくなる)
月見と直接話すことができないのであれば、今できることをするしかあるまい。
「どうせ電話も出てくれないだろ?」
「ああ、無反応だよ」
ただし、月見は来週の月曜日に一度だけ学校に戻ると健吾に告げていた。チャンスがあるとすればその一日だ。おそらく、スカウトと共にこの学校を去る月曜日が最初で最後のチャンスだ。
「相手がこんな準備をしてきたとなれば、こっちも相応の準備をしなくちゃな」
珍しく御影がニヤリと笑っていた。
文化祭の準備に隠れながら、情報収集をする。御影はそう言ってから続けた。
「健吾はこの音声の生徒に当たれ、誰なのかは何とかして調べるんだ。それでこれが本当かどうかを調べろ。ま、作りものだろうけど。秀次は先生たちからどういう経緯があったのかを調べておいてくれ。表面的じゃなくて、深層をな」
「わかった」
健吾は呆気に取られた顔をして御影を見ていた。いつも、健吾と呼び捨てにされていただろうか。目の前の御影に無反応な秀次に対しても不可解な顔を向けた。
「なんか、いつもと御影君の様子が違うような」
「いや、いつもこんな感じだ」
「こんな感じだな。ところで、御影は何をするんだ?」
話を持ち出したはずの健吾を置いてけぼりにして、会話は進んだ。御影は音声データの解析をすると言って、健吾からUSBメモリをもらった。
「俺たちには腕利きのエンジニアがいるからな」
古川のことだと秀次にはわかった。御影は先日のUSBメモリの中身の閲覧を依頼した日以降、古川を高く評価していた。
「よし、じゃあ行くか」
御影がそう言うと、健吾が復活した。「わかった! 早速聞き込みだ!」と言って屋上を飛び出した。
九月中旬でも太陽の光を遮るものがない屋上はかなり暑い。真っ白な床に反射した光も眩しい。そんな長話に適さない場所に秀次と御影は残っていた。アスルのことを知っている二人だ。
「さてと、秀次に頼んだことだけど、どういうことかわかるな?」
「漆原先生だろ?」
「そういうこと。今日の昼から当直だったはずだから、それに合わせて行ってみてくれ。やれるな?」
七月に保健室で行われていることを知ってから、一人で漆原に会いに行くのは初めてのことだ。それでも、弱音は言っていられない。御影に頼りきりではいけないとずっと秀次は思っていたのだ。それに、御影よりはまだ安全に行える。
「大丈夫。俺が行くよ」
教室に戻ると、文化祭の準備は着々と進んでいた。その光景を見ていると、月見の言った、「私がいなくても……」という言葉が現実味を帯びてしまいそうだった。
残念ながら、それは真実かもしれない。この世界に替えの効かない人間というのは珍しいから。だが、それは全体で考えたときのことであって、個人にとってはそうではない。
(健吾にとっては絶対に替えの効かない人間だよ)
秀次は文化祭の準備という環境を利用し、左腕にカッターナイフで傷をつけた。誰にも見られないようにやったつもりが、偶然にも四季が自傷の瞬間を見ていたことには驚いた。
一緒に保健室行くと、よりにもよって四季が言うものだから少し可笑しかったが、一人で行くと言い張った。
「四季は文化祭の準備があるでしょう。演劇組なんだから」
「でも……」
そうして保健室に一人で入ることに成功した秀次の目の前に、今、漆原がいる。白衣を着て、保健医としてイスに座る漆原がいた。
「珍しいお客さんだこと」
左腕の傷を消毒し、細菌が入らないようにガーゼを巻いてくれた。
「それで、何の話かな。わざとケガして来るなんて」
さすがに医者だな、と秀次は内心で思った。かけ引きで情報をこぼすような相手ではない。真正面から秀次は聞いた。
「苗代会長の退学の件、漆原先生たちが関わっていますよね」
「あら、まだ私のことを先生と呼んでくれるんだ」
保健室には二人の他に誰もいなかった。これだけの設備を整えているから星雲高校の生徒たちがみな健康なのか、それともアスルの行う「実験」のおかげで健康なのか。
どちらにせよ、話すのは今しかない。たとえ相手がかつて憧れた人であろうと、毅然とした態度で挑め!
「昔からお医者さんのことは先生と呼ぶようにしているんですよ。それで、どうして苗代会長を海外の大学に連れて行こうとしているんですか? 能力に関係していると?」
「なんだ、わかってるじゃないの。ここで苗代さんの能力について詳しく話すのは面倒なことだけど、上層部は苗代さんの能力を高く評価しているんだよ」
「会長が時代を動かすリーダーだと?」
漆原は表情を変えなかったが、秀次を鋭い目つきで観察していた。
「まったく、飛鳥さんは話し過ぎだ。だがまぁ、説明は面倒だからそういう認識でいいよ。苗代さんをなるべく早く実用段階にしたいらしいよ」
「まるで物みたいに言いますね」
漆原は微笑した。
「上層部は君の言うとおり、物だと思っているだろうね。知ってるかい? 戦争中、人の命は何よりも安くなる。君は知る由もないことだが、アスルは今、ある種の戦争状態にある」
普段は鈍い秀次ではあるが、この時は記憶の検索に脳内信号が高速で動いてくれた。漆原のペースに呑まれてはいけない。
戦争状態という言葉に、一つだけ記憶のストックがヒットした。
「ミーレス……というのが関係していると?」
「……ほう」
漆原もまた思考を巡らせる。この高校生にどこまで話すべきか。どこまで話してもいいのか。どこまで話してあげるべきか。
「何をしたいのか、そこに興味はありません。戦いに高校生を参加させるというのは、感心できませんが」
「ははは、アスルグループは容赦を知らないんだよ」
使える駒はとことん使う。それがたとえ高校生だろうと知ったことではない。高校生の人生を破壊しようと知ったことではない。
漆原はさらに続けた。
「言っておくが、たしかに私たちは苗代月見を海外にスカウトした。それでも最後に、決断したのは彼女だ。一般的に考えて海外の大学にスカウトされて入学するというのは喜ばしいことだろう。それを君たちが止めるというのは、本当に正しいことか?」
そして彼女を海外の大学に進学させた場合、彼女はその能力を使い高い確率でこの世界に、歴史に名を残すことになる。それは人間にとってこれ以上とない名誉なことだ。
「君たちが彼女と一緒にいたいなんて理由で、彼女をここに留めることは本当に正解かい? 自己満足ではないかい?」
秀次は鼻で笑った。
「それなら、あんたたちも、それが正しいと決めつけて自分たちの考えを押し付けているだけだ。会長を引き止めることを、とやかく言われる筋合いはないな」
勝手に与えた能力で、その能力が素晴らしいから私たちに協力してくれなど、これ以上の自分勝手はそうそうない。
漆原は一本取られたという顔で笑った。
「それもそうだね。なるほど、なら君に一つ、面白いことを教えてあげよう」
漆原は、博士が生徒の質問に自信満々に答えるような口調で言った。
「私たちは、君たちの能力がどれほどのレベルにあるのかを、可視化することができる」
測定器があるのだ。対象の人物の遺伝子情報を得られるものがあればすぐに測ることができる。その測定器によると、苗代月見の能力値がここ最近、急激に落ちている。
(まあ、厳密には能力の数値ではなく、能力を扱う素質の数値なのだけど)
漆原はその数値の減少は人類にとっての損失だと言った。お互いに自分の考えを押し通そうとするアスルと秀次たちの違いはそこにある。アスルも自分勝手な正義を一方的に押し付けていると言えなくもないが、アスルは個人の利益ではなく世界の利益を見ている。
「てきとうなことを……」
保健室に生徒が入ってきたので、話は中断となった。
「望む情報はあったかい?」
「ええ、あなたたちが会長を利用しようとしていると判れば、それで充分です。失礼します」
秀次は保健室の扉を勢いよく開けて廊下に出た。
「……私も、君が奮戦しているのを見るのは楽しいよ……はいはい、どうしたの?」
古川にそのうち報酬を渡すと約束をして御影は音声データの解析をお願いした。結果として、やはり作り物だった。
古川の話を秀次もパソコン室で聞いていた。
「ま、古典的な一音一音をつなげて作ったいわゆる継ぎ接ぎ音声だよ。ただし面白いのはここから」
音声データの中身を見ようとしたところ、強固なプロテクトがかけられていたという。おそらくこのデータを改ざんされないため。
「そのプロテクトは僕が突破しました。だからこのデータをどう作ったのかも丸わかり。だけど不思議なのがこのプロテクト、とても高校生が作れるものじゃないんだよね」
外部の人間が作った可能性が非常に高いと古川は言った。その人間が誰かについては興味がないらしく、プロテクトを突破できたことに満足しているようだった。
「僕の仕事はこれで終わり? でもこれって、絶対に僕は知らなかったことにした方がいいよね」
「さすが。話が早くて助かるよ」
「怖いことには巻き込まないでよ?」
データが作りものだという証拠をもらい、二人はパソコン室を後にした。今回の件について漆原から得た情報を御影に共有し、今後の動きを相談した。
「どのみち、会長を説得するのは健吾だからな。俺たちにできることは限られる。この機会を利用して、逆に半崎たちから情報を抜き出すことができたら面白いんだけどな」
秀次は一つ、御影にふと思った質問をしてみた。さきほど、漆原が言ったことだ。
「もしも、会長が本心で海外に行きたいと考えていたら、俺たちはどうするべきだと思う?」
原因はアスルが関与しているとしても、生まれた思いは本物だとしたら。
「それは……」
それはつまり健吾の気持ちを優先するか月見の気持ちを優先するか。
「残念だが、俺たちに止める権利はないな。それにその決断をするとき、必ず生駒の顔が浮かんでいたはずだ。それでも海外に行くというのなら生駒は会長を止めるだけの理由ではないということだ」
筋が通っている。それが正しいのだろうなと秀次にもわかる。だが、きっと月見が本心から海外に行くと言っているとしても、健吾は止めようとするだろう。理屈じゃない。恋愛に理屈なんて必要ない。無理に理由をつけるなら、子供だからだ。
子供はまだ、別れというのに慣れていないから。
「本心かどうかは来週になって直接会ってからでないとわからないことだ」
考えても、仕方のないことだ。
教室に戻ったとき、二人は平野美穂に名指しで呼ばれた。
「おーい、御影君と清峰君。ちょうどいいところに。たこ焼き作るよ~」
「お! 演技があまりにも下手でたこ焼き係になった平野さんが作り方教えてくれるの?」
「御影君、まだそれ言うか。笑えないからね」
「大丈夫、平野さんの演技を見たらみんな笑うから」
たこ焼き作りの練習中、順番を待っていると四季に話しかけられた。
「傷、大丈夫だった?」
傷のことなどすっかり忘れていた。左腕には少しの痛みもなかった。
「うん。大丈夫」
四季は眉をひそめた。何かに納得していない様子だった。
「それなら、どうしてこんなに帰りが遅かったの?」
左腕の治療を見るからに、それほど時間のかかる治療ではないはず。他のみんなは文化祭の準備に気を取られていたから気にしていないが、岸本四季はしっかりと見ていた。
四季の目を見て、言い逃れができないことを察した秀次は相談も兼ねて月見のことを話した。月見が退学することをだ。
「四季、絶対に声を出さずに聞いてほしいんだけど……」
四季は言われたとおり声は出さなかったが、その分の目を見開いて見事に驚いていた。そして秀次の近くで声を潜めた。
「な、どうしてよ。理由は何?」
「海外の大学に」まさかすべてを話すわけにはいかない。「スカウトされたんだ」
「海外……すごいね、さすが月見ちゃんだよ」
その部分だけは名誉なことだ。喜んで我らが会長を送り出してもいいという考えになるのが必然にすら思える。しかし、四季はそうではないみたいだ。
「会長が海外に行くのは嫌?」
四季はこくりと頷いた。
「お祝いするべきこととはわかるけど、でも私個人としてはやっぱりここに居て欲しいな。大好きな友達だし」
それでも月見が海外に行くときは笑顔で送り出してあげる。四季はそう付け加えた。四季は仲間思いで友達を本当に大事にする。だからこそ、送り出すというのは辛いだろう。
「もし、会長が本当は行きたくなかったら、どうする?」
これは、滑り出てしまった言葉だった。言ってすぐに言葉を飲み込みたかったのだが、四季の耳には当然届き、秀次の肩を両手で握っていた。
「それって、無理矢理ってこと? そんなの絶対にだめ、月見ちゃんのためでもだめ!」
「わかったよ。例えばの話だ」
四季は止まらずに話した。
「それに健吾がかわいそうだよ。まだ二人、付き合って……付き合ってはいないけどさ」
「そうだな。辛いのはあの二人だ。だから俺たちは二人のことを支えることはあっても邪魔してはいけない。少し、静観していよう。まだ退学まで時間はある」
秀次は嘘をついた。四季を落ち着かせるために噓をついた。もう、タイムリミットはないというのに。
「このことは、他言無用だからね」
「……わかった」
平野美穂に呼ばれたので、秀次は四季の元を離れた。
その日の夜は、夏の残り香と考え事の過多で寝つきが悪かった。何度も眠る姿勢を変えては冷蔵庫を開けて水を飲んでいた。
そしてようやく、眠るというよりも倒れたという表現をしたくなるような眠りに入ることができたのだが、その後すぐに夢を見た。それも、見たことのある夢だ。
…………
……
葬式の作法はあの時に倣った。
とにかく静かにしているべし。
親族の方々にはお悔やみの言葉を小さな声で送るか、何も言わずいる。
焼香の作法を学んだ。
儀式的な作法は真似をするだけでいいから簡単だ。
本当に教えてほしかったのは、遺影の彼女の声をもう一度聞く方法だった。
それは誰も、教えてくれなかった。
…………
……
火の手が上がっている。西洋風の建物。十字架に磔にされた人間。
「この者たちには天罰が必要だ! 痛みを与えなくてはならない!」
磔にされた人間が炎に炙られていく。
今度はどこからともなく声が聞こえてきた。
「例えば、何としても勝たなければならない国同士の競争があるとしよう。君はどうやって勝利をもぎ取る」
続いて女性の声がした。
「敵国の内部崩壊を狙います。毒がよろしいかと。ただし、実際に毒が使われたと他国に知られれば我らの印象は最悪となり、その先の国益に影響を与えてしまう。ですので、言葉という毒にしておきましょう」
証拠は残らない。そして実働部隊は相手国の人間だ。
声が消えた。そして火炙りにされている人間の悲鳴に変わった。いつの間にか秀次の周りは炎に囲まれていた。
炎が揺らめき、人間の手の形を作った。そして再びどこからか声がした。今度は男性の声だ。
「さぁ、選択者よ。あなた次第だ。いや、あなたともう一人……」
…………
……
炎の手が秀次の顔面をわしづかみにすると同時にベッドから飛び起きた。
(くそ、またあの夢か)
深夜三時。秀次は何度目かの水を飲み、ベッドに座った。弾性で体が少し浮き沈みした。
(二回目……それもあんな強烈な夢を)
夢はこれまでの経験のどこかからか生成される。しかし、秀次はこれまでの人生でヨーロッパに行ったことはない。もちろん、十字架に磔にされた人間を目の当たりにしたこともない。
火事を見たことはあったが、それだけだ。それにもう記憶の奥底のことだ。
秀次は暗闇の中、呟いた。
「被験体と実験か」
関係がない。とは言い切れない。全校生徒を対象にしていると言っていたのだから、影響があってもおかしくない。
秀次は考えていた。何度も見る、自分の脳内で作られたとは思えない夢が、自分の能力なのかもしれない。そう考えるようになっていた。
(御影も言っていたな。何か体に異常ないか? って)
秀次は蹴とばしていたタオルケットを頭まで被せた。
苗代月見が退学すると宣告した月曜日はあっという間にやってきた。秀次と御影はこの騒動を利用してアスルから詳しい実験の内容や四季の能力について探ろうと思っていたところだったのだが、目論見通りにはことは進まないものだ。半崎はもちろん、一年生の二人も秀次たちの前に現れることはなく、探りを入れる隙など少しもなかった。
その間、健吾はあの手この手を尽くして音声の生徒を見つけ、彼らの本当の声を聞きだすことに尽力していた。その成果もあり、健吾は見事に言い渡された任務を遂げた。やはり、星雲高校の生徒で月見を嫌う者などいないということがわかった。
月曜日、健吾はずっとそわそわしていた。
「落ち着いてなんかいられるかよ。今日だぞ!」
言われなくてもわかっていた。秀次や御影にとってもこの月曜日は重要な日だ。御影の所属するカペラからも、苗代月見を止め、さらに実験の手法や計画などを入手しろとのお達しがあった。
「どっちみち、会長が来るのは夜なんだろ? そうあわてるなよ」
健吾の携帯に一度だけメッセージがあった。
月曜日の夜に退学手続きを済ませにいく。その後すぐに荷物を持って海外に飛ぶ。話があるのならそのときに。月見は健吾にそう言ったそうだ。まったく、健吾は話したいことが山ほどあるというのに。
「なるべくこの学校の生徒と会わないようにするつもりだな」
「俺は、絶対に会いに行くよ。飛び立つのなら滑走路しかありえない。そこで待つんだ」
健吾の目を見れば、既に覚悟が決まっていることはわかった。それでも、秀次は確認の意味も込めて健吾に聞いた。
「仮に会長が心から海外に行きたいと思っていたとしても、説得を試みるんだな?」
「ああ。色々と考えたけど、説得して折れるようならそれほど行きたいものじゃなかったってことだろう? だから、とりあえず説得はするよ」
それでもし、海外に行くというのなら、涙は流さず送り出す。
その説得の邪魔が入らないように、秀次と御影は動くつもりでいた。いざとなれば二人も滑走路に行き、アスルのメンバーの相手をするつもりだった。
(とは言っても、戦闘になったら御影が戦うしかないのだけど)
手伝おうとしているのに、当の健吾が説得のときは一人にさせてくれと言うものだから、そこが難しいところではあった。
「まぁ、生駒は俺たちのことなんか気にせず頑張れよ」
「ああ、協力してくれて感謝しているよ」
三人は昼休みに教室で話していたのだが、そこに思いもよらぬ人物が現れ、三人の会話に参加した。その人物というのが、半崎卓也だった。
「半崎、さん」
秀次はおぼつかなく言った。
「なんの相談をされているのですか?」
御影も警戒をしていたが、表情に変化はなかった。ここにいるのが秀次だけであれば今すぐにでもアスルとカペラとしての会話が始まるところだが、ここには生駒健吾がいる。だから、星雲高校の生徒としての会話をしなくてはならない。
健吾が会話を始めた。
「そうだ、副会長なら知ってるよね。苗代会長が退学すること」
当然知っているとも。副会長としてではなく、アスルとしても。
「ええ、知っていますよ。あの人と仕事ができなくなるのは悲しいですが、仕方ないことです」
それは苗代会長の決めたことだから。星雲高校としても、海外の有名大学に生徒を輩出するという名誉になる。止める理由はない。
「半崎さんは、会長を止めたいとは思わないの?」
秀次は探りを入れるべく質問してみた。
「止めはしませんよ。会長の意志を尊重します。止めるのはむしろ不親切にも思えます」
よくもそんなことが言える。アスルは偽物の音声まで作ってまで、苗代月見を我が物にしようとしているのに。と、言いたいところだ。
「あの人なら海外でも十二分に通用するでしょう。早く活躍を耳にしたいものです」
健吾から先ほどまであった気概が損なわれたように思えた。副会長の言っていることは、健吾からすると受け入れがたいが正しいことだからだ。
見かねた御影が話題を変えた。
「半崎さんはどうするんだ? 俺が思うに半崎さんも海外で十分通用する。海外の一流大学でも受験してみたらどうだ?」
それは明らかに、アスルとしての卒業後の身の置き方を問う質問だった。質問の意図は当然、半崎にも通じている。
しかし、半崎は曇りなきいつもの笑顔で答えた。半崎はアスルからこの学校に何かしらの任務で来ている。大企業から任務を一任されているのだ。御影同様、半崎も並の高校生ではない。
「そんな立派な人間ではありませんよ」
悪意のこもった横目で、御影を見やった。
「私には日本で成し遂げたいことがありますので……それでは、そろそろ授業ですので」
半崎がこの場に何をしに来たのか。それは二つの目的があってのことだった。一つ目はアスルとして秀次と御影に監視を怠っているわけではない。そう警告をしに来たのだ。二つ目は副会長として、健吾に正論を聞かせに来たということ。
半崎はそれを短い会話で達成して帰った。
「なあ、二人とも」すっかり弱気になった健吾の声だ。「客観的に見てさ、やっぱり会長は海外に行った方がいいんだよな」
たとえそれが、苗代月見の意思ではないにしても、その方がいいのではないか。結果的にはそれが苗代月見のためになるのではないだろうか。
「俺はたしかに、音声データの生徒を探して、本当のことを聞いた。だけど、月見のことを本当に嫌っている奴だって、きっといる。俺でもわかる。日本って特にそうだ。優秀なのが疎まれることだってあるって、知っている。だから……」
健吾の思考が散漫としてしまう前に、御影が待ったをかけた。
「お前の言うことは正しいよ。だがそもそも、どんな奴でも悪口は避けられないものだ」
たとえどれほどきれいな人間であろうと。雪のように純白だろうと、世の中の悪口からは逃れることなどできやしない。
「悪口があったら、他のところに行くべきというのが、お前の考えではないだろう。半崎さんは半崎さんの意見を言っただけだ。気にするな」
秀次もまた、健吾に勇気を持ち直してもらうために声をかけた。
「何はともあれ、会長に会って、真意を確かめないことには始まらないでしょう? 健吾はそのことに集中してよ」
「……ああ」
健吾の不安の残る返事を最後に、その場は解散となった。
月曜日、夜
午後の授業の時間はあっという間に過ぎ去り、太陽も完全に隠れた夜。健吾は既に滑走路に向かっていた。
秀次と御影は念のため健吾の要望を聞き入れるために、健吾には気づかれないように滑走路に行くつもりだった。必要があれば間に入るにしろ、今は食堂で時間を潰していた。
「生駒は大丈夫だと思うか?」
昼間、半崎に言われたことを気にして、月見に伝えたいことを伝えられないのではないか。
「大丈夫だと思うよ。健吾は意外と強いから」
授業中に決心は再び固いものになったらしく、秀次の見た限りではあったが、かっこいい目をしていた。
心配なのは健吾よりもやはりアスルの妨害だった。海外の大学への入学手続き等をアスルが手伝っているのであれば、漆原たちが見送りに来る可能性は高い。
「健吾がそもそも会長と話をすることもできない。そんなことにならないかな」
「そうならないために、俺たちがいるんだ。さてと、じゃあ俺たちも行きますか」
秀次たちの作戦は単純なものだった。
まず、影から健吾の様子を見守り、妨害も何事もなければ秀次たちもまた何もせずに帰る。苗代月見がどういう選択をしようと、手は出さない。
仮に漆原などのアスルのメンバーが出てきたとしたら、秀次たちも姿を見せる。秀次が先に出てアスルのメンバーを誘い出し、その後御影の登場だ。一年の二人(御影が言うには強化人間の二人)、飛鳥と秋草がいたらその相手は御影がする。漆原と半崎は秀次が相手をする。
もちろん、計画通りにいくとは二人とも思っていない。実際にはその場に行ってからだ。
「それじゃあ、先に行ってるよ」
「ああ、頼んだぞ」
秀次は食堂を後にし、一足先に滑走路へと向かった。御影は下準備があるとのことだ。西棟の下駄箱から靴を取り出すために、一度保健室の見える場所を通った。
廊下から見る限りだと、明かりは点いていなかった。不穏な空気だけが漂っている。
保健室を通り過ぎ、外に出た。第一グラウンドと第二グラウンドを横切り、外に向かう。運動部は毎回、練習が終わるたびにグラウンド整備をしているが、こうして踏み荒らしたり、体育の時間に使う度にその整備は本当に必要なのかと思ってしまう。
秀次は一度、そのことを健吾に聞いたことがあった。健吾の回答はこうだった。儀式みたいなものだから、気にしなくていい。
気にしなくていいみたいなので、今回も秀次は遠慮なく通らせてもらった。
(相変わらず、とにかく広い)
秀次は昔から、夜は好きな方だった。夜は世界が広がった気がするのだ。特に星見の島では、空を見上げたときに、海を見渡したときに、永遠の世界を感じることができるから。闇が奥行きを無限に広げてくれて、広大な世界に一人、ポツリとその場にいる感覚を味わえるから。そうすると自分が抱えている悩みなどちっぽけなものに思えるから。
だから、夜は味方。秀次はそう思っていた。しかし、今夜は違った。
それは突然の出来事だった。真の暗黒の世界に踏み入れたと言うべきか。周りの情景からスルスルと現実感が引いていったのだ。
そして何者かに、話しかけられた。
「どうしてお前はそこまで、生駒健吾のために行動する」
脳内に直接話しかけられている。心に直接問われている。
「どうして他人の幸せに手を貸す」
星も見えなくなった暗黒の世界を、秀次は恐る恐る歩く。
「健吾は友達だからだ。会長も友達だからだ」
「友達だから? 違うだろう。お前は本当に生駒健吾の幸せを望んでいるのか?」
その声は、まるで秀次の内部をずかずかと土足で踏み荒らすように入り込んでくる。土足厳禁の立て札があろうと関係ない。
「本心は違うだろう。お前はお前と同じく、世界の人々に不幸になってほしいと思っている」
声の発生源がわかった。自分自身だ。その声は秀次の胸の中にある正体不明な真っ黒な感情から発せられている声だ。
声は、本心を尋ねてきている。
「汚い心を受け入れろ。いくら友のためだと自分を騙したところで……」
真にお前の心は満たされない。闇の器には汚水でないと貯まらない。お前の心にあるのは光の器ではないのだぞ。
「共にいこう。お前がする善い行いは見ていて吐き気がする」
「黙れ!」
秀次は正体不明の感情に叫んだ。否、正体不明ではない。それはちゃんと、自分の奥底にある悪意だ。
これまでの人生で、秀次が育てた悪意だ。
「お前の出る場面じゃないんだよ。さっさと消えろ!」
秀次の叫びに、悪意は後退した。視界に現実感が戻って来る。
関節が無音のまま壊れたみたいに、秀次は気づかぬうちに膝をついていた。秀次の耳に、残滓のような小さな声が語りかけた。
「いつまでも、先送りにできると思うな」
私は心の中にある。お前の心が複製を失敗して生まれたガンのようなもの。離れることなど、できぬ存在。
秀次はしばらく動けなかった。痺れ薬でも打たれた感覚だった。
「……動け、今は、余計なことを考えている場合じゃない」
心の水面を静めた。いつもの一定の波紋を浮かべる。
秀次は決死の思いで立ち上がった。






